日出彦
今回は梶ようこの連作小説「三年長屋」を取り上げる。
三年長屋はかっぱ長屋ともいわれ、長屋の奥に河童の祠があり祭られている。この河童のご利益で、三年暮らせば願いが叶うというので、三年長屋と言われている。
主人公
小説の主人公は佐平次という三年長屋の差配である。
佐平次は元武士で古川左衛門といい、東国の小藩である糸井藩の作事方をしていた。両親はすでになく、28歳で妻 を娶って娘美津を儲けた。しかし、藩の不正を発見し、直情的な性格から上司に訴え出て、その結果、藩を追われることになる。妻子を連れた浪々生活の中で、31歳の時に妻を流行り病で亡くしてしまう。残された娘を連れて下谷広小路近くの裏店に“浪人”として落ち着くが、1年前の33歳の時に下谷稲荷の祭礼で5歳になった美津と逸れてしまう。必死に美津を探し回るが、手掛かりがなく半年前に世を儚んで不動尊の近くで自殺を図ろうとする。そこで偶々出会ったお梅・捨吉に助けられ、“佐平次‘の名前を貰い、これまでの人生を捨てて、お梅が家主の三年長屋の差配となる。
佐平次は表店で楊枝屋を営みながら、長屋の差配を務めている。
佐平次は長屋に起きた数々の問題を解決するが、一件落着すると裏店の皆に高級な料理を振る舞うなど羽振りがよい。商家の大旦那、旗本や大名の上級家臣が使う楊枝を作っているとしても、そんなに儲かるものだろうか?
なお、佐平次には出奔した糸井藩に叔父の古川仁太郎がいるが、疎遠のままである。
※1:妻の名は最後まで明らかにされない。
三年長屋の住人たち
江戸の長屋は通りに面した表店と木戸で仕切られた裏店がある。
三年長屋はその総称である。表店は2軒長屋で佐平次のほかに下駄屋の半兵衛一家が入っている。表店は1階が店舗、2階が居住場所の2階建てが多いとされていて、家賃は裏店の少なくとも2倍であった。佐平次の店が平屋か二階建てかは分からない。表店は裏店よりは少し格が上だが、子どもは関係なく一緒に遊んでいる。
裏店は安普請であり、左右に各5軒が続く棟割長屋 である。これは「鯖猫長屋ふしぎ草子」と同じである。1軒あたり3坪で、四畳半の板の間と一畳半の土間になっている。次の図のような間取りと思うが、座敷にはこの図のような畳はなく、板の間のままか、茣蓙が敷いてあるのではないかと思う。家賃は化政時代で月に400~600文とのことである。
この物語は、佐平次34歳のときの差配としての1年弱の出来事である。その間、「鯖猫」と違って、長屋はほぼ満室であるが、住人の入れ替わりは結構激しい。出て行ったものも含めて紹介しよう。
※2:物語では棟割長屋となっているが、「鯖猫」でも同様で、向かい合った割長屋であると思う。
① お増 小間物商い (年齢60歳すぎ)
② 吉五郎 古手屋(古着・小道具を扱う;子沢山;後におすえの助けもあって表店に移る)
女房 おすえ(ただし2年前に家出して今はいない)
長男 吉助(10歳;後に金太の弟子になる),次男 文治,三男 弥三,末子(長女) お里
③ 定吉 棒手振りの魚屋
女房 お富
養女 みつ(赤子で3か月;金太が引っ越して来た日に長屋に捨てられていた子)
④ おしん 料理屋/居酒屋勤め(32歳)
多助 甘酒売り(17歳;おしんの弟)
⑤ 権助 生業なし(佐平次の店番をすることが多い;実は障子貼りが得意)
⑥ 豊太郎 戯作者修業中(勘当中;実は菓子屋の若旦那で妻子がいる)
⑦ 正蔵 屋根職人(後におれんと仮祝言)
⑧ 熊八 穴蔵職人(元船大工)
女房 およう,長女(赤子で7か月)に正蔵と仮祝言)
⑨ おれん 水茶屋勤め
⑩ 順斎 八卦見(冒頭、長屋に3年住んだのちに東国の小藩田丸家に仕官が叶う)
⑪ 金太 錺職人(順斎の出た後に入る;弁天長屋から引っ越して来たが、脇腹に傷跡のある謎の人物)
⑫ (佐倉)加平 季節物売り(吉五郎の出た後に入る;大家族;元西国小藩の御腰物掛;妻、女児1歳、男児5歳、自分の両親と共に住む!;吉五郎一家と同様に、四畳半にどのように寝ているのか?)
⑬ 仙蔵 棒手振りの豆腐屋(冒頭に長屋の近所の菓子屋の娘に恋していたが、許嫁がいることが分かり失恋;物語の最後に三軒長屋に引っ越してくる)
⑭ 長太(?;物語の最後に三軒長屋に引っ越してくる)
以上であるが、ついでに表店の下駄屋についてもまとめておこう。
⑮ 半兵衛(下駄屋;佐平次の隣)
女房 おさん,長男 銀平(子ども)
佐平次の敵役
不正が許せない性格は佐平次になっても変わらない。三年長屋の差配になって、立ちはだかった敵役がいる。
① 御切手町の市兵衛(複数の長屋の家主兼30軒の差配で顔役;自分の長屋に七福神の名を付けている。付け髷をしているが、他人には気づかれないと思っている。 ⇒ しかし、三年長屋の住人は子どもに至るまでそれを知っている!)
② 鬼嶋同心(定町回り;市兵衛に便宜を払って甘い汁を吸っている)
③ 徳蔵(山下町にある弁天長屋の差配;市兵衛の子分;痩せたごきかぶりみてえな面)
④ 助次郎(50がらみ;毘沙門天長屋の差配;市兵衛の子分)
⑤ 不詳(駿河町にある布袋長屋の差配;市兵衛の子分)
佐平次の親派
物語を進める上で欠かせない佐平次に益する脇役をまとめて置く。
① お梅(三軒長屋の家主;60歳過ぎだが、若いころは美人と思われる)
② 捨吉(お梅の雇人;佐平次への連絡役;左頬に火傷跡;実はお梅の養子)
③ 神崎(北町奉行所与力;お梅の古くからの知り合い)
④ 甚助(番所の書き役;市兵衛・鬼嶋の町費遣い込みを告発)
⑤ 伝吉(40歳;月番差配の一人で、やなぎ長屋の差配;浅黒く精悍で傘屋をしている。反市兵衛派)
三軒長屋の見取り図
三軒長屋の住人がどの部屋に住んでいるのか推理してみた。
以下に、推理の基となる記述を列挙してみる。
① 順斎の後は金太: 右棟の4番目:東向きの棟(P58 &61)
② 金太の右はおれん;左は熊八(P61)
③ 金太の住む棟は東向きなので、夏場はいいが冬には朝日だけなので寒い。(P61)
④ 正蔵はおれんの右隣りに住んでいる。(P70)
⑤ 吉五郎の家は木戸を入ってすぐの左側(P155)
⑥ (吉五郎の家の)隣の豊太郎が、…(P157)
⑦ 豊太郎の家を、おしんが「うちの隣だから」(P215)
⑧ 権助の家は定吉お富夫婦の隣(P26)
⑨ 佐平次の楊枝屋と下駄屋(半兵衛夫婦)の裏にある棟割長屋で、五軒ずつが向かい合う十世帯の小さな長屋だ。(P16)
以上の手掛かりから三軒長屋の見取り図を作ってみた。定吉・お富夫婦と権助の家が同定できなかった。一応、権助は一人身なので端っこに置いてみた。
また、佐平次と半兵衛の表店も左右どちらか同定できなかった。とりあえず、佐平次の家を右に置いてみた。
物語の始まりは4月頃で、順斎が出て行って、後に金太が入る。また、吉兵衛が出て行った後、加平が入るのは七夕前なので6月らしい。さらに、豊太郎が実家に戻ったのは蝉の声がしていたので8月か9月らしい。
河童の祠と物語の年代
三軒長屋にある祠の河童像は家主のお梅が彫ったものである。なぜ河童なのかは最後にお梅の素性と共に氷解する。
そもそも河童の由来は曹源寺にある。曹源寺はかっぱ寺として知られ、現在も台東区 松ケ谷に存在する。寺のホームページによると開創は1588年(天正16年)で和田倉門のあたりにあったが、1591年(天正19年)に江戸城の拡張によって湯島に移設された。しかし、1657年(明暦3年)1月の振袖火事によって焼失し、現在地に移ったとされる。
かっぱ寺の由来は、合羽屋喜八が1814年(文化11年)に菩提寺の曹源寺に葬られたことにある。喜八は屋号の通り雨合羽商で、当時このあたりの土地が低地で水はけも悪く、雨で氾濫して住民が難渋しているのを見かねて、私財を投じ新堀川(今の河童橋道具街通り)の掘削工事を行った人物である。物語の中の動機は川の氾濫時に溺れて流れて行く若い女を助けられなかったことにある。工事は難航したが、かつて喜八に命を助けられた新堀川に棲む河童が夜な夜な工事の手助けをしたという伝説がある。物語では河童は近くに住む黒鍬組ではないかと臭わしている。
なお、新堀川の河童を見た者は商売が繫盛したといわれる。そこでこの寺の河童大明神は商売繁盛・火水難徐の霊験が著しいとされ、信仰が寄せられている。という訳で、寺の縁起に比べて比較的新しい伝承である。
お梅が河童の像を彫ったのは、この火水難徐に関わりがある。この物語は文化11年以降のことと押さえておこう。
曹源寺の河童大明神
江戸の町内組織
佐平次が務める差配とは何なのかを調べてみた。
江戸の町は町奉行所の支配の下で町年寄の奈良屋、樽屋および喜多村屋が分担して代々治めていた。町年寄の下には町名主が置かれ、さらにその下に五人組が置かれた。五人組は地主や雇われ差配がメンバーで、この物語では差配連中が五人組を構成している。それを牛耳っていたのが市兵衛である。
五人組の仕事は月交代で自身番に詰め、町費の計算、町奉行所の役人との連絡、犯罪者拘留の手伝いなどを行うことである。町費は町内で負担する費用で、水道、火消し、祭りの経費、書き役の賃金などである。佐平次の詰める自身番は御切手町にあるので、市兵衛の家の近くであるらしい。
新任の差配がまずなすべき仕事は、町奉行所の役人、町年寄、町名主への顔見世であるが、暗黙裡には五人組の差配たちへの饗応がある。
結局、佐平次は評判の高級な饅頭を差し入れた程度で、五人組への饗応は行っていない。
町入能
江戸時代を通じて、将軍の代替わりや将軍家の祝い事の際に公家や大名などを招待して御能が催された。その初日には選抜された町人の参観も許された。それが町入能であるが、当時の文献では「お能拝見」とか「お能ニ付町入り」と述べられている
[1]。江戸城内の表の大広間に能舞台が常設されていて、身分のある招待者は座敷から拝観した。古い話だが東映時代劇の「水戸黄門シリーズ」や「若様侍シリーズ」などでよく出てきた能舞台の場面を想像するとよいだろう。町人は大広間の庭(つまり地面)に座って拝見したという。そのため雨に備えて、入場の際には傘が支給されたそうである
[2]。
※3:文献[1]では開催日が9月4日とあるが、町入能は初日のみ許されたとあるので矛盾はなさそうである。
町入能の入場風景[2]
物語では11代将軍家斉が大御所となり、継嗣家慶が12 代将軍に宣下された祝いとして、1837年(天保8年)9月2日(P342)
[3]に町入能が催される。つまり、この物語は天保8年の出来事であることが確定する。ちなみに、先に紹介した「鯖猫」は永代橋崩落事件の翌年であった。永代橋崩落は1807年9月20日(文化4年8月19日)なので、「鯖猫」から29年後の物語である。
町入能の拝観風景[3]
佐平次は市兵衛らによる町入能への参加者のくじ引きの不正を暴き、三年長屋からも参加者を出すことになる。その市兵衛と鬼嶋同心は番屋(自身番)の改修費をごまかして着服しようと計画していた。これまでも同様の手口で甘い汁を吸ってきた。佐平次は書き役の甚助が渡した裏帳簿の写しを証拠に市兵衛・鬼嶋の町費遣込みを知ることになる。そこで、町入能の当日、市兵衛らの不正を暴くため、北町奉行所の前の広場で、“文字通り”大芝居を打つのだが、詳細はネタバレになるので割愛する。その仕掛けに参加したのは佐平次、伝助、正蔵、熊八、豊太郎、権助、加平、甚助であった。
なお、三年長屋から町入能に参加したのは、佐平次、お増、正蔵・おれん、金太、おしん・多助、権助、熊八、および加平である。
順斎の占い成績
物語の冒頭で、八卦見の順斎は東国の小藩である田丸藩(江戸藩邸は何と糸井藩と隣同士)に仕官することになる。順斎の占い能力が買われた訳であるが、順斎の占いはどの位当たるのかを検証してみよう。
1) おれんの客(大店 河内屋の惣領息子)と別れろという ⇒ 女房持ちであることが判明。(当たり)
2) 田丸藩の息女の行方不明の猫を占いで戻す(当たり) ⇒ 自分が田丸家に仕官できたので、大当たり!
3)おれんの玉の輿は叶う⇨物語の最後で結婚するが、玉の輿ではない! (まあ、惚れた同士なのでいい人に巡り合ったという意味では当たりだが、ここは厳しく外れとする。)
4)お富に子が授かる⇨正しくは養女を授かるだが、子を授かったことは間違いない。(当たり)
5)佐平次の失せ物(娘)は時間が掛かるけれども見つかる(当たり)
6)佐平次に女難の相あり⇨長屋のかみさん連中には頼りにされているが、女難というほどではない。後出の豊太郎の戯作で店に女性客が増えたので、女難と言えば女難(どちらともいえない)
つまり、勝率4/6(67%)なので、まあ当たるといってよいようだ。
江戸の芝居小屋と豊太郎の戯作
江戸の芝居小屋は大芝居と小芝居に分けられる。
大芝居は現在の歌舞伎に繋がるもので、官許の江戸四座(後に江戸三座)があった。芝居小屋には櫓があるのが特徴で、花道や引幕などの仕掛けも作られていた。さらに分けると本櫓と控櫓があった。本櫓は木挽町、茅場町(現在の人形町)および堺町にあり、木挽町には森田座(後に守田座)が、茅場町には市村座が、坂井町には中村座があった。木挽町はいろいろ変遷があり、山村座(1714年の江島事件で取り潰し)や河原崎座(1663年に森田座が合併吸収)もあった。また本櫓での興行ができなくなった場合の控櫓には都座、桐座、河原崎座があった。しかし、この物語の後であるが、水野忠邦の天保の改革で1842年に浅草聖天町に三座が集結された
[3]。
それに対し小芝居は現在の大衆演劇に通じるものである。神社の境内(湯島天神社、芝神明社、市ヶ谷八幡社が有名)で興行されたので宮地芝居といわれる。他に広小路や寄席で芝居が演じられた。小芝居の芝居小屋は幕府の意向でいつでも撤去できるように茅葺張り・筵掛けであり、花道や仕掛けは許されなかった
[4]。
この物語では両国西広小路の芝居小屋で豊太郎の戯作が上演される。ここは1667年の明暦の大火がきっかけとなり作られ、緞帳芝居とかおででこ芝居とかいわれた。豊太郎は樫尾空蔵(商売の名が入っている)のペンネームで「恋情柳乳房(こいなさけやなぎのちぶさ)」を書きあげ、その芝居が大当たりとなる。この戯作は佐平次をモデルにしたもので、佐平次の顔を見たさに町娘が楊枝屋の店に殺到し、商売繁盛となる! この芝居興業には権助の陰の力があった。それは権助の素性に関わるものであった。
楊枝の値段と佐平次の収入
佐平次の懐の良さに興味を持って、楊枝について調べてみた。江戸時代からの楊枝作り受け継いでいる「さるや」のWeb
[5]によると、わが国では楊枝についての次のような歴史がある。
日本における楊枝は奈良時代(5世紀頃)に仏具と共に中国・朝鮮を経由して伝来されたのが起源であるという。仏教では釈迦が歯木(ダンタカシュータ)の使い方を弟子に教えたことによるそうだ。歯木はニーム(インドセンダン)の木の枝を噛んでブラシのようにしたもので、これが中国に伝わり、楊柳の枝を使うことになった
[6]。僧侶は儀式として樹の汁を含んで口を磨く行為を行ったが、つまり歯みがきに使われた訳である。
かくして江戸時代に入ると、庶民にも楊枝使いが行き渡り、楊枝屋が繁盛したという。文化時代(1815年)には浅草寺の境内に楊枝屋が249件もあったそうだ。
江戸時代の楊枝は、房楊枝、爪楊枝、菓子楊枝(黒文字)に分けられる。房楊枝(総楊枝)は現在の歯ブラシ+歯間ブラシに相当するもので、京都で考案された。柳・杉・竹などの枝から切り出して歯ブラシ部と舌ブラシ部と爪部を一体化したものである。先端が尖った爪部は独立して爪楊枝と黒文字になった。爪楊枝は現在のツースピックに相当する。一方、高級な和菓子に付いてくる木の皮を残した楊枝は、黒文字と呼ばれ、和菓子を切断したり、口に運んだりするのに用いられる。木の皮の部分に彫刻や細工を施して、高級感を増したものも作られた。菓子楊枝の材料には楊柳、白楊柳、黒文字、卯木などが用いられるが、この内、黒文字はクスノキ科のクロモジの木に由来し、芳香がするので珍重されてきた。
クロモジの花 クロモジの樹
佐平次が作っているのはどの楊枝は分からないが、料理屋からの注文で作っているようなので、和菓子に使う楊枝、黒文字ではないかと思う。一方店には、町娘が買いに来る描写があるので、房楊枝、爪楊枝、黒文字のすべてが置いてあるものと思われる。元武士の佐平次にそんな職人技ができる筈はないと思っていたが、江戸末期の武士は禄高の米だけでは物価高騰で生活ができず、内職で口を糊していた様である。当然、職人はだしの武士も出てくるわけで、著者の朝顔同心シリーズはその好例である。したがって、佐平次も楊枝づくりのプロだったことを認めることにしよう。
かくして、財源となる楊枝の値段をWebで検索して調べてみたが、残念ながら分からなかった。そこで、値段が分かる現在から遡って江戸時代に反映してみることにした。
江戸時代のかけそばの値段は16文と知られている。鬼平などの時代劇では屋台のそば屋が出て来るので、現在の立ち食いそばの値段と比較すればよいだろう。立ち食いそばも2023年現在近値上がりしてかけそばが400円台に達しようとしている。そこで、1文を25円に換算することにした
。
さて、佐平次が作っていたのが黒文字であるとして、その価格を探ってみる。
さるやは1704年(宝永元年)に照降町(現在の日本橋小網町)で創業した楊枝専門店であるという。江戸時代は総楊枝(房楊枝)中心に小間物の商いもしていたが、明治以降、歯ブラシが普及して総楊枝が売れなくなり、現在の黒文字中心の商売に変わったという。
さるやの製品はいろいろあるが、会席楊枝1650円(32本入り)や茶席用楊枝2420円(20本入り)が比較的高価である。ここでは後者を取り上げると、一本当たりでは121円になる。手作りの工賃を3割と仮定すると、佐平次の懐には一本当たり約36円入る勘定になる。これを天保時代の貨幣価値に換算すると約1.5文である。楊枝を100本作ると150文ということになる。これはおよそかけそば9杯分になる。
※4:ちなみに裏長屋の家賃は間をとって月500文とすると、月7500円に相当する。したがって、佐平次の表長屋は月15000円の家賃になる。
当時の男の奉公人の給料は年2両という
[7]。天保時代の金と銭の換算は1両が6500文とあるので、それは年13000文(現在価で32万5千円相当)の給料と言える。そこで、上記の楊枝で換算すると、黒文字8667本分ということになる。江戸時代は太陰暦で閏月なんていうものもあったので、さらにラフな計算になるが、12で割ると月当たり722本製作すれば平均的な庶民の収入になる。これは1日当たり24本の楊枝を制作すればよいので実現できそうである。
とはいえ、佐平次は差配として働くことが多いので、楊枝作りの時間が足りない。そこで佐平次は「差配」の手当てで生活していて、副業に楊枝屋をやっていると考える方が合理的かもしれない。それなら、長屋の住人に料理を振る舞うことも「経費」の一部になると考えられる。
参考文献
[1]川上真理:『江戸城町入能の開口・演目と秩序:身分制社会の共同性空間』,法政史学,Vol.62,P.P.63₋80,法政大学出版会,2004年.http://dot.org/10.15002/00011502
[2]「能楽を旅する」:能楽協会
http://www.nohgaku.or.jp/journey/
[3]「江戸三座」:ジャパンナレッジ
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=901
[4]佐藤かつら:『幕末江戸の宮地芝居について ―湯島天神社内の芝居を中心に―』,近世文藝,P.P.91-105,第100回日本近世文学会春季大会,2001年.https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/75/0/75_91/_pdf/-char/ja
[5]「たかが楊枝、されど楊枝。」:さるや
https://www.nihonbashi-saruya.co.jp/
[6]「爪楊枝」:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%AA%E6%A5%8A%E6%9E%9D
[7]「江戸時代の1両は今のいくら? -昔のお金の現在価値-」:貨幣博物館
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/edojidaino1ryowa/
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梶よう子プロフィール
梶よう子(かじようこ、1961年生れ、2023年現在63歳)は日本の時代小説作家。本名、梶木洋子(かじき ようこ)。東京都足立区生まれ。女子美術大学短期大学部卒業。フリーライターとして活躍する傍ら、小説執筆を開始。2008年、「槿花、一朝の夢」(名義:蘇芳よう子)で第15回松本清張賞を受賞。他に笹沢佐保賞や新田次郎賞などを受賞。
代表策に朝顔同心(中根興三郎)シリーズ、ことり屋おけいシリーズ、みとや:お瑛仕入帖シリーズ、御薬園同心(水上草介)シリーズなどがある。シリーズ物は特殊な職業を取り上げていて面白い。個人的には、『お伊勢ものがたり 親子三代道中記』や『お茶壺道中』のような道中物が好きである。いずれ紹介したい。世間的には『ふくろう』や『ヨイ豊』の評判がよい。
目 次
第一章 差し出口
第二章 代替わり
第三章 赤子
第四章 約束
第五章 両国の夢
第六章 町入能
第七章 河童
表紙の右上は明らかにお梅と捨吉、その下は佐平次、その右はおれんかおしん。おそらく、おれん。
裏表紙の挿絵(一部)では、左側は魚屋の定吉とお増。右手の老人は市兵衛のようだ。
図書の表紙
裏表紙(一部)
かっぱ寺
以前にかっぱ橋通りの曹源寺さんに行ったことがあります。会社の近くだったので、散歩がてら、見に行きました。
曹源寺さんの参道は家一軒分の広さしかありませんので、見逃さないように注意が必要です。
家一軒分の参道 ここが寺の門です 2018年6月27日
門柱にも(かっぱ寺)の記載があります 2018年6月27日
入るとすぐ右手に「かっぱのぎーちゃん」がお出迎え。
かっぱのぎーちゃん 2018年6月27日
さらに進むと、小高い処に「河童大明神」の祠があります。この祠内に、「かっぱの右手」が鎮座しており、河童の神画が飾ってあります。祠の天井には、水木しげるや手塚治虫が描いた絵が奉納されています。
河童大明神の祠 2018年6月27日
お賽銭箱の上に胡瓜が置いてあります 2018年6月27日
河太郎の扁額と龍の天井画 2018年6月27日
龍の天井画 2018年6月27日
正面にかっぱの神像画が祀られています 2018年6月27日
門番のかっぱにも胡瓜のお供えが 2018年6月27日
かっぱ寺石碑 2018年6月27日