私のオーディオ遍歴と音楽 1

                  タツノオトシゴ




◇ タツノオトシゴ・新連載シリーズのご案内です。
 うさおさんからのリクエスト、「オ-ディオに関する連載」を少し書き始めていますが、なかなか難しい・・・お題を『私のオーディオ遍歴と音楽』に書き替えてみました。
 物心ついたときから、音楽が身近にあったわけではないのですが、記憶をたどれば辿るほど、『音』に関する記憶が蘇ってきます。
 以前、『音の心理学』のシリーズを書き始めていたこともあり、私には『音』と記憶がどこかで結び付いているようです。

『私のオーディオ遍歴と音楽』 ①オーディオへの道「入門編」
 父親は古建築保存修理の建築技術士であったため、写真関連の影響は多分に受けているタツノオトシゴですが、音響については改めて考えると接点が出てきません。それでもラジオやカメラなどの新しいもの好きであった父が、3歳ぐらいの時にハーモニカを買ってくれた記憶があります。母親の方は昔(戦時中)、小学生の代用教員の経験があるため音楽との接点は多少有ったのかも・・・家にオルガンと言う大きな楽器が届いたときの、母親の満足そうな顔が私の記憶(中学生の頃)に蘇ります。

 母親の実家が寺だったため、保育園時代を含めて何年かを母方の実家で過ごしています。
 音との関係でいえば、お寺で催される色々な行事・・・お経(声明)以外にも聞こえてくる鐘や木魚、数珠の擦れ合う独特な音と線香の匂い、が思い出されます。先導役の発声に続き、他の僧侶たちがそれに続きます。まるでソリストとコーラスの掛け合いで、独特のリズムや抑揚、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものです。そして、ご詠歌になると女性の声が中心です。子どもの頃は真似するには、「お経」より、ご詠歌の方が声に出しやすかったですね。タツノオトシゴの「音響(音楽)への目覚め」は、この頃にはほとんど出来上がっていたと思います。小さなときに研ぎ澄まされた聴覚や嗅覚、他の人より過敏だったのかもしれません。
(発達障がい者の多くは、その傾向が強いようです)

                            
 人間の情報は8割近くが視覚から、残りの2割が聴覚から脳に伝達され、嗅覚や触覚は数パーセントしかありません。ヘレンケラーのような3重苦の生活は、私たちには理解できない別世界のような気がします。(涙)
 子どもの頃は、母屋とは別に建っている『蔵』と言う存在が不思議なものでした。
 『蔵』は、重い扉が閉ざされたままです。年に数回開くことがありますが、子どもは中々入れてもらえません。それでも、数回中に入った時の記憶が鮮明に残っています。
 あのかび臭いような、湿気の少ない独特の臭い・・・そして薄暗さと静寂など。
 『蔵』の2階は、おとなの人でもめったに登らないようで、そこは未知の世界です。
 母方の実家の『蔵』の中、戦前からの古い蓄音器が有りました。針は錆びかけた鉄針と竹針の二種類が残っていました。

 赤いレーベルと青いレーベル以外に、黄色や白いレーベルも有ったような・・・
 その中で私の興味を引いたのが、米軍の戦闘機や爆撃機の音源でした。編隊を組んで3000メートル以上の高空を飛んでいくB-29、低空を単独で飛行してくる戦闘機(グラマン)、双胴の戦闘爆撃機(P-38)など、実物を見たことのない音源に何故か心ときめいたのを覚えています。しかも、音の前に「高度1500m」などの解説付きでした。薄暗く乾燥した『蔵』の中、周りの雑音もなく適度に残響もあり、音響的に素敵な空間だったと思います。           


 昭和28年の春に東京(北区の赤羽付近)へ引っ越た時、空を眺めると米軍の双胴機(P-38)が飛んでおり、「あの時の音と同じだ!」とすぐに分かりました。戦後の間もない頃、上野の駅付近には傷痍軍人さんも居て、戦争が身近に感じられたのです。
 しかし戦後まもなく生まれた団塊の世代、新しい憲法のもとで教育を受けています。
 上京し小学校に入学しても知っている友達はいないし、標準語も聞き取りにくく、毎日の授業を嫌々受けていました。教科書の指定された場所を読むのが苦痛で、休み時間に一人で校舎の裏に隠れていました。書道や音楽の時間などの科目はその点気楽に受けていました。 赤羽はGHQがいた駐屯地に近かったせいか、普段は路面電車が走る道路を、戦車が普通に走っていたのにはビックリしました。小学生とはいえ、間近で聞いたその機械的なキャタピラの音、迫力十分でした。(^^;

 田舎暮らしから急に都会(東京)に引っ越し、小学校も1年生の3学期に下町から杉並区に転校し、父親の官舎(3DK)で暮らし始めた頃、小さなレコードプレイヤーを買ってもらいました。最初はソノシートというビニールの薄い盤で、モノラル音源です。それをラジオ(ONKYO製品)の大きなスピーカーにつなぎ、小さな別のポータブルラジオも鳴らしたり、結構楽しい時期でした。中学生以降になると、レコードの音源と増幅器を繋いだスピーカーがワンセットであることも理解できました。16センチのSP(アシダ製6PH-F1)を厚さ1.5センチの合板に、指定された開口部を開けたものを部屋の隅に取り付け、NHKの第1と第2放送でステレオを聞いたのもその頃です。それでも、劇場や映画館の迫力のある音(多分ステレオ音源)には敵いません。このスピーカー、今では2本セットが17万円位で出回っているらしく、当時の20倍くらいの値段になっています。              

 オリンピックでTV放送が一般家庭に普及する前の時代、人気番組の時間帯(夕飯の食事時)に見せてもらいましたが、お互い気まずい時間だったと思います。
 その後、各家庭にTVが普及し、やっと自分の家で見られるようになりました。
 真空管のいっぱい詰まった大きな箱、ラジオとは違った機器は修理するのも大変でした。
 NHKのテレビ放送で、「テレビの修理」という専門家向けの番組があり、その雑誌を買ってきてテキストにした記憶があります。修理の手引書を見て、何度か直しているうちに、それぞれの回路の役割も理解できるようになりました。何でも分解して修理するうちに、オーディオの基礎知識を自然と覚えてしまったようです。  
(電源回路、整流回路、増幅回路、イコライザー回路など)
 それからがオーディオへの最初の一歩を踏み出した原点のような気がします。

 次回は、「熱中編」・・・マニアックな世界にお誘いします。