嗚呼、明戸村西畑
日出彦&うさお
日出彦さんとうさおは遠い昔、埼玉・深谷で過ごした記憶があります。しかし、ご存知のようにうさおのことですから、何やら判然としない処が多々あります。何しろ「記憶の断つ人」ですからね。
ということで日出彦さんに助けてもらいながら、記憶を辿ってみましょう。
うさおの問いかけ(切っ掛け)
幼児の時に住んでいた昔の明戸村西畑の住まいは長屋の端だった気がします。
何せ2歳半
※の記憶なので曖昧ですが、家の前に鶏のいる庭があり、家の妻側に汚いどぶ川があったと思います。ペスは何処にいたんだろう?押し入れから屋根裏に上がったのは洪水の時でしょうか?玄関脇に四畳半の部屋、続いて六畳の部屋、お勝手、厠、風呂場でしょうか?やけに広いなあ?長屋じゃないなあ。
※後で間違いであったことが判明します。
赤破線の中が蓮沼地区だが? 上:利根川 中太用水:小山川 細用水:備前堀
日出彦さんの記憶1
小生の記憶を辿って補足してみました。子供の頃の記憶なので回りが大きく見えているかも知れませんが…。
■昔の明戸村の住まいも長屋の端だったような気がします。
答:そうです。平屋の4軒長屋の左の角部屋でした。戦時中は造幣省の官舎であったそうです。西畑という地区に100棟位は建っていたように思います。名前の通り元は畑だったと思います。最初はなかったけれど、住んでいるうちに(自分が小4頃かな)明戸中学校がすぐ近くにできました。
家の2棟裏、備前掘のある方角の長屋の角部屋に、のちに映画俳優になった三橋達也の親御さんが住んでいました。ある夕方に復員してきた三橋達也が間違って、うちの戸を叩いて母が案内したという話を聞いています。
■何せ2歳半の記憶なので曖昧ですが、家の前に鶏のいる庭があり、家の妻側に汚いどぶ川があったと思います。
答:よく覚えていますね。隣の長屋との間に小道があり、母がその間の土地を野菜や花の畑にしていました。
どぶ川は裏手の台所やふろ場のある先で、前述の三橋さんの家に行く途中に長屋に沿って横に流れていたと思います。
小道とぶつかるところは板で塞いでありましたが…。鶏はいつだったか、鳥屋さんに持っていって正月に食べてしまいましけど…。鳥小屋はつぶしてしまいましたが、家の前は畑が作れる程度の庭があり、そこに備前堀でとってきた柳を植えたら大木になってしまいました。良くその木に登って遊んでいました。
横浜に移るときに父が伐採して根こそぎ掘り起こして、もとの農地に戻しました。ところがその後すぐに、小生が盲腸になり腹膜炎を併発して1か月半も深谷の古川病院に入院する羽目になりました。柳のたたりとかでないかとか言われました!
■
ペスは何処にいたんだろう?
答:ペスはもともとは父が子供のころ歯科医(爺さんの家)の家の近所の可愛がっていた犬の名前で、子犬を貰ってきたときに命名しました。雑種でしたが日本犬でしたね。遠くで火事があるとよく遠吠えをしました。
狂犬病が埼玉県ではやったときに、子供たちにうつっては大変ということ(過剰なリスクマネジメント!)で、ほかの人にあげてしまいました。最初のときは近くだったらしく家に戻ってきてしまいました。そこで、熊谷の方の遠くの家にあげて、それからは音信不通になりました。
ペスの尾は丸まっていた
■押し入れから屋根裏に上がったのは洪水の時でしょうか?
答:洪水はキャサリン台風の時でまだうさおは生まれていません。洪水の夜は父は東電に勤めており会社に詰めていて、母と二人でした。夜中に擦り半が鳴って、母は断ち物台の長い板(2m位あった)を屋根裏に上げて、それを棟木に差し渡して、その上に座らせられていました。
長屋なので隣の須藤雪絵ちゃんの屋根裏ともつながって遊んでいたのを思い出します。(屋根裏は4軒の中央で仕切られていたので、3軒目の永山くんとは会えませんでした!)
幸い、1m一寸の浸水で、家が流されなかったため、命が助かりました。そんなわけで、屋根裏に上がったのはずっと後のことだと思います。
(うさおは親に聞かされた伝聞を自分の記憶に刷り変えたようです。)
■玄関脇に四畳半の部屋、続いて六畳の部屋、お勝手、厠、風呂場でしょうか?
答:玄関は土間になっていて、吹き通しで裏まで続いていました。洪水の時はそこにのろが押し寄せました。朝になって水が引いてから、屋根裏から降りると土間の水たまりに魚がいました。浸水は床上50cm位あったらしく、畳が浮んだためかぐじゅぐじゅで、位置が少し変わっていたと思います。(いまそちらの家にある)大きなガラス扉の本棚の中段位まで泥跡が残り、父が大事にしていたWH社の照明器具の本がだめになっていました。
玄関脇の部屋は床の間があって、タンスも置いていたので、四畳半より広かった気もします。六畳二間だったかも。何しろ官舎跡ですから。
小5の頃、土間の一部をつぶして、2畳くらいの細長い勉強部屋を作ってもらいました。そこはもっぱら顕微鏡や手製の天体望遠鏡のある実験室になりました。
■やけに広いなあ?長屋じゃないなあ。
答:子供の目なのでなんでも広く見えているのかもしれません!
うさおの問いかけ2
母のアルバムはまだ押し入れの中に積まれおり、いつか出して調べてみようと思いますが、明戸村の写真は残っていないじゃないかな。
明戸村の間取りとか、住居を挿絵にしてみようと思います。何処まで覚えているかな?2歳半の記憶ですので、後からインプットされた情報も多々ありますね。
絵にしたら日出彦さんに監修をしてもらって、なるたけ当時の雰囲気を描いてみたいです。
日出彦さんの記憶2
左大○:明戸中学校 中上小○:増田酒店 中下小○:惣持寺 右大○:明戸小学校
グーグル地図で、明戸中学校で検索してみたら、酒屋の増田屋というのが近くに見つかりました。備前掘の近くで、酒屋というよりも雑貨屋みたいに、いろいろな品物が置いてあったと思います。
増田屋酒店 google streetviewより
我が家はそこからすぐ近く(四軒長屋の4棟分くらいの距離だったかと)、母と時々何かを買いに行ったのを覚えています。地図で見ると直線距離で明戸小学校へは600m、明戸中学校へは250m位のところにわが家があったように思います。
小学校へはもちろん歩きで、子供の足で30分以上掛かった感じです。途中に寺の境内で遊んだ記憶があるので調べたら「惣持寺」という寺が確かにありました!
惣持寺 google streetviewより
最後に、現在の「西畑」あたりの写真を見てみましたが、官舎らしきものは一つもなく、ちらりほらりと一戸建てが見えます。そのほかは麦畑になっているみたい。地名も西畑ではなく、蓮沼に変わっていました。合併された様です。
うさおの絵
日出彦の記憶3
田舎の家のスケッチ、拝見しました。外観図は自分のイメージそっくりです。鳥小屋は自分が小3位のときに鳥を潰して食べてしまったから、横浜に移るころは取り壊されていたと思います。
細かいことをいうと、隣の棟との間は5m位離れていて、中央に人が一人通れる位の小道が作られていたと思います。こちら側の2m位の幅の敷地に母が花や野菜を作っていました。内観図は少し感じが違うようです。うさおが弓で射られた表の部屋はもっと大きく(6畳位かな)、奥の台所側の部屋はそれよりも小さかった(4畳半位かな)と思います。
※うさおが弓で射られたのは、自宅ではなく官舎群のはずれの家の外壁です。
うさおの絵
うさおの絵
夏になると赤城山の方から頻繁に雷がやってきて、表の部屋に蚊帳を吊って雷雨の過ぎるのを待っていたことを思い出します。この部屋が夜は寝室になるのでした。蚊帳の中にとってきた蛍を放したこともありました。土間と部屋の境は障子で仕切られていたと思います。 奥の部屋との境は半間ほどの壁があって、そこに父の本箪笥(?)がおいてあり、残りの空間は障子(2枚分なので1間かな)があったように思います。押し入れはスケッチどおりの場所だったと思いますが、床の間はどこだったか? 押し入れと並ぶ窓際の隅だったかも知れません。
これも半間位でした。ここに掛け軸と置物があったような? 小1のころ、そこにある魚が象嵌してあるやかんのような水差しに、とってきたとんぼをいれて、大量窒息死させてしまった苦い思い出があります。
魚二つの水差し(想像:多分こうだったんじゃないか劇場 魚は嘘っぱち!)
風呂は造幣局官舎群のほぼ中央に銭湯があって、始めはそこに3日に1度位の頻度で行っていましたが、ちょっと遠かった。
やがて父が台所の方を増築して、風呂場を作りました。風呂と言えば、向かいの棟の隅が同級生の蛭川貴美子ちゃんの家で、うちの勉強部屋の窓の向かいが蛭川さんちの風呂場でした。妹と二人で風呂に入っているときに、声をかけてくることがありました。
狭い部屋だったので、戦前に川崎の家で使っていた家具調度の多くは石塚の本家の蔵の2階に置かせて貰っていました。いま、うさおの家にあると思う英語の名作小説や文学全集などはその蔵に保管されていました。
※それらの本は現在手元にありません。
中1まで住んでいたのに、残念ながらあまり思い出せません。
奥の部屋は食堂でもあり、学校から帰るとちゃぶ台の上に蝿帳がかけられていて、おやつが入っている風景を思い出します。
台所は多分土間で自宅に手漕ぎ井戸を引いたころに、大工さんに頼んで、板の間にしたように思います。最初はかまどだったかもしれませんが、炊事は灯油のコンロ(空気入れみたいなのが付いているやつ)でしていたと思います。
うさおの問いかけ3
そうだ、「ひるかわさん」って親から聞いて覚えている名前です。てっきり「昼川さん」だと思ってました。「蛭川さん」だったんですね。
日出彦さんの友達が家に遊びに来て、玄関脇の六畳で鯵だかの煮付けの魚をおかずに夕飯を食べていったら、お皿に骨も残っておらず綺麗に食べていったという話は聞かされていました。食料事情の悪い時代だったので、魚の骨も貴重なタンパク源だったのではという話でした。
三橋達也の話も良く聞いています。
農業用の堀(幅1mくらいかな)があったんですね。備前堀は幅5mくらい(もっと大きかったかな?)だから違いますよね。
備前堀
google streetviewより
面白いのは水差しです。イメージが湧きませんが、きっと鯉は象嵌で水差しの表面がツルツルの銀のようなものをイメージしました。次第に絵が描けそうな気がしてきました。
日出彦さんの記憶4
長屋の俯瞰図ですが絵のような感じです。蛭川さんの棟の先にももう一棟あって、その先に農業用の堀がありました。小3位の時に水がある6、7月にカエルだか虫だかを取ろうとして落っこちで、浴衣を着ていて溺れそうになり、ずぶぬれで家に帰った記憶があります。
また、冬場に自転車の習い立てに夕刻道を走っていて、この堀に落っこちて水がなかったので堀底で打撲した記憶もあります。一瞬、無重力になったような感覚が今も残っています。
どぶ川の先の絵には描かれていない2軒先の棟に、前に記した「三橋達也」氏の両親の家がありました。お母さんが今に映画に出て有名女優と共演すると話していたそうです。
三橋さんは多分1年位で東京に引っ越していかれました。三橋さんの件は、母の自慢話の一つだったように思います。
考えてみると、蛭川さん、須藤さん、永山さんと隣同士の同学年の子供がいたことになります。永山さんのところは男の子で「やっちゃん」と呼んでいたのは覚えていますが、正式な名前が思い出せません!
家の間取りですが、こんなものかと思います。フィクションが入りそうでやめときますが、内風呂はいつ頃からだったか覚えていません。隣の貴美ちゃんが風呂場から声をかけてきたのが小5の頃なので、その頃にはかなりの家で内風呂を持っていたと思います。
母の衣装箪笥もあった筈ですが、4畳半の方だったかも知れません。
6畳の90センチ幅の床の間にあった水差しですが、絵のような洋式のモノではなく、もっと角ばって細長い和式の湯沸かしです。※飾り物として鯉が2匹象嵌されていました。色は銀色で、材料は軽かったので、真鍮か銅の鋳物かもしれません。
※水差しの絵は書き直してあり、前の絵は寸胴のものでした。
表は銀メッキしてあったのかな?似たものがないか、webで探してみましたが、今のところ洋式のものばかりで、見つかりません。
だんだん印象に近づいているようです。
うさおのつぶやき
●※造幣省、造幣局と記述がありましたしたので、ネットで探してみましたが該当する官舎が出てきません。造兵廠でググると以下の文が出てきました。火薬工場だったようです。
なんとあの上敷免の煉瓦工場が造兵廠の明戸工場に接収されていたそうです。知らんかったです。
※上敷免日本煉瓦製造株式会社は、ホフマン窯以外は取り壊されて現在はありません。
造兵廠・深谷工場(製造所)
○東京第二陸軍造兵廠は、大日本帝国陸軍の陸軍兵器廠のひとつ。略称二造。主に東京都
板橋区の板橋製造所を指す。
1940年に組織改編によって陸軍兵器廠の板橋の火薬工場が東京第二陸軍造兵廠となった。
赤羽線をはさんで東の十条側は東京第一陸軍造兵廠となっている。板橋製造所のほかに深谷製造所(埼玉県深谷市)、曽根製造所(福岡県北九州市、当時は小倉市)、宇治製造所(京都府宇治市)、岩鼻製造所、忠海製造所(広島県)、香里製造所(大阪府枚方市)、荒尾製造所(熊本県荒尾市)があった。
○深谷製造所
戦局悪化に伴い、板橋工場の疎開先として1年で用地買収を済ませ、1944年10月に開所した。10ヶ月後に終戦。現在県立深谷第一高等学校が立地している場所に本部が置かれ、深谷工場、明戸工場、櫛引工場が存在した。
従業員は2,375人。深谷製造所給水塔は2003年に国の登録有形文化財に登録された。
https://senseki-kikou.net/?p=11737
以前に赤羽の旧陸軍兵器補給廠専用線跡(練兵場、被服廠、火薬庫、造兵廠を結ぶ鉄道線)を見に行っています。痕跡は跡形もありませんがここも造兵廠だったんでしょう。
軍用線の再現地図
うさおのおどろき
●英語の名作小説や文学全集?あったかなあ?こちらに移り住んでからは天文の本も見かけていません。実家を建て直した時に、引越し業者に本のダンボール箱を十数点預けましたが、返ってきたのは捨ててくださいといった不用品ばかり。無くなったダンボール箱に貴重の本があるのか?それに引っ越して以来、開けたことのないダンボール箱が5点ほど有る。色々なものの下敷きになっているので開けにくい。暇な時に開けようと思うのだが・・・。
英語の日本旅行記はありました。ああ、英語の本たちが気になる。本家の蔵にまだあるのかなあ?
●うさおと日出彦さんとは7歳違いですよね。中1だと11、12歳、引っ越した当時は私は4歳半位だったのでしょうか?2歳半だと思っていました。根本的な間違いをしていたようです。なら私の記憶力はあまり無い方なのかも知れません。ああ、神童だと思っていたのに。
●丸ちゃぶ台、蝿帳、昭和ですね。絵にはなりそうですが。
●手漕ぎ井戸が自宅にあったんだ。裏にペスが繋がれていたことしか憶えていません。肉汁の掛かったご飯は食べましたが、白いご飯は鼻づらでお椀の外に押し出していました。
大分手掛かりが増えてきました。人名などよく覚えていますね。
また部分的に絵を描いてみます。
うさおの絵 家の中に井戸があった
日出彦さんの記憶5
深谷にあったのは、東京第二陸軍造兵廠深谷製造所でした。西畑にあったのは、おそらく、ここの官舎で、ほとんど使われないまま終戦を迎え、一般国民に売り出したのだと思います。子供の頃、「ぞうへいしょう」と聞いていたので、てっきり造幣廠と思ってしまいました! 下記を参照ください。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/116147
西畑は小山川から導びかれた備前掘が背後にあります。備前掘は、正式には備前渠用水路と言うようです。江戸時代の代官 伊奈備前守忠次が開削したそうです。ここがキャサリン台風で決壊し氾濫したのです。キャサリン台風は正確にはカスリーン台風だそうで、利根川の下流の、東京などが甚大な被害を被ったようです。
それから見ると我が家の被害は小さいもので、記録にも残っていないみたい! 深谷市に併合されたので、明戸村村史というのがないこともあるけれどね。
本家は石塚地区にありますが、ここは小山川を背負っています。疎開先の江原地区も小山川に沿っていて、上流から新井、石塚、江原の順に小山川が流れています。
小山川は利根川の支流です。昔、江戸末期か明治初めに小山川が決壊して、そのころ江原地区に住んでいた益田家(多分当時は増田姓)の祖先がひどい被害に会い、部落全体が安全な上流の石塚地区に移住したと、「たか」大叔母さんに聞いたことあります。父に話したら、そうだと肯定したので、間違いないと思います。そんな関係で、疎開先が江原の小暮さんのところに決まったのだと思います。
土手で、<ねんがらごろごろ>という上から横になって転がり落ちる遊びを教わったのも、江原地区の小山川でした。
日出彦さんの記憶6
子どもにとって煉瓦工場は遠くにあり、自転車に乗れる様になって、深谷や籠原の駅あたりに行けるようになってから近くに行ったことがあります。
近所の「トシちゃん」という2歳ほど下の男の子を母が可愛がっていました。少し問題のある家庭の子だったので、近所からは敬遠されていたけれども、母はかばっていた様に思います。そんなわけで、自分のことを「兄貴」と呼んで何処でも付いてきました。その子と二人で自転車に乗って(最初は三角乗りで)よく冒険に出ました。一番遠くは熊谷の駅前で、暗くなって帰ったので親に叱られました。
そんな中で煉瓦工場は新井のまだ先の上敷免にあり、随分冒険した記憶があります。煉瓦工場は遠くから眺めるだけでしたが…。
日本煉瓦製造工場 遠景 2006年3月6日
家からはまず蓮沼地区にある明戸小学校へ向かい、そこから本家のある石塚地区へ向かう道を直進し、その裏手にある小山川の土手道を上流に向かって走って行きました。
小山川はその先で大きく蛇行していますが、左手の沼尻地区を眺めながら行くと、やがて上敷免地区に入ります。さらに、煉瓦工場のある場所より少し上流で、小山川は唐沢川と合流します。そこで唐沢川に沿って少し行くと、備前掘りとぶっかります。そこからは備前掘りに移り、新井宿を通り、明戸中学校のあたりで一般道路に降りて、西畑の我が家に戻るコースです。
ちなみに、深谷駅近くの唐沢土手の桜並木は花見の名所でした!
でも、自転車による冒険は1年位しか続きませんでした。家庭の事情で「トシちゃん」が転校してしまったからです。
うさおの記憶
日本煉瓦製造の工場には小さい頃に行った記憶があります。高い煙突と床に水が溜まっている地下のような通路です。小さい子が歩いていける距離ではなかったので、日出彦さんのように大きい子が自転車に乗せて連れて行ってくれたのかもしれません。終戦後5年も経っていない時代なので、火薬工場跡は大変危険な場所ではなかったのかと考えられます。良く無事で帰ってこれました。
記憶を頼りに再現した絵 工場の建屋
記憶を頼りに再現した絵 地下通路
日本煉瓦製造工場
2006年3月6日
日本煉瓦製造工場ホフマン窯 2006年3月6日
日出彦さんの本の記憶
それから英語の本はB7か文庫版位の大きさで、挿絵付きの文学全集でした。出版は外国で、米国か英国ではないかと。
スティーブンソンの宝島、ジェーン・オースティンの何とかアベイ(修道院)などがあった記憶があります。もちろん、英文は読めないので、挿絵を楽しんだ記憶があります。
横浜に移り住んだ家の親父の部屋の本箱に置いてあったと思います。
それとは別に「マンチュウコウ(満州国)」という英文の本もありましたね。多分、批判的な文章も入っていたと思うのですが、戦時中、よく持っていましたね。
また、立派な装丁の国内の文学全集もあり、神之木に持ってきていたのではないかな?
漱石、芥川、菊池寛、志賀直哉、など拾い読みしたのを覚えています。でも、これはもしかしたら石塚の御蔵の記憶かも知れません。
うさおの絵 貴重な本の行方は? ティモシェンコの構造力学の絵(参考図)