今回は安全な電線の扱いについて、昭和6年の資料を用いて検証してみたいと思います。ここに一冊の本があります。「建築業の安全電気の常識」という本です。この本は「東京電燈株式会社」が発刊したものです。當時をイメージして用語はなるべく旧字にしますね。
東京電燈株式会社とは、1882年3月18日に渋沢榮一・大倉喜八郎らによって、政府に設立を出願された電力会社です。明治19年に日本橋の茅場町で創業し、直流の送電を交流送電へ切り替えた浅草の火力発電所は明治29年に稼働し始めます。
戦時下では電力事業の国家統制が行われ、日本発送電株式会社が設立され、「配電統制令」により、東京電燈株式会社は関東配電株式会社に統合されることになりました。戦後はGHQにより関東配電は解体され、昭和26年に東京電力株式会社になりました。
うさおや日出彦の父は、東京電燈株式会社に入社し、戦中、戦後は関東配電に所属したと思います。昭和25年頃に会社を辞めて疎開先の埼玉から横浜に帰ってきました。
東京電燈株式会社設立に当たって、うさおにとって興味深い人物が二人います。一人は後に東芝を創業する工学者、藤岡市助です。
もう一人は大倉喜八郎で、大倉財閥の設立者で鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場、大倉商業学校を創設しました。また、高島嘉右衛門らと横浜水道会社を設立しました。横濱に関係が深いですね。
ホテルオークラ東京は倅の喜七郎が設立しました。大倉鉱業は大倉財閥の中核をなす会社で、今でもホテルオークラや大成建設などの多くの企業の株式を所有しています。
あいおいニッセイ同和損害保険、日清製油、東海パルプ、川奈ホテル、帝国繊維、サッポロビールなどですが、その中でも大倉土木は現在の大成建設になったことは有名です。
さて、いつの時代でも電気インフラと建設業には、現場で多くの接点があり、安全な施工が求められます。今から90年前の安全教本にも今に通じる教訓が多く述べられています。この本の面白い所は、その言い回しや当時の流行りの表現を使って、職人になじみが出るように書いてあることです。
全文を紹介しながら、面白かったところをピックアップしてみます。
表紙
六階建てのビルの工事現場のようです。仮囲いに二階から上は防護ネットが張ってありますね。桟橋階段には建材を担って登る人が三人、屋上にクレーンを操っている人が二人います。手前の空き地は資材ヤードなのでしょう。鉄筋のようなものが置かれています。
電氣の利用について、電燈、動力は勿論のこと、電熱にラヂオとありますので、当時の流行の最先端の代表例だったのでしょう。電熱とラヂオは今で言うエアコンとレンジ、テレビかも知れません。急激な電力使用の増加に、電力会社も驚いているようです。私たちもそうですが、一度便利さを享受してしまうと後戻りできません。今のウクライナの戦争により原油価格が高騰し電気の使用制限が叫ばれていますが、現実的にはなかなか難しい問題です。
ラヂオが
太字になっています。当時の世相を想うと、とってもノスタルジックです。また、一般庶民には電気に対する怖さが知られていないので、勝手に配線替えや切り回しを行っていたことが伝わってきます。無知と慣れなんでしょうが、危ないですね。
慣れの問題と言えばインドネシアでは電車の屋根に乗ってタダ乗りをすると言われていました。頭の横に電架線があるんですよね、揺れたりして触ったら大問題です。2003年にジャカルタに行きましたが、流石にそのようなことは行われていませんでした。市内の高架環状線に乗ったら、扉を開け放したまま走行していました。地上まで10メートルの高さです。鉄道事業者も乗客も安全意識の欠如ですが、これは!慣れと言う認識では解決できないぞ。
2003年11月22日 ジャカルタ KRLコミューターライン
「ヴォルト」、いーすねえ!いかにも電氣って感じです。ここで言う架線の高壓は3,300Vですが、現在は6,600Vで配電しています。この理由が面白いのですが、当時の技術では高壓に耐えられる絶縁電線が出来なかったからだそうです。なるほどね!現在は配電効率も上がったそうです。3,300V送電は切りの良い3,000Vで良さそうですが、当時の技術では電壓降下は致し方無いことだったようで、10%増しにしたようです。現在の技術ではほとんど電壓降下は起きませんが、以前の慣習で6,600Vとしているようです。
どっちみち、触れば感電死です。
※建築で「ヴォールト」と言うと、国立科学博物館のロビーのような天井を指します。こんな形です。
ヴォールト天井
ドーム天井とヴォールト天井みたいな? 国立科学博物館 2019年2月16日
現在でも電線の近接施工は十分な注意を要します。特に鉄道の高壓電線は絶縁体で防護しても、安全離隔を求められます。一番安全なのは電氣を落としてから作業を行うのが望ましいのですが、更に検電接地という結構面倒な作業が必要です。
架空単線式の直流区間では、架線からの電氣はレールをアースにして閉鎖回路を作りますが、時には迷走電流と言って地中に漏れてレールに近接した金属管の流出箇所で電気腐食を起こしたりします。
レールには24V程度の信号電壓が掛かっています。通常触っても問題ありませんが、うさおの様に事故る人もいます。職人さんが腰にドライバーを吊っているのが格好良くて、真似をして腰にぶら下げていました。雨の日でしたが疲れたのでレールに腰を下ろしたのですが、ドライバーの先端がレールに触れ、熱を発し少し熔けました。車両基地内だったので運行には問題はありませんでしたが、決してレールに腰を掛けてはいけません。
この絵の足場を掛ける職人さんは、大変危ない格好で作業しています。電氣への注意もありますが、5m以上の高所で作業するのに安全帯やハーネスを着ける必要があります。こりゃ落ちそうなときには、「思わず手近の電線をつかむは自然である。(中略)落ちるとあぶないと云ふ感じの方が先に立つものであつて、平素の注意も消し飛んでしまふものであるが故に・・・」と言うことになりますね。
しかし名文ですね~。
落下物に関しては、工事現場では「あさがお」と呼ばれる逆庇で防護しますが、この絵にはありませんね。右の人なんか、電線の上に落ちていますよ。こりゃあ大変だ。
「鐵線や鐵板を電線上に落下せしめると断線の原因となるから御注意を乞ふ。」
この絵も良いですねえ。木足場を両足で挟んで体を保持しています。鳶さんと言う言葉が凄く似合います。香港の工事現場では竹足場で、雑技団の様に手足を絡めて作業していました。命綱無しです。
多分、金網は一旦、上の足場まで運んで、下に降ろしたんでしょうね。力がいる作業です。最近は機械化施工が進んでいますが、逆にコントロールできなくて重機を倒しちゃいますね。この方が被害が大きいか。
またこの言い回しが魅力的です。
「電線を越して支線を張ることは絶對に御斷りし度ひ。又電線に接近して支線を張ることも出来るだけ避けられ度ひ。若し巳むを得ず電線に接近して支線を設くる必要のある場合は必ず弊社に申出られ度ひ。」 昭和ではなく、まるで明治、大正かのようでありますね。
これはどういうシチュエーションであろうか?上階の鐡筋を振りまわした人は当然であるが、地上の人は上の人が切った電線に触れたのだろうか?それにしてはやけに電線が長いなあ?こう言うのは地絡というのでしょうか?
地絡とは地面との短絡のことですが、鉄道の場合はその所為で車両の計器が故障し電車が止まることがあります。上の場合は二名負傷で工事が止まるな。
櫓を建てて真矢を打つ杭打作業は、今では民家の新築工事でも見受けられなくなりました。昔はよく行われていました。
真矢とはこんな風な作業を言いますよ。この資料の中では「心矢」と呼んでいますね。どちらが本当なんでしょう。
地固めの「よいと巻け!」のように、大勢で滑車の紐を引っ張って作業するのを見た記憶もあるなあ。この絵では電動ウィンチで巻いています。
今でも架線の下の工事では、感電事故が無くなりません。時代を超えても安全を守る意識は、慣れとともに失われていくのかも知れません。
鉄道でも高壓架線からは2mほどの離隔を求められます。近いと放電して感電するそうです。上記の例では対象になる構造物にはアースを取り、事故を防ぐことが書いてあります。何だか当時の市街地は、ごたごたして過密状態の下町をイメージしますね。「サザエさん」の時代のようだ。
感電事例の注意事項が延々と述べられていますので、少し先を急ぐことにします。
絵は大変貴重なことが描かれています。家を移動させていますが、土台にかっているのは丸太です。梃子の原理で少しづつ移動させています。迂闊なことに電線を繋いだ儘動かしたので、電線が切れてしまいました。電気工事は先に行ないましょう。
昭和6年は米国経済の破綻による大恐慌の時でもあり、都会に住めなくなった人が屋移りしたのでしょうか。
株式市場が暴落し、物価も下落したので中小企業の倒産や操業短縮が起こり、失業者が街にあふれました。小売商は夜逃げし、大学生の3分の1が職にありつけませんでした。「大学は出たけれど」が流行語です。また、この年、満洲事変も勃発しています。波乱の時代でしたね。
漏電により火事になったお宅が写っているが、ここはどこなのかな。火の出た屋根もお店の看板が建っていたように見えるので、浅草や新宿の様に商店街が並んでいる町であろう。もう少し写真が鮮明であれば場所も特定できたであろうに残念だなあ。
ラジオのアンテナが針尾の送信所の様に、大げさなアンテナを張らないと聞こえ辛かったのでしょう。敷地一杯張り巡らせないと役に立たないのは当時の電波出力が弱かったんでしょうね。
緊急の時には乾いた木や竹を用い、乾いた布を手に巻き付けて電線を排除するよう書いてあるが、今ではこの作業も民間人には許されていません。「此の場合跛足や草鞋履では危險であるから必ず乾いた下駄を履くか、又は乾いた板を敷いてこの上に乗ってするがよい」結構、自由に電気を扱ってよいように任されているなあ。
鉄道でも、架線近くに架ける梯子は竹製のものを用いるます。金属製の測量スタッフを軌道内に持ち込むとえらく怒られます。
東京電灯株式会社が明治38年に南千住に火力発電所を建設しました。煙突が四本あり、見る位置を変えると一本、二本から三本、四本に変化したため、お化け煙突と呼ばれました。詳細は019近所の煙突考を御覧ください。
こんな風に見えます
煙突の輪切りの新聞記事
現存する煙突の遺構 2017年4月24日