つげ義春を語るには貸本屋さんを知らなくてはいけません。小学校の近くに十字路があり、そこに貸本屋がありました。若い時からその貸本屋をよく覗いていました。
六畳間程度の広さで、壁に沿って棚があり、中央におばさんが座っていました。
貸本屋には「1,2,3と4,5、ロク」(ちばてつや)、「赤い松葉つえ」(赤松セツ子)、{忍者旋風」(白戸三平)などが置いてありました。後に商業誌にも連載されて、賞を取った作品も幾つかありました。
柔和そうな丸メガネのおばさんは、多少私達が立ち読みをしていてもとやかく言いませんでした。貸本屋の本はハードカバーで紙質が厚く、嵩はありましたがページ数は少なかったと記憶しています。
白戸三平の漫画が好きで、「栬𨊂𠎁潢(いしみつ)」の貸本版を、大学生の時に古本屋で見つけて買ってきた程です。残念なことに引っ越しのドサクサに無くなってしまいました。白戸三平の棚に、辰巳ヨシヒロ、つげ義春、水木しげる達の本が並んでいました。今で言うと「ガロ」系の括りですね。
※白戸三平は大好きで、真田剣流、忍者旋風、サスケの連作もの、大摩のガロ、忍者武芸帳、赤目、スガルの千本などを読み漁りました。
別の棚には、さいとう・たかを、佐藤まさあき、横山まさみち等の「街」系が並び、少女漫画系の棚がありました。「佐藤まさあき」と「横山まさみち」の区別がつき難く、しょっちゅう間違えていましたし、「横山光輝」の積りで借りてきたら「横山まさみち」でがっかりしたとかという記憶があります。
貸本屋が下火になった頃に、貸本屋の近くに「福助湯」が出来ました。うる憶えで申し訳ありませんが、その当時は近くに「大滝湯」があったのであまり行ったことがありません。その福助湯も貸本屋も今はありません。
在りし日の福助湯 2004年5月4日
在りし日の福助湯 2004年5月4日
いきなりの解体工事 2023年3月24日
あららっ・・・無くなっちゃった 2023年4月19日
建物も跡形も無く 2023年4月19日
前振りが長いなあ。
つげ義春を意識して読みだしたのは、大学生くらいの時からです。古本屋があった時代にはあまり手にしませんでした。つげ義春は暗い画質で、心象的な書きっぷりなので、自分の理解が追いつけなかったのです。
つげ義春と横尾忠則とは一歳違いの同年代で、二人は何故か同じ匂いがしますね。Caccoは二人とも好きですよ。絵の中に隠された比喩があるところらしいです。当時の若い人には、この雰囲気が受けましたね。Caccoや健さんはその思いが強いようです。
「ねじ式」、あの当時はインパクトありましたね。まるで状況劇場の舞台を見ているようでした。特に狐のお面の小学生が印象に残っています。あの汽車を運転している子供です。子供かどうかは分かりませんが、坊主頭に絣の浴衣を着ていて、昭和初期の小学生を想起します。
なんと作品の中では、四コマしか出てきません。実際お面をかぶっている絵は三コマです。それでも多くの人が狐面の子供を憶えているのです。すごいなあ、びずりーち!
「ねじ式」では力強さの象徴と言うべき蒸気機関車に乗っています。血管が切れて血が噴き出して腐りだしている腕を抱えて、精神的に弱っている自分。それを助けてくれる存在が狐面の子供なのでしょう。
狐面の少年 後ろ姿 3コマ目
多くの読者が狭い村のなかを通過する蒸気機関車にインパクトを感じているようですが、うさお的には、「~ではないか」と言う自省のような言葉使いに作者の意図を感じます。漠然とした未来への恐れが感じられます。知らんけど。蒸気機関車の窓ガラスが割れているのも象徴的です。
つげ義春 「ネジ式」より
鳥山明も強く影響を受けた一人だと思います。「あられちゃん」の中で幾度となく、狐のお面のクラスメートが出てきます。狐面の子供はお面を外しても同じ顔です。お面をつける意味がないのだが、何となくお面を外しても同じ顔なのではないかと思っていました。
鳥山明 「Dr.スランプ」より
狐のお面を見ると何故、神秘的なイメージが湧き上がるのでしょう。縁日では今でも「こんこんさん」のお面を売っています。定番です。
稲荷社に行くと、宇迦之御魂(うかのみたま)神の使い番として、狐が狛犬の様に鎮座しています。そして赤い鳥居が何本も連なっていることが多いです。家の近くに七島の稲荷社があります。
ななしま稲荷社 2008年5月17日
ななしま稲荷社 本殿 2008年5月17日
ななしま稲荷社 子狐をお仕置き 2008年5月17日
有名なのは伏見稲荷社ですが、羽田の穴守稲荷社も捨てたものではありません。
穴守稲荷社 本殿 2017年11月12日
穴守稲荷社 千本鳥居 2017年11月12日
穴守稲荷社 悪そうなお狐様 2017年11月12日
稲荷社は全国どこにでもありますが、野島の掩蔽壕の小山にもありましたね。武運長久の神様ではありませんが、万能特効薬のような神社です。
野島稲荷社 本殿 2007年9月16日
野島稲荷社 柴犬のようなお狐様 2007年9月16日
稲荷社の狐は五穀豊穣を祈って稲穂を咥えています。古代に水稲農業が伝わってくると、米を食べる鼠が蔓延し、その鼠を捉えて食べるのがお狐さまだったのです。有り難い獣でした。農民は狸を捕まえて狸汁にしましたが、狐汁は食べません。
古代、秦氏の勢力が大きくなるにつれ、秦氏の氏神である宇迦之御魂神を祀った稲荷社は、山の神、田の神としてどんどん神格化されていきます。それに従い使い番の狐も地位がどんどん上がっていきます。
能や神楽舞にも狐のお面は使われるようになりました。随分横道にずれましたが、何が言いたいかと言うと、狐面には素朴な風貌とは裏腹に、何か底しれぬ霊力を感じます。
狐は雨を降らしますし、狐憑きになると凄まじい天の力が付与されます。
さていよいよ本題です。本当に長いなあ、前振りが。大丈夫、安心してください、本篇はすごく短いですから。
ここでは、いろいろな本からサンプルを採取するのが面倒臭いので、「つげ義春流れ旅」の本から取ることにします。その資料から敢えて深掘りをしてみます。
「海辺の人」の一コマです。大雨と上げ潮で岸に戻るのが面倒くさい状況でしょう。此の儘、ここにいると、潮が満ちて溺れる可能性が有ります。でも、何か行動を起こすのに躊躇いがあり、このままで何もしないで居たい気持ちもある。死んでもいいや、この気持ちは判らないではないです。彼の作品の「無能の人」では、河原で形の良い石を売って生業をする人が出てきます。差掛けの下でボンヤリ寝そべって客を待っています。それよりもこの状況は深刻です。命の危険があるからです。でも、漠然と何かが起きてくれるという期待感もあります。つげ義春は此の状況を楽しんでいます。
つげ義春の絵はモノクロでハイライト描法が際立っています。この絵の中では椅子に座った人物に目が行きます。この場の状況の説明は前景の絵で行っています。前の人は多分弘法大師の絵を掲げて歩いています。右のお店が弘法印あめ湯の看板が掛かっているので、弘法大師だろうと思った次第。では奥の座っている人は何を表しているのでしょうか?手に湯気の立つ茶碗を持っているようです。いやっ、違いますね。椅子が向かっている先は佛像が安置された廟のような気がします。ならば湯気ではなく線香の煙と見るべきでしょう。足が悪く霊験のある湯治場で痛みに堪えて誦経しています。そんな頼りない期待感が感じられます。手前にある木の株に紙コップのようなものが伏せられています。これはなんだろう。信仰心の裏側にある他人への依存心が感じられます。
深夜の沼に釣り竿を垂れる男、前の岩に不動明王らしき石像が鎮座し、手前に道祖神と石塔が幾つか建っています。深夜と思えるのは、昼夜灯らしき明かりの電源が切れていること、月が中天にあることから推察しました。普通ならとても怖いスチエーションです。石仏は昼間見ても怖いですが、この男は平気な顔で長い時間、魚が掛かるのを待っています。この沼の深さも気になるところです。ここでも姿見えない期待感を感じます。この沼の鯉を釣ることは犯罪なのでしょう。でも魚を抱えて逃げる快感に想いを馳せているのかも知れない。
お遍路さんが海岸の芦原を歩いていきます。倒れた石塔には「へんろみち」と彫られています。多分、梵字の「ゆ」が緊張点になって絵を引き締めています。「ゆ」ならば弥勒菩薩を表わすので、未来に救世主が現れるという意なのでしょうか、これも未来になにか助けが現れることを期待しているようです。お遍路さんは四人、そう死人を表しているのではないか、現世ではなく死後の世界に託したい願望が見えます。
絶壁に差掛けた漁師小屋に男が一人。大きな波が来れば下の支えは跡形もなく壊され自分も落下してしまう。でも男は今の生活に満足しており、これ以上の変化を求めていない。海はこれから大荒れになろうとしているのに、自分からは能動的動こうとはしない。まずいよなあという自分の声は耳に届いているんだけどね。この小屋に電気が通ており、裸電球が点っています。これっ、絶対建築基準法違反だよな。
漁業組合の事務所を覗く漁師たち、室内は明るいが外は曇天で薄暗い。事務所の裸電球が硝子窓に写っている。こんなに室内が明るいのに漁師たちの顔は暗くて見ることができない。椅子が豪華なのと、前に鏡があることから、ここは港に面した床屋かも知れない。ガス給湯器が付いているし、床屋の方がしっくり来る。暦は2月28日の土曜日。晦日で給料は入っているが、貧しい暮らしは改善されない。暗雲立ち込める外界から、羨望を持って明るい室内を覗き込んでいる。この部屋には何かがある。
いつ崩れてもおかしくない小屋の屋根に蒸気抜きらしきものが付いている。どうやら村の共同風呂小屋らしい。手拭いで顔を拭いているのは湯から上がった男か。見られているのを気にする様子もない。周りは卒塔婆が巡らされていて、恐山の湯小屋のようだ。人魂も漂っていて現世に未練を残すものたちが見つめている。さて、針のない時計を背負っている男は時空を越えて彷徨っているのか。だが、下駄を履いた風貌は、時空というほど高級感はない。直ぐに辿り着くと思って、瓦礫の山を歩いているが、いつの間にか同じ所に戻ってきている。いつか良いことが起きる思いだけで歩いている。
家にどのくらい、つげ義春の関連本があるのか、調べてみた。Caccoも倅も集めてくるし、健さんから回って来た本もある。全部で41冊だった。
概して同じ作品を装丁を変えて編纂されている。
もはや漫画家ではなく芸術家の域だ
Caccoが特に気に入っている写真がこれだ