(2001年のほぼ原文のまま記載しています。) 水道編
金沢アウトレットの海辺
犬とともに、野山踏み分け行く道を、人は「ご近所トマソン隊」と呼ぶかどうかは知らないが、とにかく行く、なんとしても犬が行くから行く。
前回は、富津岬に佇む二人と一匹であったが、今回のテーマは最も古い歴史を持つ「水道」としましょう。
水道は太古の時代から、人間が残してきた重要な遺跡群のひとつです。
では、本当に自宅周りのご近所に行きましょう。写真は、横浜の子安通にあるポンプ井戸です。子安は昔からの漁師町で、第一京浜道路沿いにある町中にあります。私が子供の頃には、この付近に進駐軍のベースがありました。
(ちなみに、昭和20年代初頭の敗戦直後は進駐軍でしたが、それが駐留軍になり、在日米軍に変わっていきました。戦後の歴史ですねえ)
ご覧のように確かにポンプ井戸ですが、何か垢抜けているように感じられます。色も形も外国製ぽいものです。「sun-tiger」と書かれているのも、何か米軍基地の名残のように感じます。(実は所有者の趣味だったりして・・・)
子安の手漕ぎポンプ 2000年2月9日
子安の手漕ぎポンプ 2000年2月9日
写真の、いかにも日本的なポンプ井戸と比べてみてください。(浦島町にある慶運寺というお寺さんにあった井戸です。でもこの地域の井戸は、海が近いせいか海水が混じり飲料水に適さなかったと、ものの本には書いてありましたが?用水だったのでしょうか?井戸と言うのは結構謎です)
でも、この西洋井戸ポンプのコックレバーか、ハンドルかで、どうやって使って汲み出すのでしょう。また、前にある洗い場の広さはどうでしょう?馬でも洗えそうなかんじですけどね。明治の時代ならばそのような洗い桶があったそうですが、子安じゃあねえ?それに時代が昭和初期のような気がするし。
浄瀧寺の井戸 2001年1月7日
浦島町の海寄りのやや高台のあたりは、多くの寺院が密集しているところで、ヘボンさんが宿舎として使ったお寺さんとかが多く、見所一杯です。
宗興寺の「神奈川の大井戸」も、横浜開港時にはアメリカ人宣教師のシモンズさんとかヘボンさんが飲んだと言われるものです。徳川二代将軍秀忠が当地に休泊した時に、茶の湯として用いられ、明治天皇の御東幸の折には御用水として用いられた名水だとか。
宗興寺の「神奈川の大井戸」 2001年1月7日
浦島町と言う町は、ウラシマ伝説や補陀落伝説が存在する町です。ですから、町のロード・ガードには亀さんが乗っています。(^o^)丿
浦島町の車止め 2001年1月7日
夜ともなると街路灯は天保銭の波のデザインです。
浦島町の街路灯 2001年1月7日
御近所トマソン隊のメンバーから、忘れてはならないよ!とのご指摘がありましたので、東大駒場寮の曰くありげなポンプ井戸を掲げておきましょう。廃墟マニアには、バックの駒場寮のほうがそそられるでしょうが、こちらはまた章を改めまして、ご紹介いたします。
今はもう存在しません。
東大駒場寮 2001年4月1日
東大駒場寮の井戸 2001年4月1日
東大駒場寮 2001年4月1日
さて地元の神奈川、鶴見では鶴見川は大きな存在です。鶴見川は、史実によると海水が逆流するため、農業用水としては利用できませんでした。西岸(今のトマソン隊がいるところ)では、湧き水を使った溜め池の利用、東岸では多摩川の水を引いた二ヶ領用水(にかりょうようすい)を利用していました。私の高校の母校がある三ツ池公園は、その溜め池のひとつで、
池のそばに「千町田(ちまちだ)に引くともつきじ君が代の恵みも深き三ツ池の水」と刻まれた古い歌碑があったそうですが、そんなの覚えていません。(「うさお」はこれ、得意です)
昭和34年、溜め池3.5haを含む約17haが県立公園に指定され、その後面積も約30haに増え今に至っています。体育の授業で、三ツ池三周のマラソンはきつく、昼飯なんぞは、ろくすっぽ食べられなかったのを覚えています。(こういうのは覚えているのね、「うさお」は・・・)
二ヶ領用水 2004年11月23日
二ヶ領用水 2004年11月23日
二ツ池は良くザリガニ釣りに子供を連れて行きました。獅子ヶ谷にある葦や葦切りのある風情のある池です。当初はひとつの池だったようですが、元禄時代に当時の駒岡村側と獅子ヶ谷村側の東西に区切られ、二ツ池となったそうです。これ以外にも、鎧ヶ池(現国道一号線陸橋下)、寺谷大池(現弁天池付近)、成願寺池(現総持寺内)、房野池(現寺谷市営プール)などがあったそうです。
写真は、新子安の国道一号線の沿いにある湧き水です。ここはいつも自動車が列をなして止まり、ポリタンクやペットボトルに詰められるだけ詰めていきます。この日は夜でしたので、撮影が出来ました。どう見てもあまり飲みたくない水のように思うのですが、結構ベンツやBMWのお金持ちそうな人も来ています。どうやら料亭の人も来ているようです。昔は東海道の峠にある泉なので、大変重宝がられたでしょうが・・・。
子安、二国沿いの湧水 2000年10月28日
子安、二国沿いの湧水 2000年10月28日
さて、溜め池、湧き水に話は少しそれましたが、横浜の水道の歴史は開港以来のもので、日本の水道史といっても良いくらいです。水道事業はイギリス人設計士パーマーの手になるものです。明治20年には近代水道が完成します。最初の水道は現在の津久井町の道志川(相模川の上流)から取水し、野毛山浄水場まで、48kmの距離をイギリスから輸入した鉄管を通しました。
当時は普通の家まで水道がきていません。町角に獅子の頭の格好をした共用の水栓が設置されていたそうです。そういえばこの間、大原隧道に行ったときに、このようなものを見ました。これがその名残かもしれません。
大原隧道獅子頭共用栓 2001年2月25日
水関係といえば、強引だけど相模川の田名にある河川敷に、巨大な配水管と書かれているコンクリートの構造物がありました。
高さは30m位はありましたでしょうか、この周囲の地域の湧き水を集めて相模川に流していたようです。右の写真は現地踏査するトマソン隊員たちですが、彼岸の樹木の大きさと、釣り人の大きさから、そのスケールがお判りになると思います。
相模川配水管 2000年5月7日
横浜市の「横浜水道創設百周年記念写真集」(販売されていない)の中に、大原臨時揚水ポンプ場の記事(昭和14年)がありますが、津久井郡向原にあったということで、これに酷似しています。津久井湖から水が取れないときに、相模川から取水するためのものです。場所も近いし・・・。
その当時の写真を写真集から転用させていただきます。
大原臨時揚水ポンプ場 似ているよなあ 横浜水道創設百周年記念写真集より
大原臨時揚水ポンプ場 すごく似ている 横浜水道創設百周年記念写真集より
相模川配水管 2000年5月7日
相模川 2000年5月7日
さて、また話を横浜に戻しますと、から高島嘉右衛門(高島町の駅名で有名)らは、水道建設を始めています。多摩川から二ケ領用水に引き込んだ水を鹿島田から取り入れ、木樋で約16km先の横浜桜橋まで導水する工事で、明治6年に完成しています。
その後、鹿島田から神奈川までの導水木樋を掘り起こし老朽化したものは新しい用材に取り替え、また鉄道の下を通る個所には鉄管を使うなどの改修工事が行われました。この当時水道を使っていた人は、横浜の人口の約半分の3万4千人で、残りは水売り業者や井戸を使っていました。
そして先程のお話の中の、工兵中佐ヘンリー・パーマーが登場します。彼は土木から天文まで幅広い知識を持っていた人物で、どうやら私のような人物だったようです。
まっ、少なくとも鶴見、神奈川は、当時の水道の通り道であったようです。(-_-;)
と、今までが枕で、いよいよ本論です。鶴見配水池、配水塔は、鶴見の馬場町では「ねぎ坊主」と呼ばれている配水塔だそうですが、私の子供の頃にはもくれんの花の芯のような形から「もくれん塔」って呼んでいたと思います。
飲料水を高台に送るために、昭和12年に建築されたもので、高さ約26mの配水塔は、怪人20面相が好んで登りたがるような塔で、いつもワクワクしながら眺めていました。しかも蔦に覆われて、いい味を出しています。
鶴見配水塔 2000年2月26日
鶴見配水塔 2000年2月26日
これも、「横浜水道創設百周年記念写真集」からの拝借になりますが、昭和12年当初の鶴見配水塔の威容をご紹介します。
鶴見配水塔 昭和12年(1937年)
ご近所トマソン隊は、世田谷に住むM氏と和田堀給水場と駒沢配水塔に行ってきました。
和田堀給水所は、世田谷区大原の京王線代田橋駅を降りて、すぐの所にあります。浄水場の配水池として、千代田・渋谷・世田谷・港・目黒区等に配水しています。
大正13年(1924) 2号配水池完成
昭和 9年(1934)1号・配水池完成
昭和36年(1961) 第一配水ポンプ所完成
昭和41年(1966) 第二配水ポンプ所完成
(和田堀ポンプ場パンフレットより)
ここはそんなに古い感じはありませんが、やはり聳え立つものの大きさを感じます。人間が作ったもので、大きいものはやはり感動します。
この日は連休中ということもあって、年に一度の施設の公開日でした。ラッキー!!
でもここで新たな事件が・・・。なんとあのトマソン隊の「ライ」隊員が入場を断られたのです。彼は門のところで待つことにしました。この当時に葛飾のほうで、青酸カリが1kgも盗まれた直後でもあり、彼の人相の悪さがそうさせたのでしょう。場内は桜が満開でした。花見も出来るようですが、警戒態勢は大変厳しいものでした。
配水池は地上から15mくらい上にあるらしいのですが、(施設の上のほうから漏水しているので判ります)これが破壊されたらどんなパニックになるかと思うと、別な意味でワクワクします。
土木構造物に対していつも思うことですが、これらの意匠はなんでいつもレトロなんでしょう?でもこの古さがたまらないんですけどね。
和田堀給水所 2001年4月1日
和田堀給水所 2001年4月1日
和田堀給水所 2001年4月1日
和田堀給水所 2014年1月26日現在
和田堀給水所 2014年1月26日現在
和田堀給水所 2014年1月26日現在 工事中
和田堀給水所 2014年1月26日現在
次に訪れたところは、駒沢給水塔です。正式には「東京都水道局駒沢給水所配水塔」というそうです。今でも、実際に使われているそうです。
M氏の話では、世田谷区の歴史的建造物として、残されているのだそうです。施設の前には三井のニュータウンが広がり、新旧の時代の対比がなされています。
塔の高さは23m、内径14m、塔一基の容量は2775立方mとのこと。二つの塔が並び、間を橋で繋いでいます。建設当時は、15万人分の給水能力があったといいます。
塔の屋上にはうす紫色のグローブ電球が配置されています。今ではいろいろな所が壊れているようですが、もはや部品が手に入らないと言うことで、そのままになっています。
この給水施設は、水道工学の第一人者、中島鋭治が設計したとあります。この事業は、「渋谷町」が独力で行ったものらしく給水所の構内に、「渋谷町水道布設記念碑」が残っています。
水源は北多摩郡砧村大字大蔵地先(現世田谷区)の多摩川の底から伏流水を汲み上げ、それを浄水して、4キロ 先の駒沢給水所へ送り、さらに4・5キロ先の渋谷町まで、自然の傾斜を利用して送水したとのこと。なんと今のキャロットタワーの前の道路は、駒沢配水塔から渋谷町へ送水本管を埋めた水道道路だったのです。閑静な住宅街の後ろに、この塔があることで、なにやら迫力のある町並みになっています。ここに住んだらどんな風に四季を感じるのでしょう。(2001年4月1日)
駒沢給水塔 2001年4月1日
駒沢給水塔 2001年4月1日
駒沢給水塔 2001年4月1日
駒沢給水塔 2014年1月26日現在
駒沢給水塔 2014年1月26日現在
駒沢給水塔 2014年1月26日現在
さて、今回の「水道」は如何でしたでしょうか? 少し真面目に取り組みすぎましたでしょうか。次回は手をちゃんと抜きます。手持ち題材としては、 「隧道」を考えています。
レポーターはうさおでした。(^o^)丿
参考に世田谷区の地図を添付しておきます。後で詳しい報告をするつもりです。