木造校舎
うさおが住んでいる近所に子安小学校があります。「子安小学校百年史」によると、この小学校は明治6年10月に神奈川県橘樹群西子安村3077番地に学舎が建てられました。当時の文部省による学制の実施により、第三大区四小区子安村と言う学区になり、萱葺き屋根の学舎でした。
この学制の実施が明治5年のことですので、子安小学校は新政府にとっても「学び」の先駆け的存在だったようです。これらの教育には、多くの米国人が貢献しています。スコット、モルレー、クラーク、リーランドなどが文部卿(文部省長官)の顧問として活躍しました。
クラークさんは「少年よ、大志を抱け。」のクラークです。
そして明治27年1月に橘樹郡子安村大字村子安入江川1478番地に移転し、「子安尋常小学校」となります。今の横浜一の宮大明神さんの麓辺り、明治乳業の営業所付近でしょうか。子安小学校発祥の碑が参道入口に残っています。
うさおたちの母も叔母もこの子安小学校の出身です。母は校舎は木造だったと記憶していました。 大正12年に関東大震災にみまわれ校舎が崩壊したため、駅前の一等地に鉄筋コンクリート造の校舎を建てました。その後建て替えを経て、さらに子安地域が発展したため、現在は少し東側の日産グランド跡地に移転しました。
1ブロック先に移転
(googleより)
googleの地図で見ると、左下の赤枠から右上の赤枠に移動しています。敷地の広さは1.5倍くらい大きくなっています。
2003年に移転前の小学校を見に行きました。母の時代の遺構に興味を惹かれたからです。
さて、問題は旧校舎に小川三知のステンドグラスがあったことです。
「子安小学校百年史」にその記述が残っています。
子安小学校全景(裏) 2003年1月12日
昔の佇まい (「子安小学校百年史」より)
上の白黒写真にある建物の角にある銅版がありますが、学舎の端に残されていました。
旧館に現存していた銅板モニュメント 2003年1月12日
校舎の出入口に着目です。アーチ状の明り採りの窓がレトロです。
ここにステンドグラスがあった筈 2006年10月22日
ここに小川三知のステンドグラスが嵌めてあったんです。残念ながら校舎の建て替えの時に一部を残して壊されてしまいました。内部を写したかったのですが、最近の学校はセキュリティの問題で一般人を入れてくれませんので、「子安小学校百年史」から拝借してきました。
小川三知のステンドグラス (「子安小学校百年史」より)
この時から小川三知のステンドグラスを意識するようになります。さて、そこで小川三知ですが。
小川三知は日本におけるステンドグラスの草分け的人物です。日本で最初にステンドグラスを作った人ではないが、ステンドグラスを洋風建築の装飾品から、日本的な芸術作品に押し上げた人です。
静岡藩医の家に生まれ、医師として家督を継ぐはずでしたが、絵画への思い立ちがたく、家督を弟に譲り自分は日本画の橋本雅邦に師事し、日本画家を目指します。
その後、米国に留学してステンドグラスの作風に興味を持ちます。米国で製作技術を習得したのち、帰朝して日本画の花鳥風月をモチーフにしたステンドグラスを多く製作します。 この独特の作風が、何だかノスタルジックで、日本人に共感を持たれるところですね。
三知の没後、夫人は「小川スツヂオ」を設立し、夫の遺志を継ぎ、多くの弟子たちを輩出しました。
幕末期のベアトとか下岡蓮杖などの写真に出てきそうな風貌をしています。
小川三知の研究者として有名な田辺千代著の「小川三知の世界」と「明治・大正・昭和の名品」のバイブルはしっかり持っています。
小川三知のバイブル本
幾つか見てきた小川三知のステンドグラスを見てみましょう。
横浜市長公邸の竣工は昭和2年で、野毛の京浜急行のトンネルの上(横浜市中区老松2番地:上の赤丸の辺り)に建てられています。
関内、伊勢佐木町、桜木町、加賀町(中華街)、元町を見渡せる絶好の立地条件です。
この設計は、横浜市建築課(坂本信太郎、鳥海他郎)の職員が担当しました。この二人が中村鎮博士に教えを請い施工しました。建物の外観はフランク・ロイド・ライトの作品に似ていますが、市の職員さんが設計したんですからね。もともとは洋館と日本家屋からなる「市長住居」だったらしいのですが、日本家屋は取り壊し集会場にしちゃいました。(パーティ会場かな。)
横浜市長公邸 バルコニー 2010年11月3日
会議室に幾つか、凝ったデザインのステンドグラスがありました。小川三知の手になるものです。横浜と言うので、鴎の図柄かと思っていたが、何だか鴨っぽい。「かもめ」から「め」を取ったら「かも」だから関係なくは無いけれど・・・
横浜市長公邸 鴨のステンドグラス 2010年11月3日
横浜市長公邸 鴨のステンドグラス その2 2010年11月3日
図柄は山あいを飛ぶ鴨かな、すると下は波間を飛ぶ鴨と言うことになるが、鴎?北斎風の波に西欧風のステンドグラスの細工が何だかオリエント感がある。ステンドグラスに日本画を持ち込んだ三知ならではの工夫で、特にガラスを合わせたグラデーションが独特です。黄色を主体にした暖かい色合いです。
京浜急行県立大学駅の真裏にある丘の上に建つ田戸台分庁舎(旧
横須賀鎮守府司令長官の官舎)に小川三知のステンドグラスが残っています。
田戸台分庁舎 衛士が立っている 2018年4月7日
田戸台分庁舎 分庁舎の東面 2018年4月7日
田戸台分庁舎 玄関入口の敷石にある海軍のレリーフ 2018年4月7日
居間に入ってみます。ここで海軍の将校達を呼んで軍事会議をしたのでしょう。
田戸台分庁舎 ここは居間 2018年4月7日
ステンドグラス
田戸台分庁舎には、玄関上部の四連窓と玄関脇の二連窓にステンドグラスがはめられております。このステンドグラスは米国で制作技法を学び、草創期に大きな業績を残した小川三知氏の作品です。
田戸台分庁舎 小川三知のステンドグラス 2018年4月7日
田戸台分庁舎 邸内にあるステンドグラス 2018年4月7日
この分庁舎の会議室だか大食堂の欄間にも、小川三知のステンドグラスがあり葡萄の蔓が表現されています。
田戸台分庁舎 食堂とサンルーム間の欄間のステンドグラス 2018年4月7日
田戸台分庁舎 葡萄柄のステンドグラス 2018年4月7日
また、この日は見学させてもらえませんでしたが、2階の部屋にも小川三知のステンドグラスがあるようで、外から撮ってきました。
田戸台分庁舎 邸内の2階にあるステンドグラス(前出) 2018年4月7日
田戸台分庁舎 左のステンドグラス 2018年4月7日
田戸台分庁舎 4連のステンドグラス 2018年4月7日
氷川丸は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造され、1万トンの豪華貨客船でした。太平洋戦争中は病院船として、戦後は北太平洋航路で運航をしていました。
役目を終えた後は山下公園の特別桟橋に係留され当時を偲ぶ貴重な産業遺産として展示されています。2003年に横浜市有形文化財の指定を受け、2007年に経済産業省の近代化産業遺産として認定され、2016年には国の重要文化財(歴史資料)に指定されました。
うさお達には、開港記念日の花火大会に氷川丸の甲板で見たことくらいです。横浜にいれば、氷川丸はよく見た景色の一つで、そんなに興味を引く処ではありませんでした。
小川三知のステンドグラスがあることを知るまでは。
氷川丸のお尻が見えてきた 2019年4月28日
さあ、待望の一等特別室です。秩父宮殿下やチャップリンが泊まられたことで有名です。小川三知の作品が見れると思うと、気分が高揚します。
おお、さすが、小川三知です。オウム、椿、藤、琵琶、いずれも日本画の手法を取り入れていて優美です。この部屋に泊まりたくなりますね。
一等特別室のロゴが 2019年4月28日
次の間付きで 2019年4月28日
小川三知 鸚鵡 2019年4月28日
小川三知 椿 2019年4月28日
小川三知 藤 2019年4月28日
小川三知 琵琶 2019年4月28日
小川三知 鸚鵡の番い 2019年4月28日
次の間と言うか応接室 2019年4月28日
見応えありましたね。中に入って観たかったな。やはり、賤民の出では無理かな。でも、小川三知が見たくて氷川丸に来たので満足です。乗船料はシニアで150円と安かったけど、駐車料金の方が掛かりましたね。
東京都美術館は大変居心地の良い建物ですが、何しろ公募展、企画展が結構良いものを仕掛けるので、並んで待つ必要があります。伊藤若冲の時には上野駅近くまで行列が出来ていました。
東京都美術館は建築家の前川國男が設計した建物ですが、上野の東京文化会館も前川國男の設計になるものです。前川國男と坂倉準三は、共にコルビジェに師事しました。また前川はアントニン・レイモンドにも師事を仰いでいます。
東京都美術館 東側外観 2019年2月1日
今日はこの美術館にある小川三知のステンドグラスを見に来ました。結論から言うと、常設展示はされていないとのこと。美術情報室のお姉さんにも聞きましたが、どうやら倉庫の奥に仕舞い込んで、担当者でもどこにあるのかも判らないとのこと。
常設しましょう。とりあえずは、美術館の案内書にある情報だけでも,ご紹介しておきます。いつか、自分で撮ったものに置き換わるといいね。
東京都美術館ものがたり 表紙
この本の中に、東京都美術館にあった皇室用貴賓室にあった、小川三知のステンドグラスが載っています。ここで紹介するなら常設展示をすればいいのに。
皇室を迎えた窓
東京府美術館の内装にはステンドグラスが用いられ、柔らかな光を放っていた。建物二階にあった皇室用の貴賓室・便殿には両開き窓が二か所あり、ステンドグラスがはめられていた。アンピール様式の家具とともに風格のある空間であった。
また主階の絵画陳列室の天井には、長方形のステンドグラスが一〇〇〇枚ほどはめ込まれていた。実物が失われたいまでは設計図から想像するはかないが、絵画を鑑賞する部屋のため、採光に配慮したシンプルなものだったろう。これらを制作したのは、アメリカで最先端のステンドグラス技術を学んだ小川三知であった。
便殿窓とその部分、1926年。鉛線でガラスを固定してスチール枠にはめ、米国直輸入高級アンティークガラス、半透明のオパールセントガラスなどで構成。
※便殿とはお便所じゃないよ。weblio辞書によると
便殿:びんでん
天皇・皇族の行幸・行啓時に、休憩のために設けられた部屋。
便殿:べんでん
貴人の休息のために設けた御殿。または、部屋。
東京都美術館 新館建設の際に取り外された窓
馬上の騎士が射る獅子狩紋は、アッシリアにはじまり正倉院御物でも見られる古典的な文様です。
東京都美術館 中央部のステンドグラス
国立科学博物館は、子供のころに何度か父に連れて行ってもらった所です。
国立科学博物館 外観 2019年2月16日
小川三知のステンドグラスが、玄関の処に飾られているというので、もっとスケールの小さい窓がしつらえてあるのかと思ってました。
ロビーのドーム天井と東西の端の階段室の天井に、その作品はあります。全然スケール感が違います。大きなドーム天井のステンドグラスがとても綺麗です。同じ日に行った京成線の旧博物館動物園駅のドームも感嘆しましたが、駅のドームはドームと言いましょうか、ヴォールトと言いましょうか、ペンデンティブドームのような空間にアーチ窓がありました。
国立科学博物館のように、半円形の窓にステンドグラスが嵌められているのは、子安小学校などでよく見かけるタイプです。
国立科学博物館概要 小川三知の記述 2019年2月16日
重要文化財 日本館(旧東京科学博物館本館)
日本館建物は、関東大震災による震災復旧を目的として昭和6年(1931)に完成した。ネオ・ルネサンス調の建物は、文部省大臣官房建築課の設計による。鉄骨鉄筋コンクリートで建設されるなど耐震・耐火構造にも注意が払われた。中央ホール上部などに使われているステンドグラスは小川三知のアトリエ製作で、日本のステンドグラス作品の中でも傑作といえる。また・建物の内外に使われている装飾性の高い飾りなども、戦後の建物には無くこの建物のみどころである。
上から見ると、そのころの最先端の科学技術の象徴だった飛行機の形をしている。
なお、平成20年6月に国の重要文化財に指定された。
小川三知 玄関の大ホール 2019年2月16日
小川三知 窓は小川三知の手になるもの 2019年2月16日
小川三知の工房「小川スツヂオ」の手になる作品を見てみましょう。
小川三知 天井の明り採り 2019年2月16日
小川三知 四面の窓の意匠は同じ 2019年2月16日
博物館の建物のレトロな意匠は、本当に心をそそります。天井の明り取りの鳳凰、大聖堂にありそうなシャンデリア、床タイルは八角形で、八芒星か蓮の花でしょうかね。
小川三知 国立科学博物館 圧倒的な迫力 2022年5月31日
パノラマ写真で撮ってみました。この方が位置関係が明らかになります。
小川三知 パノラマ撮影 2019年2月16日
ここからは東翼階段に移ります。ここにも小川三知のステンドグラスがあります。博物館は飛行機の形に作られたことは有名です。左右対称なので西階段もあり、ここにも小川三知があり、同じ意匠です。
上から見ると飛行機だね googleより
小川三知 階段の下から天井を望む 2019年2月16日
小川三知 窓と天井の明り取り 2019年2月16日
小川三知 窓は鳳凰をモチーフ 2019年2月16日
小川三知 天井は洋風に見えるが和風 2019年2月16日
小川三知のステンドグラスの代表作と言えば、この鳩山会館があげられます。当時の小川三知の世間的な評価は知りませんが、著名な工房「小川スツヂオ」の代表工藝人として知られていたと思います。今ではそのステンドグラスの価値はいくらになるかは見当もつきません。数億になるの数十億になるのか、途轍もない額でしょう。
さて、鳩山会館なのですがどんな謂れのある建物なのでしょう。当会館のパンフレットには、
「
鳩山和夫が音羽に居を構えたのが明治24(1891)年でした。鳩山一郎により洋館が完成したのは大正13(1924)年。そして平成7(1995)年、現代の最新技術を駆使して大改修を行い、建設当時の面影を忠実に再現し、歴代の実績を紹介する記念館機能と集会機能を兼ね備えた会館として生まれ変わりました。
」
とあります。鳩山一族の私邸であり、2000坪の敷地に建つ洋館は、音羽御殿と呼ばれました。
鳩山家の建物
東京大学教授(近代建築史) 藤森照信
文京区の音羽の丘に鳩山邸の美しい洋館が姿を現したのは、関東大震災の翌大正13年である。鳩山家は、衆議院議長の和夫(1856~1911)、総理大臣になった一郎(1883~1959)、外務大臣をつとめた威一郎(1918~1993)、さらに衆議院議員の由紀夫(1947生)、邦夫(1948生)、と四代にわたり指導的な政治家を生み育てた。
この洋館を建てたのは一郎で、ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行われている。
設計を手がけたのは一郎の友人の岡田信一郎(1883~1932)で、大正・昭和初期を代表する建築家として知られる。
一郎の没後、傷みがひどくなったけれど、このたび大修復を加え、往年の輝きを回復した。修復に当たり、一郎、その夫人で教育者の薫、威一郎を記念する部屋を設け、公開されることとなった。バラの庭を前に建つイギリス風の外観、鳩をモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室、朝倉文雄作の和夫、春子夫妻像、などなど見るべきものは多い。
小川三知 鳩山会館 結構大きな英国風建物です 2022年5月31日
小川三知の世界は、この建物のエントランスホールから始まります。このボールト様式の天井から雰囲気を醸し出します。赤いカーペットを昇り詰めると、ロビーになります。アーチ型の玄関扉の上には、ハトのステンドグラスが出迎えてくれますね。
小川三知 鳩山会館 玄関のステンドグラス 2022年5月31日
ギリシャ風円柱と鳩が沢山います。作風が小川三知より明るいなと思ったら、大村友雄のデザインを「小川スツヂオ」で制作したものでした。19羽のハトがいます。
小川三知 鳩山会館 ハトが山のようにいます 2022年5月31日
第一応接室の西側の窓の左側のステンドグラスは、補修の際に小川三知でも大村友雄でもないイニシャルが焼きづけられています。※「小川三知の世界」に記述あり
小川三知 鳩山会館 西側壁面右側 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 西側壁面左側 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 別人のサイン 2022年5月31日
第二応接室は居間として使われていました。ここの欄間に花のデザインのステンドグラスがあります。右側の端は花、次は花に鳥(鶺鴒?)、次は花、左端も花です。何の花だろう?
小川三知 鳩山会館 居間のステンドグラスとシャンデリア 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 居間のステンドグラス 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 居間のステンドグラス 2022年5月31日
三間続いた部屋の折り戸を開けると、大きな続き部屋になります。ここは食堂で、ここにも三知の作になる欄間が施されています。題材はライチだそうですが、手が込んでいますね。
小川三知 鳩山会館 食堂の欄間 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 食堂の欄間 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 食堂の欄間 2022年5月31日
内玄関の上に位置する階段の踊場に五重塔のステンドグラスがあります。これは一番大作で重要な作品です。五重塔が立体的に見えるのは、2枚のステンドグラスを重ねて奥行を出すという工夫をしています。小川三知のほかの作品にも同じ技法が使われていますが、これが一番力作ではないでしょうか。
小川三知 鳩山会館 五重塔 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 五重塔 2枚の色硝子を重ねる 2022年5月31日
2階にあった三つの寝室を、一つにして大広間を造りました。天井が高いので圧迫感はあまり感じません。この部屋の窓から大きな庭が良く見渡せます。
小川三知 鳩山会館 書斎 2022年5月31日
小川三知 鳩山会館 書斎 2022年5月31日
安藤記念教会は、広尾駅ので狭い歩道を行きかうのは、外人の子供たちとお母さんたちです。下校時だったので、ピーチクパーチクと
異国の言葉が聞こえ、ついこちらも道を譲るときに「ソーリー」なんて言ってしまいます。はて、通じたかなあ。
さて、安藤記念教会の由来は、当日頂いたパンフレットにはこうあります。
「安藤太郎は1846年に生まれ、漢、蘭、英学を学んだ後、徳川幕府の海軍操練所の生徒となり、坂本竜馬とも交友があった。
榎本武揚に従い、函館戦争に従軍、敗れて獄に入れられたが、赦免の後、有能な人材を求める明治政府により大蔵省、後に外務省に採用された。1871年には、岩倉具視使節団の一員として米欧を訪れ、見分を広めている。1886年には布畦駐在総領事に任ぜられ、ハワイ国ホノルルに赴任した。そこでは、日本人移民者の指導が任務であったが美山貰一・鵜飼猛牧師によるキリスト教の感化力に心を打たれ、太郎は文子夫人と共に1888年7月15日に洗礼を受けクリスチャンとなった。同時にこれまでの大酒飲みであった生活を反省し、禁酒を誓った。榎本武揚などから送られた酒樽2樽を文子夫人が夫を諌めるために流失させた話は当時日米の新開で賞賛されている。その樽の蓋で作った花台は今も当教会に現存している。」
広尾は交通量が多い割に道が狭い所なので、はるか彼方にバスを停めて後は歩いてくださいとのこと。教会に着くころには足はじんじんして、足がもつれそう。
小川三知 安藤記念教会 外観 2022年5月31日
小川三知 安藤記念教会 正面ステンドガラス側 2022年5月31日
この教会の特徴は、大谷石の組積造と小川三知のステンドグラスを有することで、安中教会、鎌倉教会の三教会のみが同じ特徴を備えているそうです。
大谷石は酸性雨のために、損傷を受けるので今後の補修が効かないとか。
小川三知 安藤記念教会 チャーチ棟 2022年5月31日
長山牧師さんが、まずはお座りくださいとおっしゃって頂けたので、喜んで長椅子に座らせていただきました。この椅子も100年以上の年代物だそうです。
小川三知 安藤記念教会 入口側を望む 2022年5月31日
小川三知 安藤記念教会 上から俯瞰 2022年5月31日
布畦(ハワイ)日本人開拓伝道者反受潜者記念と焼き付けられたステンドグラスが圧巻です。
小川三知 安藤記念教会 大窓 神秘的です 2022年5月31日
小川三知 安藤記念教会 中段以下中央 2022年5月31日
小川三知 安藤記念教会 和文と英文が入っている 2022年5月31日
祭壇の左右は、ユリの花をかたどったステンドグラスになっています。また、十字架の上の明り採りの窓にもステンドグラスが施されています。
小川三知 安藤記念教会 右側ユリ 2022年5月31日
小川三知 安藤記念教会 十字架の明り採り 2022年5月31日
旧小川眼科医院
2018年2月10日 2022年5月31日
小川眼科は、その建物のレトロさで有名な医院です。東大で教鞭を執った小川剣三郎氏が創業したもの、剣三郎氏の兄の小川三知が、病院のステンドグラスを製作しました。今は黒澤ビルと名称が変わっています。つまりは小川三知の原点です
上野、御徒町の町は、ここ最近急速な再開発が進んでおり、高層ビルがにょきにょき建っています。外国資本の商業ビルも増えています。それらの中で、ポツンと佇まいを残しています。
ですので、建物の価値だけでなく、この建物のステンドグラスが価値を高めています。
鑑定団風に言うと、「小川三知は静岡藩医の次男として生まれ、医者をめざすが絵画の道へと転進した。上野の東京美術學校に入り、岡倉天心から「君は日本画の手ほどきを橋本雅邦先生から受けなさい」と賜り、後に日本初の「ステンドグラス作家」になりました。」
その後、日本医師会会長だった黒澤潤三氏が院長を務めました。だからこのビルは、黒澤ビルと言うんですね。昭和4年頃の臭いがプンプンします。小川三知は昭和3年に亡くなっていますので、ステンドグラスは晩年の作になるのでしょうね。製作は小川三知夫人が指揮いた「小川スツヂオ」で行なわれたものでしょう。
小川三知 小川眼科外観 2018年2月10日
昭和6年頃の当時の写真と比べてみると、窓のデザインがずいぶん違って見えます。
小川三知 絵葉書から 2022年5月31日
小川三知 小川眼科エントランス 2018年2月10日
日暮里界隈 「鶏鳴告暁」のステンドグラス 2018年2月10日
日暮里界隈 小川剣三郎博士の像と物置の窓 2018年2月10日
この壺を眺める婦人像は、詳細は不明で作者、題名は判らないそうですが、何か温かみを感じます。藝大が近くにあるので、その関係で入手したのかもしれません。小川三知も藝大出身だし。
小川三知 黒澤ビル 女神像の裏に「立葵」 2022年5月31日
今は物置になっている小部屋の扉にも作品があります。これは「田辺千代著の「小川三知の世界」にも載っていません。「郁子(むべ)」の花でしょうか。「小川スツヂオ」の作品です。
小川三知 黒澤ビル 物置の扉にも 2022年5月31日
さらに地下室に移動すると、階段の途中に作品が現れます。意に反して足元に窓があります。今は「スタッフ控え室」になっている部屋から見ることが出ます。明り採りの一種でしょうか。
小川三知 黒澤ビル 階段の明り採り 2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル 階段の明り採り 2022年5月31日
建設当時の絵葉書が残っています。これは大変貴重です。復刻版が欲しいなあ。
小川三知 黒澤ビル絵葉書表紙 2022年5月31日
小川三知 黒澤ビルの絵葉書八葉 2022年5月31日
玄関脇の居間の欄間に小川三知の作品が残っています。「鶏鳴告暁」、「薔薇」、応接間の欄間の「梅」、「椿」、「立葵」など、見どころ満載です。
小川三知 黒澤ビル 「鶏鳴告暁」 2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル 「薔薇」 2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル 応接間の欄間の「梅」 2022年5月31日
応接間に入ると「椿」、ランプシェード、出窓の二様のステンドグラスがあります。ここは普段は入れない部屋で、見学会のために特別にオープンしたものです。
ランプシェードには、植物や動物がデザインされているとのことです。下面の裸婦のレリーフは、小川三知が米国より持ち帰ったものだとか。
小川三知 黒澤ビル 「椿」 2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル ランプシェード 鳥? 2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル
ランプシェード 左側は鹿?
2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル
ランプシェード 裸婦
2022年5月31日
出窓には小川三知ならではの日本画のテイストを残したステンドグラスが残っています。道路に面する窓には、「流水に鶺鴒」、玄関ホールに面している窓に「立葵」です。
小川三知 黒澤ビル 出窓 流水に鶺鴒 2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル
出窓 流水に鶺鴒
2022年5月31日
小川三知 黒澤ビル 母子像の裏に「立葵」 2022年5月31日
大正・昭和の風俗が垣間見えて面白いビルでした。