根岸の競馬場その1   健さん

 




 YMOの坂本龍一氏が亡くなった(2023年3月28日)。1月11日には同メンバーの高橋幸宏氏が先に亡くなっている。YMO自体には興味が無いが思い出したのが。DOKUGAKU3号に載っていた廃墟好きであるグリコ氏の読書感想文、「」の項にある横浜の根岸競馬場跡の事だ。
 この本は2000年1月の発行で余り見かけない本。全国にある廃墟の魅力について建物の外観・内部の様子を詳しく撮影して特集している。この本によれば1983年12月にYMOが解散した翌年に作られた映画「プロパガンダ」の中に根岸競馬場跡で行ったライブ映像があり一等観覧所の内部の様子が映っているとの事で廃墟好きの間で話題になったという。ここは第二次世界大戦後米国の接収地区の中にあり、周りはフェンスで区切られて立入禁止になっていたためだ。実はこの競馬場跡は自分が20代(1970年代)の頃、目の当たりにしている。
 元町を抜け坂を上ると山手の丘の上に出る。ここは山手本通りの道が一本通っていて道の両側には外国人墓地や洋館、フェリスなどの女学校が点在する観光スポットになっている。
 とある日、道路側から外国人墓地を眺めていた自分はこの道をずっと行くと何処へ行き着くのか気になり、歩き始めていた。結構、起伏の多い道ではあったが、やがて普通の日本の商店街となり、根岸森林公園、馬事記念館にたどり着いた。さらに少し先に行くと鉄柵の門があり行きどまりになっていた。傍らには米軍の接収地である旨が書かれた看板があり鉄柵の向こうは草木も生えてない丘が連なっていてスティーブン・キングの書く小説に出てきそうな寂寥感が漂っていた。
 鉄柵の横は石垣と古びた工事用の白いフェンスが森に沿って続き中が見えないようになっていた。途中、フェンスを切って作った戸が半開きになっていたので開けてみるとそこにあったのが競馬場跡だった。中は原っぱでその先には寂れた観覧スタンドがあった。スタンドの奥は闇が濃く、床には外れ馬券が紙吹雪のように散らばった後、風化したようにへばりついている光景がいかにも異様な時間感覚をまとっていた。当時なぜこんな所にこんな物があるのかと思ったものだが、これは山手居留区に住む外国人の娯楽として建設申請が出た頃は生麦事件があったこともあって人が来ない安全なところへというのも理由の一つだったようだ。
 人っ気は無く中に入ってみたかったが米軍に拘束され処罰されるとの掲示板があったのでさすがにビビッて立ち入るのはやめておいた。実際ある廃墟好きは金網部分のフェンスを越えて尋問された時のエピソードをこの本に寄稿している。さて肝心の「プロパガンダ」である。製作は1984年、監督は佐藤信。1983年12月に解散したYMO散開(解散)コンサートのライブ映像と翌1984年に撮影した映像を基に作成した映画作品である。公開は新宿1984年4月5日。新宿シアターアップルを皮切りに7月いっぱいまで各地の公会堂・文化センターを中心に上映され、その後VHSビデオが作成された(定価は14,800円)。「」でこのビデオの存在を知った当時は非常に手に入りにくくなっており、レンタルビデオの店を回っても見つからなかった。ましてやネット環境や版権の事もあってネット上に上がることも無く、閲覧を諦めたまま忘れていた。それから20年以上経った今、坂本龍一氏訃報のニュースを見てネットを検索したところ、メルカリに大量に売りに出されているし自分が探し回ったすぐ後の2001年7月にはDVD化(5,280円)されていてYouTubeにアップされているのを発見。

 映画の冒頭はYMOの信奉者である少年が鶴見線の昭和駅に降り立ち寂れた街のあらゆるところにYMOのポスターを貼りまくる宣伝活動をしているところから始まる。突如現れた高い障壁にもポスターを貼りまくるが壁の一部に人がくぐれる亀裂を発見。中に入ってみるとそこは荒涼とした冬の海岸。浜辺にはナチの議事堂を思わせる巨大なテージが聳え立っている。夜の闇に包まれたステージで少年はYMOの幻のコンサートを見ることになる。

 







 全体的に音楽、ナレーション以外にセリフは無くカラーでありながらモノクローム感の強い映像。ライブの間、少年は時空を超えたかのように各メンバーの観念の世界に入り込むがなぜか対立するかの如く謎の女性が現れ三者三様の沈黙劇が繰り広げられる。最後はステージの大炎上シーン。炎に包まれながら演奏を続けるメンバーと共に建物が瓦解してクライマックスとなる。

主なロケ地
横浜市・鶴見線昭和駅
江の島水族館
千葉・鴨川フラワーセンター
三浦半島・油壷
三船プロ
千葉・館山、平砂浦海岸
浜松町貿易センタービル地下東京電力変電所
中野刑務所脇の塀
根岸競馬場跡(撮影は米軍監視の下におこなわれた)
※鶴見線は工場地帯に勤務する人と駅周辺に住む人のための路線であり本数も少なくどの駅も普段から閑散としていて非日常へ向かう演出として作品のイメージには合っている。因みに昭和駅の名前は近くに昭和電工の工場があるからだ。

 



 しかしながら関心があるのは根岸競馬場跡なので細かい内容は割愛するとして、その映像があるのは最後の30分である。
 まず二等観覧所裏の広場を少年がフェードイン・フェードアウト。YMO3人が徒歩で現れそこへサイドカーで乗りつけた謎の女性と共に一等観覧所のエレベーター塔へ続く地下へ入ってゆく。女性はどことなく銀河鉄道999のメーテルのような雰囲気をまとっている。内部の映像にはトイレ、ロビー、娯楽施設のボーリング場の跡等。劣化した光景が余すなく映っている。変わったところではエレベーター塔上部にあるエレベーターの巻取り機。特筆すべきはこの映画撮影後一等観覧所に隣接されていた二等観覧所が老朽化し危険のため解体(1985年)された事だ。そのため、少年の後ろに映る二等観覧所の佇まいは貴重、出来た時の写真より大きいのは観客増加のため元の設計図を丸々コピーして同じものを増設したからである。傍らには接収後米軍が建てたであろう給水塔や建物が映っている。





















 一等観覧所のスタンドに立つ高橋幸宏のシーンも廃墟ならではの異様な雰囲気。奥に二等観覧所の屋根の側面が見え、見下ろす先には道路と米軍施設がある。
 うさおさんとcacco氏が2001年に訪れた写真では一等観覧所のスタンドの屋根が鉄骨だけの状態になっていて屋根の上の貴賓室も解体されている。映画では劣化しているものの一等観覧所スタンドには屋根がありその上の貴賓室も残っている。
 現在(2023年)、Googleで見るとスタンドも解体されて足場部分だけになり特徴ある三つのエレベーター塔がさらに存在感を増している。
 今回、原稿を書くにあたって現在の状況がどうなっているかGoogleで見たところさすがに40年以上も経つと自分が初めて訪れた時よりすっかり様変わりしていた。まず根岸森林公園だ。自分が見た時の印象。人は結構にぎわっていたものの道路側から見て急斜面の丘になっていて平なところが無く、水たまりのような池もあり公園と思えない状態だった。今は道路側からの入り口はすべて平らになっているし広場も出来て道も整備されている(1989年)。 戸惑ったのが行きどまりになっていた場所の事である。歩いてきた道は山手本通りから途中で横浜駅根岸道路と名前を変えるが地図上ではその先は米軍住宅地区と根岸駅へとつながる道になっている。
 推測するところ行きどまりだった場所は米軍消防署の横(地図でWCのところ)だったと思われる。
 実のところ消防署には気付かなかったし、消防署の向いから根岸へと降りる坂道も見ていない。
(※因みに、この坂道を少し下った所にはユーミンの「海を見ていた午後」(1974年)の歌詞にでてくる山手のドルフィン(1969年創業)がある)
 そして一等観覧所を正面に見ている事から消防署の裏手から森林公園の縁に沿ってフェンスがあったと思われるがスタンドの前には米軍の施設もフェンスも無かったはず。だが横浜中央図書館の地図コーナーで昭和40年代の明細地図を調べたところ米軍消防署と一等観覧所の前に米軍施設がしっかりと明記されている。
 この記憶と現実の溝を埋めるべく資料を検索しているがなかなか見つからずもやもやしている。


2022年の明細地図 




昭和35年の住宅地図には消防署だけだが昭和40年代には道路に沿ってかなりの住宅が明記されている。米軍施設となっているのは観覧所の事と思われる。


根岸のFIRE STATION googleより

山手のドルフィン googleより

【補足】
 根岸森林公園付近の米軍住宅地区の返還は横浜市の整備計画の都合でその都度協議の上、部分的に使用許諾と返還がなされてきた。(公園の整備、道路拡張、生活道路の共同利用など)
 一時期観覧所前の道路は生活道路として根岸台バス停横の出入口と山元町の出入り口は通り抜けが出来たようで個人撮影なら道路脇の米軍住宅を撮ってもあまり咎められなかったようだ。
 両出入口にゲートができ進入禁止になったのは2001年9・11同時多発テロ事件のため。その後は、年に一度根岸フレンドリーシップなる催事があり中に入ることが出来たが、下記返還合意により人がいなくなってからは行われていない。

 

※2004年(平成16)には原状回復が終了した後、返還する合意がなされ2014年には全ての住民はすべて退去している。現在は米軍消防署員が残るのみで施設の管理は横須賀の米軍が交代勤務で監視・巡回を行っていて撤去工事が急がれている。
※一等観覧所・二等観覧所は1982年に返還され横浜市に払い下げられているものの米軍住宅地区の中にある為、今も正面側に回る事は出来ない。そして、今残っている一等観覧所を解体するか残すかは横浜市の手に委ねられている。


根岸競馬場俯瞰 googleより