「何歳まで生きたいですか?」と聞かれたら皆さんはどう答えるだろうか。「できるだけ長く」というのが一般的な答えのような気もする。だが、それは答えになっていない。出来るだけ長くなら200歳、300歳も生きたいのか。恐らくそんなに長く生きる事を望む人はいないだろう。いや、ひょっとしたらいるかも知れないが極く少数であるに違いない。X歳まで生きたい、のXは少なくとも300以下の数字である事は間違いないようだ。
長生きの一つの指標として100歳が妥当ではないか。それを越えれば十分長生きしたと評価して良さそうだ。さて、その100歳を越えて生きたい人がどれだけいるか調査した例があるそうだ。公益財団法人「日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団」が20歳から79歳の男女を対象にアンケート調査を行ったら、100歳以上生きたいと答えた人は22%しかなかったそうだ。
これは一体どうした事だろう。100歳以上生きたくない人は、何歳まで生きたいと思っているのか。新聞記事には年齢別の回答が書かれていないので分からないが、まさか20歳の人が60歳程度生きれば十分だなんて思ってはいないだろう。100歳以上生きたいか否かのYES
or NOの質問ではなく、何歳まで生きたのかという数値目標を年代別に質問して答えを表にしてくれたらもっと良かったのに。
さて、私自身を振り返ってどうだろうか。
自身、死の年齢を意識したのは両親が他界した時だった。母が67歳で、父が83歳で他界し、その時思ったのは二人の平均値75歳でお迎えが来てもいいような生き方をしようと。それより前にお迎えが来た時は「ちょっと待ってくれ。まだやり残した事があるから」とジタバタしても仕方ないが、75を過ぎてからお迎えた来たのなら「お待ちしておりました」と泰然とした態度でいられるようなそんな生き方をしたいと思った。しかしそれは75歳で死にたいという事ではない。できればもっとお迎えは先にあった方が良い。ではそれは何歳なのか。考えて見れば「何歳まで生きたいか」などという問いは考えた事もなかった。ちょっと真面目に考えてみよう。そんなに遠い事ではなさそうだし、死んだらどうなるかなんて恐ろしい事を考えるよりは冷静に考えられそうだし、具体的数値を想定する事が、今後の生き方への指針を与えてくれそうだ。
若い頃はただ漠然と両親より先に死にたくない、両親より先に死ぬのは最大の親不孝だ、と思っていた。子供が出来てからは子供が学校を卒業して独り立ちするまでは死にたくない、と思った。万が一まだ子供が就学している内に死んだら困るので生命保険に入ったが、子供が大学を卒業して社会人になった時、生命保険は全て解約した。今は子供より先に死にたい、子供が死ぬのを見るのは嫌だ、と思っている。
200歳も300歳も生きたくない、と思うのは、そんなに生きると愛する人達が先立つのを見送らなければならないからだろう。子供達が友人達が皆同じように200歳も300歳も生きてくれるなら、それ位長生きしてもいいな、とも思う。
何歳まで生きたいか、という質問は、どうなったら死にたいか、という質問に置き換えられるのではないだろうか。100歳以上生きたくないと思っている人達は、100歳になるまでにもう死んでしまいたいという状況に来る事を想定している、という事だ。死んでもいい状況とは、病気で寝たきりになる、認知症になって周囲の人が誰だか分からなくなる、健康であっても家族や友人に先立たれ孤独に苛まれる、といったところか。何歳になったらそんな状態になるのか予想がつかない事が、何歳まで生きたいかの数値的目標が見つからない事の原因だ。85歳になっても元気でテニスをしている仲間がいるし、40代で痴呆症になった友人もいる。
やっぱり定数目標を立てるのは諦めて、毎日楽しく生きる事にしよう。
取り敢えず昼間テニスを楽しんで、ピアノを弾いて、夕方からお酒が飲めれば幸せだ。おつまみに立派な料理があればなお嬉しいが、無くても蒲鉾とチーズとピーナッツがあれば十分だ。その上にレタスと生ハムがあれば申し分ない。
75歳でお迎えの件、コロナで若干狂った。丸3年間海外旅行が出来ず、行きたい場所がクリアされずに残っているが、残された時間で何とかしよう。75歳でお迎えが来なかったら、その後は毎日いつ来ても良いように、生きる積りだ。
なああんて、出来るかな?
(23.05.31)