根岸の競馬場その2

  坂本龍一氏が亡くなりました。健さんからCaccoに、「YMO Propaganda」と言うの古いYMOのPVに、根岸の競馬場一等馬見所が写っているよと言う情報が寄せられました。
 それは見てみる必要があるね。早速、youtubeで見てみました。映ってますねえ。

 youtubeの根岸の競馬場の蘊蓄は健さんにお任せします。

 ここで少し、根岸の競馬場について少しおさらいをしておきます。
 横浜居留区に住む英国、米国、仏蘭西、阿蘭陀諸国と徳川幕府との間に、居留外国人用の競馬場を造る話し合いがもたれ、慶応2年(1866年)に、英国駐屯軍が設計した日本で最初の「根岸競馬場」が出来ました。
 うさおや日出彦さんの祖父、廣岱が1865年に生まれていますので、幕末の動乱期(生麦事件などもあった)であったと思います。
 当時の設計者はウィットフィールド・アンド・ドーソン(横浜もののはじめ考 横浜開港資料館)であったそうです。
 競馬場の運営は、「横浜レースクラブ」(英国中心)が行い、その後、明治13年(1880年)に日本レースクラブが引き継ぎました。


明治4年の「横浜地図」 上の出っ張りが根岸の競馬場 横浜開港資料館蔵

 「F.ベアト幕末日本写真集」(横浜開港資料館)の本に添えられている横浜地図(明治4年)を見ますと、遊歩新道が堀川(大岡川支流)沿いの元町にあり、地蔵坂を曲がり山元町を抜けて競馬場に至っています。


根岸競馬場 レースを見る近隣の人 馬の博物館蔵

 この写真は明治3年11月に行われたレースの模様ですが、右手に一等馬見所(スタンド)、左手に二等馬見所が写っています。右手の外人は「ファーイースト」編集発行人ブラックです。「ファーイースト」については、ご近所トマソン隊 035神奈川台場 の浦島町にある宗興寺にある「神奈川砲台招魂碑」で述べました。


出来立てほやほやの根岸競馬場 横浜開港資料館蔵

 慶応2年の根岸競馬場の写真です。ベアトの写真じゃないかな?出来立てほやほや、谷を埋めて馬場を造りました。右下の径が遊歩新道です。(文明開化期の横浜・東京 〈古写真でみる風景〉 横浜開港資料館より)


昭和9年の根岸競馬場 一等馬見所 馬の博物館蔵

 関東大震災でこれらの建物が崩壊します。昭和7年にJ.H.モーガンの設計になる今の一等馬見所が再建されます。地震に強いようにコンクリートと鉄骨で作られました。J.H.モーガンはこれの他に、山手111番館、山手聖公会教会、ベーリックホールがあります。(ハマの建物探検 横浜シティガイド協会)


根岸森林公園とnegishi avenue googleよ

 終戦後、周辺は米軍に接収されていました。米軍の軍属が暮らしていた「根岸アベニュー」があります。学生時代に「negishi avenue」にうっかり入り込んで、何だか家の中からソウル・ミュージックが鳴り響き、踊っている米兵家族を見て、「ここは外国だ!」と吃驚した記憶があります。あの当時は今のようなフェンスが無かったのでしょうか。
  2001年5月6日に根岸の競馬場に散歩に行きました。いくつか当時の写真があります。ライ隊員も元気に駆けずり回っていました。


根岸競馬場 根岸森林公園越しの競馬場  2001年5月6日

根岸競馬場 薄暮の中の競馬場  2001年5月6日

根岸競馬場 元気なライ隊員  2001年5月6日

根岸競馬場 森林公園は本当に森がある  2001年5月6日

 米軍の施設や軍属の住宅を見ると、いまだに大東亜戦争は終わっていないなと思う。「keep out」の文字は横浜に住んでいる人は、小さい時から馴染んでいる文字だ。


根岸競馬場 米軍の施設越しに競馬場の塔が見える  2001年5月6日

 時折内部の見学会が催されているらしいが、案内に気づかないんだよな。


根岸競馬場 東側を望む  2001年5月6日

根岸競馬場 蔦が絡まっていい感じだ  2001年5月6日

根岸競馬場 北側を望む  2001年5月6日

根岸競馬場 この丸窓は大正、昭和期に流行ったね  2001年5月6日

根岸競馬場 北側の広場  2001年5月6日

根岸競馬場 PVにあった地下の入口の建物は無い  2001年5月6日

根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

 看板の説明
「根岸森林公園は第二次世界大戦までは、競馬場として利用されていました。競馬場には馬場のほかに、一等馬見所・二等馬見所・下見所などの施投がありました。全ての施設は、アメリカ人建築家J・Hモーガン(1877-1937)による設計でした。
 J・Hモーガンは多年にわたり、根岸競馬場の施設を設計しています。設計の過程では、設計案の変更を行っており、主な施設である一等馬見所・二等馬見所は、実際こ設計された設計案のほかに別の設計案がありました。
 ここでは、図面と写真で、一等馬見所・二等馬見所の設計過程及び建設された後の建物の様子、当時の競馬場の様子を紹介します。
 現存している建物は、一等馬見所で昭和5年(1930年)に建設されたものです。」


根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

根岸競馬場 案内板  2001年5月6日

根岸競馬場 中央の施設は窓はレストランか?  2001年5月6日

根岸競馬場 中央塔  2001年5月6日

根岸競馬場 塔は階段室になっている  2001年5月6日

根岸競馬場 右に馬見所(スタンド)がある  2001年5月6日

根岸競馬場 鉄骨屋根の上に貴賓室があった  2001年5月6日

根岸競馬場 妻壁のアーチ窓はレストランのものか?  2001年5月6日

 昭和44年に根岸の競馬場は返還されましたが、建物の老朽化は激しく現在では立ち入り禁止になっています。
 余談ですが、横浜には多くの駐留軍の占有地が多くあります。返還されたものを下表に示します。
 返還されると旧日本軍の遺構が無くなり、住宅地などになるのが残念です。

 田奈弾薬庫 青葉区奈良町  昭和36年5月5日返還
 中山通信施設 青葉区荏田北二丁目  昭和36年6月30日返還
 大船倉庫地区 栄区小菅ヶ谷一丁目  昭和42年1月20日返還
 根岸競馬場地区 中区簑沢ほか  昭和44年11月23日返還
 富岡倉庫地区一部 金沢区富岡東二丁目  昭和46年2月17日返還
 山手住宅地区 中区山手町  昭和47年2月9日最終返還
 横浜ランドリー 神奈川区山内町  昭和47年1月17日返還
 鶴見野積場 鶴見区大黒町   昭和47年5月15日返還
 横浜貯油施設 鶴見区大黒町  昭和47年10月23日返還
 岸根兵舎地区 港北区岸根町   昭和47年8月25日返還
 横浜ノース・ドック内モータープール 神奈川区千若町一丁目  昭和49年2月8日返還
 横浜ベーカリー 神奈川区金港町  昭和52年9月9日返還
 横浜チャペル・センター 中区横浜公園  昭和53年6月19日返還
 横浜海浜住宅地区 中区本牧原  昭和57年3月31日返還
 根岸住宅地区 中区簑沢  昭和57年3月31日返還
 新山下住宅地区 中区新山下三丁目  昭和57年3月31日返還
 横浜冷蔵倉庫 中区新港町  平成6年4月1日返還
 神奈川ミルク・プラント 神奈川区亀住町  平成12年3月31日返還
 小柴貯油施設 金沢区柴町  平成17年12月14日返還
 横浜ノース・ドックの一部 神奈川区鈴繁町  平成21年3月31日返還
 富岡倉庫地区 金沢区富岡東二丁目  平成21年5月25日返還
 深谷通信所 泉区和泉町  平成26年6月30日返還
 上瀬谷通信施設 瀬谷区北町  平成27年6月30日返還

 黄色は調査に行ったことがある場所です。
 上の表は横浜市政策局基地対策課が作成したものです。