青森紀行その3 華麗なる庭園 白沙村荘
うさお&Cacco
宮越家の庭園を語るには宮越正治について知らなくてはならない。先代要三郎が大石武学流宗家高橋亭山が手掛けたとされる庭園に、更に美的な手を加えたのだ。
この庭園は静川園と言います。静川園の名前は、尾別(おっぺつ:アイヌ語から来ている)が「静かに川の流れるところ」という意味に由来します。大石武学流庭園、枯山水庭園、池泉庭園の三つの庭園で構成されています。
パンフレットより全体図
静川園の池泉から詩夢庵を見てみます。屋根は「宮越家のステインドグラス」の項で掲示した大正元年の写真でも鈑金葺きのように見えます。また戸袋には鏝絵があるように見えます。 母屋と詩夢庵に挟まれた格好で土蔵が存在しますが下部は海鼠壁です。
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:シン・ドクガク第80号神田ごくら町職人ばなしの左官の項を参照されたい。
達磨堂から詩夢庵を望む 2024年10月14日
それでは大石武学流庭園を見てみましょう。弘前を中心とした津軽地方には多く見受けられるそうです。兵学者の山鹿八郎左衛門が関与したことから「武学」と名付けられたと伝えられています。忠臣蔵で有名な山鹿流の陣太鼓ですね。
石がV字型に配置され、手前に基点の石臼下部が置かれています。何故碾き臼を置いたのかの説明もあったのですが日にちが経つとみんな忘れちゃう。右手の蔵の前に手水石、左手の先に礼拝する岩木山を模した石が置かれています。
左手奥の山燈篭は「武学流石燈篭」と呼ばれるものでは無いでしょうか。
V字型の石の配列 2024年10月14日
禊の時の手水石? 2024年10月14日
このようにお供え物をして礼拝 2024年10月14日
中央やや右の石が岩木山か?奥に武学流石燈篭 2024年10月14日
詩夢庵の前にあるこの灯篭について、詳しい説明がありましたが、心が小川三知に向いていたので何も覚えていません。
おでんのような灯篭 2024年10月14日
枯山水庭園は宮越正治が力を注いだ庭園です。黒玉石を敷き詰め水の流れに見立てた庭園です。昭和の初めに改庭が行われライオン石も加わりました。
静川園庭園を望む 2024年10月14日
中央にライオン形の石があるのにお気づきでしょうか 2024年10月14日
これです!ライオン石 2024年10月14日
黒玉石を敷き詰めた枯山水庭園 2024年10月14日
目線を右の方に移すと池泉庭園が見えます。
詩夢庵から心字池を望む 左手の灯篭は織部燈籠か? 2024年10月14日
よく寺院の山門に置かれている「不許入葷酒山門」と刻まれた「」は、普通の庭園ではあまり見かけないものです。
戒壇石 2024年10月14日
これが戒壇石だよ 2024年10月14日
日本画家・橋本関雪の京都東山に造成した国名勝「白沙村荘」に影響されたと、ガイドの澤田さんから説明されました。
白沙村荘 2024年10月14日
孫も庭を駆けずることなく、大人しく庭を鑑賞していました。
雪見灯篭に近いものか 2024年10月14日
池泉庭園は庭に湧いた水を満たした池を配置した池泉庭園です。ここには、かつては「松濤亭」という茶室も存在しました。その茶室から「西山」と称する小さな築山を望み、更にその先に津軽平野が望めます。
十三重塔や仏堂「達磨堂」は、昭和初期に行われた改庭の際に新たに追加されたものです。達磨堂に安置されている木彫達磨像はは元弘前の長勝寺にあったものとされています。
静川園の碑 大正十五年晩秋友人安達謙蔵書 2024年10月14日
池の橋 2024年10月14日
十三重塔と仏堂「達磨堂」 2024年10月14日
「松濤亭」茶室跡 2024年10月14日
茶室からの眺めはこうあったであろう 2024年10月14日
仏堂「達磨堂」2024年10月14日
木彫達磨像は見ることが出来ません 2024年10月14日
堂の周りの木枠は耐震補強か? 2024年10月14日
宮越家を本格的に知ろうとするならば、田辺千代さんの様に毎年のように訪れ、宮越家の方々と親しくなり、色々な情報を仕入れ、未知なる部分を分析しなくてはなりません。