個展 深堀雄一
             終わりのはじまり・・・・
                            雅子

 
深堀雄一氏とは
 深堀鋭(雄一氏御子息)

 父が亡くなる半年ほど前のことだ。両親が長野に建てた別荘に、私は二人を送り迎えする役を担っていた。母は運転免許を返納し、ガンコに運転し続けていた父が酸素吸入器を常備するようになって、運転がアブナイと兄が言い出してから、年に2回ほど車の運転手という仕事が回ってくるようになっていたのだ。
 父と息子なんてそれまで面と向かって話したこともなく、まして次男の私はテレビディレクターだった父と同じ映像の仕事についたので、なおいっそう話すことを私は嫌った。私の制作した番組が放送されると、父はハガキや短い電話で感想をよこすのだが、多くの場合それは内容批判であり、まぁはっきりいえば素直に受け止めることのできるものではなかったのだ。
 10月のその日は別荘を午後1時過ぎに出発して両親のマンションがある横浜まで帰路のドライブで、父は助手席に座った。今後の別荘の維持をどうするとか、昼飯はどうするとか、たわいもない会話をポツポツと続けていた時に、どんな流れでそうなったのか覚えていないのだが、父が「オレの人生はけっこうドラマになるんだぞ」と言い出した。こうして父の若き日の出来事を初めて聞くことになった。覚え違いもあるかもしれないがその話をさせて頂く。
 父・雄一のこと。名門鉄鋼会社の役員の家に生まれた父は、おそらく金銭的には何不自由なく若い頃を過ごしたはずだ。当時の若者の常として学生運動に熱狂した。父は87歳で亡くなるまで、代々木駅やその近辺で自身が勤務していた公共放送の経営を批判するビラを撒いたり内輪で言論活動を続けていた。2015年に国会議事堂前で行われた12万人規模の安倍政権批判デモにも参加した。若くして飛び込んだ運動だったが最後は筋金入りの活動家だったのだ。大学を卒業した後、身元調査の緩かった当時の公共放送になんとか就職することができた。ここから父の人生は「劇的に」なっていったという。峠の釜飯で知られる横川のサービスエリアで休憩をとって走り出した車の中でのことだ。
 「おれは自分の思想を深く掘り下げて、みなを啓蒙するために番組をつくっていたんだ」簡単に言えばそんな内容のことを父は話し始めた。後に遺品を整理してみつけた資料によると、父は30歳前後で赴任した長野支局の労組でどうやら指導的な役割を果たしていたらしい。気骨ある局員が制作した反戦を訴える番組に上層部が難色を示した時、父は上司の部屋にのりこんで放送を中止しないように直談判したみたいなのだが、妥協のない交渉が労組仲間の評判を呼んだ。自分でも日米安保への反対や女性の社会進出などのプログラムを積極的に開発して、日常会話では割と抽象的で乱暴な飛躍をする父だったが、公の場では理論整然と相手を論破するので「長野支局に威勢のいい男がいる」と仲間内で信頼を勝ち得ていった様なのだ。
 「そんなとき敦子に会った」。敦子とは母の名前だ。母は長野市内有数の地主の次女で地元の民放に勤務していた。父は高度成長の波にのってあの悲惨な戦争体験を忘れてしまうかのように浮かれたこの国の放送の在り方に、強い危機を抱いていたみたいだ。いくつかの番組のストライキを先導して内部でオルグを積極的に行っていたという。その時は市内の放送局労組全体で放送中止も辞さないというピケの最中で、会社の説得にひとりまたひとりと脱落をしていった中で、最後まで残った一人が母だった。それがふたりの出会いだった。もちろん結婚は母方の親族から激しい反対に遭いかけたのだが…母の義理の兄で地方銀行勤務の叔父が、深堀家の家長(祖父のことだ)が大企業の役員であることを理由に説得を試みて事なきを得たというのだから、劇的というよりまるでコメディ映画のような印象を受けた。
 だだ父は依然として会社にとってやっかいな存在であり続け、普通よりかなり長く地方勤務を続けることになったそうだ。ちょっと説明すると地方で数年経験を積ませて腕を磨かせ、脂ののりきった頃に東京に戻してメインの番組で活躍させるというのが公共放送の人材育成システムらしいのだが、父はいわば島流しになったまま。しかも当時の長野支局はラジオ番組しか制作していなかったので、メインストリームから外れてテレビディレクターとしてのキャリアをスタートさせたわけだ。だが前述の通り、父の目的は啓蒙活動だったから「意気消沈することはなかった」。その後、長野支局からも放逐され(当時の組合資料によれば長野支局の治安を守るために異動人事が下ったということだ)東北の支局を転々とする。当時の資料を読むと、父が異動になったことを長野の労組ではたいへん論客の損失とみていた節がある。いずれにしても長野で生まれた二歳違いの兄と私は、こうして仙台を拠点に幼少期を過ごすことになった。兄が生まれたとき父は名前を紅志(こうじ)とつけようとしたのだが、もちろん思想的な信条がもとになっている。だがさすがに祖母がガンコに反対して創志(そうじ)という名前に落ち着いたのは良かった。因みに私の名は鋭(さとし)と読むが人生で一度も正しく名を呼ばれたことがない。
 父は40歳を過ぎてようやく東京勤務を命じられることになった。「かなり遅い東京への召喚」だったという。浅間山の辺りを走る車の助手席に座りながら父が語り始めたのは「女性手帳」というEテレ(当時は教育テレビ)の番組の立ち上げに参加した時のことだ。「俺がやりたかったのはこういう番組だった」。その番組をウィキペディアで検索すると「インタビューメインの家庭婦人向け教養番組。文学・芸術・科学・芸能など幅広いジャンルから各界一流のゲストに登場してもらい、新鮮な視点でその人物像と話題を浮き彫りにする」とある。父は社会の弱い立場の人たち、つまり女性や子どもや貧困世帯や障害者の声を放送を通じて伝えることが使命だと考えていた。女性の社会進出を促す目的のこの番組を私はみたことがないので、本当にそんな内容を剥き出しにつくっていたのかは解らない。ただ父は人間の根本は善だと考え、人の理に背くことを本当に嫌った。特に戦争について。私が子どもの頃に戦車や戦闘機のプラモデルに夢中になると渋い顔をした。プラモデルで機関銃を作ろうとしたときは本気で怒鳴られた。退職した後も滋賀県にある障害者施設に定期的に寄付を続けていた。自ら信条とすることがテーマの番組では出演者の人選、カット、ナレーションひとつ妥協をしなかっただろうから、上司からすればかなり面倒なテレビディレクターだったろう。自分が手がけた番組は、母や親戚、周りの人に必ず見るようにと告知を怠らなかった。だって父にとって番組を作るとは啓蒙活動だったのだから。引退してからもずっとテレビディレクターという肩書きを名乗っていた。テレビの仕事ではベテランになると全体の管理をするプロデューサーになるのが普通なのだが(私がそうだ)、あくまでも現場の目線からの発信=活動にこだわったのだと思う。
 八王子のインターチェンジ付近で、私は父が制作した番組をひとつだけ見たと話を振った。Eテレで今も放送されている日曜美術館という美術番組で、前衛生け花作家・中川幸夫を撮影した回だ。「生きることすべてが花である」。「ああ、あれな…あの人は良かった」…生け花の端正なイメージを覆して腐乱した花の豊穣な匂いまでも塊として器に生けてしまう。そういう過激でシンプルな創作の世界を、父はこよなく愛していた。祖母がプロの画家であったことも影響していたのだ。いま主を失った長野の別荘は私が定期的に出向いて管理をしているのだが、祖母の油彩画と父が手慰みに描いた色鉛筆画が並んで飾られている。祖母の絵は色彩が溶け合い、描く対象がぼんやりと色の海に浮かび上がる具象画だ。父の絵は抽象画だ。画面の隅々まで色のドットを打ち込み、面全体で印象を表現している。おおらかなようで繊細な画風は、まるで山下清のちぎり絵のように。父は祖母が展覧会を開く前に絵の寸評を加えることがあった。「もっと激しい感じでいいんじゃないかなぁ」「あらそぉ?」みたいなのんびりしたふたりの会話を覚えている。
 夕方6時過ぎに横浜町田インターチェンジを降りてマンションに到着した。母は体を悪くしていてほとんどの時間は目を閉じていた。父が胃がんの手術をしてしばらく会社を休んだ時、母は高校教師の仕事をしながら病室に通って世話を続けた。毎日100キロ近く車で走っていたらしい。退院してからも父は自宅療養がしばらく続いた。コタツでぼんやりしている姿を私は覚えている。ガンの後遺症だけではなく、いわゆるミッドライフ・クライシスのような状況にあった様だ。巨大な組織の中で突っ張って生きてきたのだから思い通りにならずカベにぶつかることも多かったはずだ。その頃に母に支えられたことを父は「感謝している。ほんとうにありがたかった」と言った。
 五十代半ばで病から復帰した先は公共放送の子会社だった。父はTVディレクターとして現場で美術番組を作り続け、それなりに大きな尊敬を受けていた様だ。遺品に、父が扱った作家の詳細な資料や小さな字でびっしり書かれた番組構成メモがたくさんあった。ここまでの構成は私にはできないな…。正直、名ドラマになるほどの人生ではないなとは思ったけれど、ほんとうに幸せな人生を送った人だったと思う。車を降りて、父は酸素ボンベを引きながら杖をつく母の手をとって部屋へ入っていった。それが父とサシで会話をした最後だった。

終わりのはじまり・・・・

 
深堀雄一氏のエッセイを載せるにあたり、氏はワープロ、パソコンで文章を作るのを嫌われていたので、万年筆による自書だと思われる原稿を掲載させて頂きます。











個展 深堀雄一

 深堀雄一氏は、母上・深堀富美子氏の薫陶を受け、絵画にも造詣が深かったようです。その幾つかを雅子氏にお頼みして掲載させて頂けることになりました。もしかするとこの絵葉書は四季折々の挨拶として、友人たちに送られたのかも知れません。
※深堀富美子:シン・ドクガク第79号2024年6月号参照


 

写真(コスモス)





















 雄一氏の撮られた写真(コスモス)

 この余白の中に雄一氏の言葉が添えられていたに違いない。「終わりのはじまり・・・」のような鮮鋭な文章が書いてあれば、貰った人は大切に残しているに違いない。

 私の友人に田中志津夫さんという方がいます。土木の設計技術者ですが、写真にも造詣が深く、いつも賀状と暑中見舞いの葉書をくれ、ご自身の想いをそこに書いてくれています。
 種田山頭火がお好きなようで、句にちなんだ写真を使われています。そこに氏の美意識を感じます。

 さて、前回は母上の深堀富美子氏の個展でした。「このような記述が」に深堀洋二氏の私家版書籍「洋二」の紹介をしました。その中に洋二氏と雅子氏の絵も掲載されています。今回はご長男の個展ですが、つまり、ご一家そろって大変な画才をお持ちなことが判りました。
※「このような記述が」:シン・ドクガク第79号2024年6月号参照

「洋二」の書籍に掲載されている油彩画をご紹介します。


書籍「洋二」中表紙

書籍「洋二」洋二氏の油彩画

 雅子氏の書簡も大変美しいもので、エレガントで気が利いています。この際に少しご紹介することにします。


 これは雅子氏の描いたものと思われる Masaの署名が見える

封筒表

封筒裏 シールの外縁の灰色に見える縁取りは銀色

中に入っていた葉書 これも灰色に見える縁取りは銀色

手書きでない原稿(雄一氏が望まなかったもの)

 原稿をテキストにするのは、いささか氏の機嫌を損ねることになるのかも知れませんが、引用、検索などに便利なため掲載しておきます。

「 終わりのはじまり・・・・

 深堀雄一

 あと一年とすこしで八十歳になろうという今日このごろ。小学生の時からの同級生友達と、ここまでよくも生きてきたものよ、と感嘆し合ったのはつい最近のことだった。
ーーーーおもむろに一日一日が過去となる集積あはれ老の歳月。歌人・斎藤茂吉の門下、佐藤佐太郎、七十歳代の歌である。私は日頃、本を読んだり人と話をした際、印象に残った言葉や文章、そして詩歌などを心覚えとしてノートに書き留めておくことを習慣にしている。ノートの頁を繰ってみると、老いや死について書かれた文言が、いつの間にか増え溜まっていることに気付く。それらの言の葉片々は、私の現在のこころ模様を探る手掛りともなっていると思うのだ。

 ところで、佐藤佐太郎と同じ心情を、九十三歳まで日本の歌壇を牽引してきた近藤芳美はこう歌っている。

ーーーーながきながき思い心に重ねつつ老年というさびしき時間。

 一方、第二次世界大戦中のフランスで、レジスタンスに参加した詩人ポール・エリュアールは、「年を取る。それは己が青春を歳月の中で組織することだ」、と言い切っている。これは反ナチズム運動の中で、その文学精神を培ってきた詩人の感性と精神の在りようを、いかにも強く意志的に表現した言葉であることよ、と思えるのだ。
 私のノートにはまた、哲学者・森有正(1911~1976)について書かれた文章が記されている。美術史家・辻佐保子「たえず書く人ーーー辻邦正と暮らして」の中の一文である。

ーーーーふと先生が漏らされた忘れられない一言がある。「辻さん、いいですか。<老い>は昼寝をしている時なんかに、ふっとその人に取りつくんですよ」・・・・肉体や魂に密かに忍びこむ小悪魔の様な<老い>に対する、森先生独特の警告・・・・。
 辻佐保子が伝える森有正のこの一言は、エリュアールのエピグラムと共に、心して聞くべき歳のとりかたについての教えであり、私が深く深く感ずるところのものなのだ。

 「永訣は日々の中にある」という隻句を、敬愛する詩人・茨木のり子のエッセイで出会い、これもノートに抜き写していた。この歳になって、親しい友人、知人たちの訃報を手にすることが多くなり、このところ、正に日々の中の「永訣」を実感している。そして、それらの人々と私との間の心の行き交いを確かめながら、別れの言葉や挨拶の便りを書く事が増え、その度にわがノートも厚さを増してきた。先日も、ごく親しい友人を追悼する集いに宛て、私の思いを届けた。以下である。

ーーーー「Nさんへ。生あるものは時と共に老け、時に堕落することもあるのに対し、あなたはもう老けないし、また考えも変質しません。深く静かに目を瞑ってください。本当に見るべきものを見るために」。
 これ以上、老けないし堕落もしない。考えようによっては、死者の方が生者よりも優位であり、有位なのではないか、など思ったりするのである。

 ところで去年の読売文学賞を受賞した、浅間山麓が舞台の小説、松家仁之「火山のふもとで」を読んだ。ストックホルム郊外にある世界文化遺産の美しい森林墓地、スコースキュアコゴーデンが紹介されていた。この森の墓地の中に建てられるはずだったオベリスクの銘板には、設計者アスプルンドの手で、「今日はあなた 明日はわたし」と記されることになっていたという。この文は、「今日はわたし 明日はあなた」と読み換えできる。人は生まれた時から死ぬ爲に生きている。日々、死に向かって死につつあるからこそ、我々は生きていると言える訳・・・・。その事をノートを読み返しながら思うのだった。

 八十歳と九十歳で同じ句を読んだ俳人がいた。

ーーーー屠蘇注げよわが八十の青春に。
ーーーー屠蘇注げよわが九十の青春に。

 作者は九十四歳まで長生きした原田青児。九十歳の青春は、十年前よりも若い、と私には読むことが出来た。
 そして、九十三歳で亡くなった歌人・齋籐史。長野市のお宅には、何回か取材でお訪ねした事があった。その齋籐さんの晩年にこんな歌がある。

ーーーー携帯電話持たず終わらむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか。

 私は仕事柄、この便利な機械を手放せないできた。しかし、齋籐さんの極めて強い意志と感性ーーーそのキッパリ感を見習わねばと思い、わがノートに書き写していたのだった。それにあやかった訳ではないが、私はワープロ・パソコンの文章が好きでないという事もあり、友人知人に手間がかかり面倒な奴と批判されながら、このご時世に”手書き人”を自認し、現役で働いていた時からそれで通してきた。そういう訳で、この文章も手書きという次第・・・・。

 いずれにせよ、終わりは近い。そしてそれは永遠のはじまりなのだ、と思っている。

  ふかぼり・ゆういち
  NHK元ディレクター(美術番組) 」