根岸競馬場 補稿





 
 
 前回、「健さん」の発案で根岸競馬場跡の蘊蓄を語らせて頂いた。その後にも、健さん、うさおとも、当時の資料をいくつか見つけたので、また要らぬ口を叩いてしまおう。(*^^)v

 最初は健さんが自分の脚で調べてくれた貴重な資料からご紹介。

根岸競馬場跡新旧風景 
健さん

 根岸競馬場跡は年代、用途によって整備されたり取り壊されたりしているので様相の変化が著しい。
 現在の状況と比較しやすいのが下の写真である。


昭和4年(1929年)の根岸競馬場全景(横浜市史資料室)

 右端から競馬場の周りの細い道が山手本通りから繋がる横浜根岸幹線道路の元。途中斜めに下っているのが現・根岸駅へ行く坂道(不動坂)。こうしてみると道側からはかなりの高台になっている。分かりやすいのがうさおさんの資料、昭和26年(1943年)の俯瞰図だ。右側のコース下の林のある所と道路を見るとかなりの高低差がある。ここは現・森林公園の端の入り口にあたり50年前に自分が見上げた所と思われる。
 米軍住宅の現在の状況と照らし合わせるとスタンド前の直線コースが根岸台と山元町の抜け道である生活道路となりコースの内側に米軍施設が建てられた事になる。又、50年前自分が行きどまりと思った不動坂の真上には消防署bTがある。従ってこの先は行った事が無いがここから根岸台のバス停までの道沿いには米軍住宅が建ち並んでいたが現在は撤去されている。
 因みにユーミンの「海を見ていた午後」に出てくる山手のドルフィンは消防署bTと眼と鼻の先である。
 今回、寄稿するにあたって現況を見に根岸森林公園へ行ってきた。前回は山手の外国人墓地から延々と歩いたが今回は京浜東北・根岸線と横浜市営バスを使って消防署最寄りのバス停へ直行した。意外と近く横浜から根岸駅までは10数分、根岸駅からのバスは1時間に3本だが乗れば5分程度で着いてしまった。
 現地に立てば何かしら思い出すかと思ったが公園にカフェテラスが出来ていたり道路の向いは新しいマンションが建っていたりで調査の仕様がない。そこで取っ掛かりの消防署を起点に米軍住宅地区を一周し現況とブログから見つけた過去の写真を併せて掲載してレポートする事にした。
 所で、当日はとても暑かったので取り敢えずドルフィンに寄ってみることにした。外観が現代的だと思ったら1998年に建て替えられているとの事だった。
 入ってみると1階は使っていなくて閉鎖されていて、見晴らしの良い2階で営業していた。フロアーには自動演奏ピアノが設置されていてある条件によってユーミンの「海を見ていた午後」がかかるとの事だ。歌詞は山手のドルフィンとなっているが実際の住所は根岸旭台である。山の手の雰囲気を出そうとしたものと思われる。
 オリジナルのドルフィンソーダは、緑が濃く歌詞のように「ソーダ水の中を貨物船が通る」のを見るのは無理でしょうね。


不動坂ドルフィンのすぐ上に消防署のbTの文字が見える。


自動演奏付きのグランドピアノ。

オレンジの皮で作ったイルカが添えられているドルフィンソーダ。

 中にはメロンのピューレが混じっている。メニューには「海を見ていた午後」というオリジナルカクテルも載っている、この店色々なところにイルカの置物や意匠が隠れているのでそれを見つけるのも楽しい。


ドルフィン2階席からの眺望。

 眼下には新築のマンションが建ち並んでしまっているが海は良く見える。窓の外はテラスになっていて外に出て撮影している人も。

 店を出てこれからが一仕事。地図の米軍住宅地区に沿って一回りする・


当日の地図

 地図上の黄色い破線が歩いた軌跡で、二重丸が本稿で取り上げた処となる。


2023年(令和5年)消防署bTの側面

2023年(令和5年)同じく消防署bT(道路側から)

消防署bTから根岸台までの住宅跡地。(2023年) 何故か門扉だけが残ってトマソン状態。

消防署bTから根岸台までの住宅跡地。(2023年) 特有の消火栓、あちこちで見られる。

1980年代(昭和55〜64年)根岸台道沿いの住宅(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 横浜市営バスは昭和47年(1972)山元町を終点としていた市電が廃線になった際、市営バスが根岸台まで延伸して乗り入れる事となり折り返し地点の共同利用の合意がなされた。


1984年(昭和59年)根岸台バス停折り返し所と米軍施設入口と看板(週刊横濱′80)

2023年(令和5年)根岸台バス停折り返し所と米軍施設入口の看板

2023年(令和5年)根岸台米軍施設の入り口と看板 看板が青く新しいものに変わっている。

 入口のゲートには米軍施設の解体スケジュールが貼られている。
 中央のゲートの後ろは監視者のボックスになっており通行する車両によって横にスライドできるようだ。


2023年(令和5年)米軍施設の解体工事、廃材が何カ所かに積み上げられている。


1980年代(昭和55〜64年)根岸台米軍施設の入り口(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 根岸台入り口に入るとまず右側にあるのがガソリンスタンド。


1980年代(昭和55〜64年)根岸台米軍施設(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 続いて厚生施設。壁横に書店の看板、道路側に理容院の立て看板。


1980年代(昭和55〜64年)根岸台米軍施設(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 遊興施設だろうか。Negishi Clubのネオンサイン。


1980年代(昭和55〜64年)根岸台米軍施設(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 
施設のメインビル。各施設を右手に、競馬場スタンドを左に見ながら山元町へ抜けられた。


1980年代(昭和55〜64年)根岸台米軍施設(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 山元町側からスタンドに向かって続く、なだらかな坂道の両側には、馬券販売用のスタンドが並んでいて写真はその遺構。


1980年代(昭和55〜64年)根岸台米軍施設(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 上の写真の数年後。


1980年代(昭和55〜64年)根岸台米軍施設(menehune旅写真 ヨコハマ昔の写真)

 2023年(令和5年)山元町側の米軍施設の出入り口(現在封鎖中)









 森林公園側から見ると米軍住宅地区はフェンスで囲われているが森林公園側からもフェンスで囲っている。
 遊歩道に沿って歩いてくると最終地点はやはり消防署の裏手で、途中フェンス越しに米軍施設やバスの折り返し所が見えている、改めて感じたのは気になる所はあるものの距離的に見て50年前のフェンスは米国施設の無い時期に見たといううことだ。



 最後になぜこんな所を米軍が接収したかだが実は最初にこの場所を接収したのは日本海軍である。戦時中(昭和18年(1943))メインスタンドから横須賀港を見渡せ、艦船や軍事工場の様子、訓練風景を探る事が出来、通信連絡の利便性から軍事作戦上の要所とされたためである。
 後には、印刷会社を従業員ごと引き入れて付近に住まわせ海軍の機密文書や暗号書等を印刷させ厳しい管理体制を敷いていた。場所は一等観覧所を事務所に用い、二等観覧所の地下を工場、一階は植字室印刷機が並び、二階に海軍監督室、軍司令部分室や各課の部屋が並ぶフロアーになっていた。
 こういった経緯から横須賀担当の米軍が戦後この地を接収し印刷施設もそのまま利用し米軍向けの地図やパンフレットを印刷していた。


根岸競馬場内・印刷工場の様子(横浜市史資料室)

戦後、星条旗新聞に掲載された競馬場内の工場の様子(横浜市史資料室)

 更に健さんの探してきた写真2葉を示す。


週刊横濱80‘ 森林化しているが競馬場の第二コーナーからバックストレレッチに入る辺りから撮影したもの(地図だと山元町辺り)

Menehune旅写真 ヨコハマの昔 西日を浴びる馬見所と広場を支える壁は城壁の様。

 続いてうさおの補稿に移ろう。

家にある本を探してみた うさお


昭和8年の根岸競馬場跡 横浜市蔵

 昭和8年の地図では競馬場の西の端に、馬頭観世音の記述があり、祠があったようです。現在はどうかというとgoogleで見ると、「馬頭観世音」の石碑が建っているだけです。昭和8年当時は競馬場として使われています。


根岸競馬場跡脇に建つ馬頭観世音の碑 googleより

昭和39年の根岸競馬場跡 横浜市蔵


 昭和39年の地図では、競馬場に起伏をもたせゴルフ場にされています。戦前は競馬場のトラックがはっきり楕円を描いていましたが、すでに撤去されてゴルフコースの一部になっています。


昭和10年の頃の第一馬見所 「横浜市の昭和」収蔵

 改修されたばかりの第一馬見所は大層美麗です。でも人が住まなくなった構造物は、90年も経つと錆とコンクリートの爆裂でボロボロになってしまいます。やはり、何でも使い続けて補修の手を入れ続けないとね。


昭和26年 9ホールのゴルフ場 根岸、磯子の埋め立てる前で 海に突き出した埋め立て地は旧大日本航空横浜飛行場跡地 「横浜市の昭和」収蔵

 このように俯瞰撮影された写真は珍しいです。中央にクリークがあり橋が架かっています。ゴルフ場の周囲に座席があり綺麗に並んでいます。いや、座席にしては大きすぎるかな。昭和25年に北朝鮮が韓国に侵攻した「朝鮮動乱」が起きているので、これは軍用トラックか、軍事物資が置いてあるのかもしれません。現在の森林公園は、このようにのっぺらぼうではなく、周りに樹木が多く植えられています。


昭和42年 撮影当時もゴルフ場でした ゴルフ場の端に競馬用のトラックが見える 「横浜市の昭和」収蔵

 昭和39年の地図には競馬用のトラックは記載されていませんので、トラックのフェンス際までコースの造成が進んだのかも知れません。


昭和45年の根岸競馬場跡 「写真が語る横浜市の130年」収蔵

看板
 「車両通行止」米駐留軍施設につき許可のない自動車、オートバイ、自転車等は一切通行できません。禁止区域に入れば刑事特別法で処罰されます。山手警察署長

 人については規制を掛けていないので、人が立ち居るのは制限されていないのかな?人のほうがよっぽど危ないような気もするけど。

 ここで言う刑事特別法とは、以下のような条文のものです。駐留軍の一方的な条約なので、日本人には、多多、不条理な文言があります。

「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」(昭和27年法律第138号)の略称。第1章「総則」では、「合衆国軍隊」「軍属」「家族」などを定義し、第2章「罪」では、施設または区域を侵す罪(2条)、軍用物損壊罪(5条)、機密を侵す罪(6条)などを規定。第3章「刑事手続」では、日米地位協定第17条による裁判権の制限に伴う、合衆国軍隊の施設または区域内における逮捕・勾引・勾留・捜索・差押・検証等の手続の制限(10条、13条、14条)、および日本の裁判機関、捜査機関と合衆国軍事裁判所、合衆国軍との刑事事件における協力関係などについて規定している。昭和27年に制定されました。


昭和52年の根岸競馬場跡 市民の憩いの場として開放 「写真が語る横浜市の130年」収蔵

 この当時日本人にも開放されたように見えますが、右下にいる男性二人は明らかに外国人で、今まさにゴルフクラブを振り抜いたところ。後ろにキャディさんが二名付いているので、ゴルフウェアぽっくない黒のコートの男性もゴルフを楽しんでいます。多分、キャディさんが「フォア―!」とか何とか叫んでいるんでしょう。厚生年金機械化前のコントようです。※ラーメンズ
 右の中ほどに一人でゴルフカートを曳きながら楽しんでいる人がいます。これも外人のように見えます。ちっとも日本に返還されたようには見えないな。