オーディオへの道「苦悩の日々」

                  タツノオトシゴ



 世の中は高度成長期、技術革新により新たなタイプのオーディオ製品が続々と世に出されてきました。三極管のアンプも完成度が高くなり、半導体などの出現で新しいスタイルのオーディオアンプが市場に出回るようになりました。
 当時のラックス社も例にもれず、ST-77Tという新製品を発売しています。



 SQ-38Aという真空菅の名機を送り出しながら、次世代製品を開発していたのです。
 後発ながら、YAMAHAやONKYO、パイオニア、山水、トリオなどの国産品と並び、人気の高かったのがマランツの製品です。伝統的な製品を頑なに作り続けています。
 インプット(プレーヤー)やアウトプット(スピーカー)の製品は同じでも、アンプが変わると音も変化してきました。多くの製品を違う組み合わせで聴き比べるなんてことは、よほど恵まれた環境の、ごく一部の人にしかできません。30代で結婚し、子育てにもお金が掛かるしがないサラリーマン、レコードは廃れ、CDが主流になっている事もあり、音楽を聴く機会は益々減っています。


子育て時代とレコードからCDへ

 そこに時間とお金をつぎ込む努力を諦めたタツノオトシゴは、ある出来事を境にオーディオの世界から離れていくのです。その出来事とは「阪神淡路大震災」です。


朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200115001173.html

 仕事で芦屋市の震災復興MSの調査に行ったとき、何軒かの被災した部屋から運び出されたオーディオ製品を目にしました。SMEのアームやガラードのターンテーブル、タンノイやJBLのスピーカー等が無造作に捨てられていました。
 家は壊れても命は助かった人にとって、今まで大事に使っていたものを手放すには相当の覚悟が必要でした。中にはまだ使えそうな製品もありましたが、産業廃棄物として処理されています。 
 私もあの震災で、YAMAHAとパイオニアのアンプなどを失いました。
 地震のショックで書棚が壊れ、過剰電流が流れたのが原因です。
 山水とブラウンのスピーカーは無事(これも後から分かった事)でしたが、アンプが無ければ音は出せません。その後しばらく、アナログ派の私はレコード以外の音源もなく、仕事も忙しい中、オーディオの世界からは遠ざかっています。

 
YAMAHA A-5



 それでも時々東京の友人の家で、ぜいたくな音を聴かせてもらう機会はありました。
 震災被害を受けなかった東京の友人たちは、どんどん先に進んでしまいました。
 仕事の合間に時間を作っては演奏会に出かけ、普段聴けなかった分を取り戻すというような不完全燃焼・・・何か昔の記憶が蘇ってくるのです。

 中学生時代はオーディオへの目覚め、高校生~大学生で熱中というステップは一般的な歩みです。しかし学業では全く違った方向を辿っています。中学時代は数学が好きで、「少しは別の科目も勉強しなさい!」と親に叱られ、試験の答案を万年筆で書いて先生にも叱られています。しかし高校の数学の先生が苦手なタイプ、成績も下降線でした。所謂受験予備校的な公立校で、東大への入学者数の増減で教師の評価も決まります。授業で教えた通りの解き方の解答でないと、答えが合っていても点がもらえません。成績が悪くなり、夏休みに補講を受けようと申し込みをすると、成績の悪い人は受け付けてくれません。学業での落ちこぼれ・・・それでも無遅刻・無欠席で表彰されたのは意地の結果です。図書委員を3年間、鉄道研究会や写真班に参加、運動部には幽霊会員で参加しています。受験にはあまり関係のない「音楽」、「地学」、「世界史」、「漢文」などが面白い授業で、放課後は新宿や渋谷、池袋の映画館で名画鑑賞をしています。2年生の後期で志望校を文系から理系に変更、教頭先生に呼び出され、今の成績では変更は無理と言われています。それでも留年せずに何とか理系のクラスに入れ、卒業だけは出来ました。(笑)


数学かオーディオか

 男女共学の高校でしたが、クラス分けは男女別クラス、同じクラスに女性がいたのは理系志望の1クラスだけという不思議な学校でした。そのクラスに居た7名の女性は、「7人の侍」と敬意をこめて呼ばれています。1年浪人して入った大学でも、建築のクラスには1名だけ女性がいたのを思い出します。

 今から考えると、「暗黒の青春(高校)時代」を過ごし、その反動でオーディオや映画の世界に浸っていました。アルバイトなどで稼いだお金で、暇があれば秋葉原通いです。色々なパーツを組み合わせ、自分だけのオーディオ世界を構築し、自分の世界を楽しんでいたのです。大阪への転勤希望を出したのも、心理的には現実逃避なのかもしれませんね。両親が関西出身なので、将来は家族で暮らすことも考えていましたが、父親の仕事は霞が関から離れることはありませんでした。
 
 そんな時、地震でオーディオ環境が維持できなくなり、生の演奏会を聴くことで我慢していたある日、うさおさんから連絡がありました。「今度、渋谷(文化村)でオーチャードホールのこけら落としが有るんだけど、チケットが手に入らず、関西ならまだ入手できるかしら?」演目は何とワグナーの楽劇です。演奏会形式でしたが、さすがに本場の音楽は凄い!その迫力に圧倒されてしまいました。

 海外では歌劇やオルガン曲、交響曲なども聞いていましたが、関西では中々好きな曲の演奏会に出会えません。生の音を聴きながら、ホールの違いもチェックしていたのは、日本と海外の音の違いの原因を探っていたのかもしれませんね。 

 耳だけは聞き比べの能力を維持し、オーディオの機器類は全く進歩していません。

 会社を50歳で早期退職し、建築やオーディオから離れて20年近く過ぎています。

 そんな時に出会ったのが、フロイデ合唱団(今は大阪フロイデ合唱団に名前を変えています)、60歳以下で合唱経験があれば入団OK、曲目はハイドンの『四季』というオラトリオでした。早速入団の申し込みをしたら、ピアノの前での発声テストがありました。声の質や音域で、バスかテナーかを決めるために避けては通れない関門です。普通はどちらかのパートを示されるのですが、私の場合は「どちらで歌いたいですか?」という質問でした。混声合唱では、テナーパートは相当慣れている人が多く、バスなら付いて行けそうな気がしたので「しばらくの間、バスでお願いします」と返事してしまいました。早速楽譜を購入し、厚さが2センチ近くあるので、団長に「こんな重いものをもって練習するのは大変ですね?」と聞いたら、「重かったら幾つかに分冊しても良いですよ」と言われました。

 「どうせ、本番の時はアンプやし」・・・「アンプ?暗譜!ゲーッ⁉」

 練習期間は約7か月、ステージは何と、ザ・シンフォニーホール、演奏は関西フィルと聞いて、さすがに緊張しました。


ザ・シンフォニーホール ホールガイドより

 今さら後には戻れません。8割方は前から歌っている人たちで、この団で全く初めての人は数人しかいません。新入団員で最後まで残ったのは私を含め2名だけ、演奏会当日のGP(ゲネプロ)と本番の緊張感と終わったあとの達成感は今でも忘れません。丁度、建築から福祉へと方向転換した時期と重なりますが、オーディオを渇望しながら、人間とのコミュニケーションを大切にしていった20数年・・・

 その後大阪と神戸の合唱団を掛け持ち、他の合唱団に手伝いに行くことも多く、音楽関係者の友達も増え、気が付けば私も後期高齢者・・・身体は楽器、アスリートのように鍛えなければ良い声は出せません。(^^;
 それでも海外旅行に行くと、ホテルよりコンサートホールの演目が気になり、予約も無しでチケットを確保したことも数多く、お土産にはいつ聞けるか分からないレコードを何枚も購入し、入国審査ではいつも足止めを食らう問題児でした。



 幸いなことに関東のオーディオ仲間は健在で、珍しい直輸入のレコードを持って行くと歓待してくれましたので、細々とレコードを聞くという習慣は保たれていました。
 レコードというアナログ的な音源が衰退し、CDその他音源が主流となる中、プロの声楽家に教わりながら数多くの宗教曲(ミサ曲やレクイエムなど)を歌う事で、オーディオの世界からは遠のく私、物足りなさも感じないわけではありませんでした。

 次回はコロナ禍でのふとした事で、音響との接点を見直すという出来事・・・
 最終章(復活)に向けてのお話です。