犬とともに、野山踏み分け行く道を、人は「ご近所トマソン隊」と呼ぶ。さて、時は2000年の8月8日のこと。東京湾横断道をひた走り、富津岬に向かう二人と一匹がいた。ウミホタルでは、同族かと思い、相手のお尻の匂いを嗅ぎに行ったライ君は、繁々と眺めていたが、その内飽きたのか、ぷいとそっぽを向いていた。



 今回の「ご近所トマソン隊」は富津砲台跡がターゲット。なにせ、「ご近所トマソン隊」はあまり予算が無いので、せいぜい富津止まり。どこかの御仁のように、広島に取材なんてことは出来やしません。さて、少し歴史的なことを紐解いてみましょう。
 『富津市史』によると、富津砲台は元洲砲台ともよばれ海辺のそばに築かれ、砲台建設には周囲の砂を盛り上げ、砂の崩壊を防ぐため、二間塚(ふたまずか)(元飯野村)あたりの真土で覆ったといいます。砲台は扁平五角形の堡塁で、面積は一万八、〇〇〇平方メートル、堡塁の周囲は幅二〇〜三〇メートルの濠がめぐらされ、海水を引き入れて砲台の警備としています。明治十四年八月起工、三年後の十七年六月に竣工した。富津・観音崎をむすぶ帝都防衛ラインの一環として築かれたものです。
 日清戦争を予感した政府は、二十五年、二八センチ榴弾砲(りゅうだんほう)六門と十二センチカノン砲を据えつけ、戦争中は戦闘配備につきました。しかし日露戦争中は、二八センチ榴弾砲の二門は撤去され、芸予要塞と同じく、旅順におくられました。大正四年、砲台は旧式となり、除籍されたとあります。
 こんな砲台、一般の方には興味がないと思っていましたが、なんと以下のような歴史ツアーなどが組まれていました。
 歴史アナリスト・外川淳先生と一緒に現地検証を交え歴史の真実を探っていくツアー。
《四谷からバス往復・木更津集合可》 海ほたる〜木更津〜富津岬・富津砲台〜造海城跡〜大房岬〜崖の観音〜館山城跡(市立博物館)会員 14,700 円オープン参加 15,750 円(2000年当時)
房総側の幕末砲台跡をたどり、戦国の安房・里見氏の歴史にも迫る。




 さて、砲台の遺跡は岬の丘の中に点在しています。探検に行ったのは夏でしたので、もっとも悪い時期に行ったことになります。夏草が繁茂して、どこが遺跡やら判らない状態です。
 冬なら木々の葉も落ちて、もっと探し易かったかも知れませんが、草や茂みの中から遺跡を探し出すのは、パズルのようで面白く、皆さんには是非夏をお薦めします。
 大きな円形の堀の中とそれを取り囲む平地の中に、砲台やトーチカが配備されています。
 写真は堀の中の小高い丘の上にある、多分機関銃の台座か。一見バーベキューの炉に見えますが中に焦げ跡がありませんから違いますね。でも今までそうしてやろうと思った人はいないのでしょうか。
(かっはっはっ・・・)
 そうするとこれはカノン砲?の台座かも知れません。でも今はテーブルとして、お弁当を載せられているのでしょう。





 この砲座の近くにある弾薬庫への入り口です。巨大なベトン(コンクリートのことです)の割に小さな弾薬庫です。如何もこの下に弾薬庫以外の何か司令室とかがあったのではと、推察されます。現地には明かり取りか息抜きかの、変な筒が地面からにょきにょきと立ち並んでいます。
 この弾薬庫らしきところの入り口には写真のような奇麗なレンガが積まれており、なかなか趣きがあります。この積み方はフランス積みであり、明治初期のものらしく見えます。
内部の壁のイギリス積みと明らかに異なります。このことから、後で内部の施設を埋めたであろうことが判ります。
ふっ、ふっ、ふうう、コナン君のような私。









 この要塞城の様な丘を過ぎると、そこに岬の突端に向かう白い長い橋が見えてきます。写真愛好家にはたまらない構図でしょう。ここには悠然と泳ぐ亀がいました。家の犬にも見せてあげました。でも、犬はノーリアクションでした。(._.)





 ここを渡るといよいよ秘密の隠れ要塞です。目を凝らして辺りを捜し回ること10分。この要塞岬に侵入する前に、腹ごしらえをした食堂で要塞の散策地図をもらいました。(こんなものをあの地域の食堂で配るなんて、何か凄い地域だなあ)
 密林の中から突然現れる白亜の遺跡。もうここから、銃眼が見えていかにもトーチカ。雰囲気、雰囲気。この草木に囲まれた感じがやはり夏じゃないとね。



 この門のようなところを抜けていくと、いよいよ蒲鉾トンネルだ。
 ベトンの厚さは約1bちょいと。海側には壁があるが山側には無い。まだ飛行機が戦闘に用いられていない時代の、敵は海からしか来ない時代のものだったのでしょう。
 ここは今の時代、格好なリストラサラリーマンの隠れ家になるらしく、入れないように入り口は閉鎖。でも中の白砂は乾いていて居心地よさそうだった。いや、ここに隠れ住もうなんて思いませんけど、兵士にとっては夏は地獄だったのかな。上空からは戦艦の艦砲射撃で弾は飛んで来るはで…。
 でも、ここは何に使われていたんでしょう。司令部にしては海が見通せないし、何か狭いし、何かの武器を収納していたのかしらん。でも、武器と言っても榴弾砲かカノン砲、それとも三八式軍用銃か?明治の始めに上陸して来る敵を想定して、どのような戦いをしようとしていたのでしょう。





 さて、よい子の皆さん、お待ちかね。ガンダムの登場ですよって、そんな訳ないだろう。(一人突込み)
でも似ていますねえ。また細部にわたっていい味出して、本当、いい仕事していますねえ。
このキノコのような形のトーチカは、前から見たほうが無気味です。
なにやら巨象の様にも見えます。
 でも兵士達はここにどうやって辿りついたんでしょう。銃弾の飛び交う中、このトーチカ以外ではバッタバッタやられちゃうね。
 コンクリートの質はあまり良いものではありません。大東亜戦争の時代では役に立たなかったしろものだろうな。
 しかし、こんなもの子供の時代でも見たことがないのに、ノスタルジーを感じるのは何故だろう。
それが人の手に成る廃墟の持つ哀愁って奴ですか。(゚-゚)





 この写真はなんでしょうか。
 蒼い空、青い海、白い砂、典型的な海岸の風景ですが、まあ、真ん中辺をよ〜くご覧ください。
ほら、何やら灰色の筒のようなものが見えていますね。
それが問題です。答は次をご覧ください。



じゃーん。
 大ガンダム、大魔神です。圧巻ですね。この施設は結構探しました。海岸ペタを車で右往左往しながら、やっとです。ただこの地域は非常に狭い地域なので、歩いて探してもそんなではないでしょう。





 富津はその名が示すとおり元は漁師町だったでしょうが、いつの頃からか軍事施設ができ、その割に町の活気はそれほどでもない地方の町です。東京湾横断道が出来ても何も変わらない、それでいて町内施設は金が掛かっている町のようです。
 心残りなのは、写真の大東亜戦争で用いられた高射砲跡地を見れなかったことです。
(写真提供 日本土木工業協会 『建設業界』vol.49 no.7 通巻578号 2000年7月号)



























 はい、お約束の番外編です。
 富津は確かに、かつては漁で栄えた町だっと思います。バブルの全盛期には、工場の誘致などで賑わいを見せたのしょうが、いまは道路脇に広い敷地が緑に被われているだけです。
この町は何をして食べているのかなあ。
ベットタウンでもないしね。
 と言うわけで、家の奥さんが大好きな生活系廃墟のご紹介です。
町が漁で殷賑を極めた時に、町でもっとも栄えたであろうのが、この映画館です。
今は見事に廃墟ですが、このうだつの様な換気塔の屋根が銅板葺で、しかも西洋風です。この周りは一皮並べの家が建ち並ぶその裏は畑が広がっていました。
つい最近まで営業していたようで、それも何か哀れというものをそそります。





さて,今回の富津砲台は如何でしたでしょうか?
ご好評だった場合には、次回は世田谷駒沢給水塔の予定です。
レポーターはうさおでした。



 念のため、富津岬の地図を添付しておきます。