ニュータウン異聞  神山 幹夫 画 佐藤 隆夫


 ちょうどそれは夕暮時の事だったと思います。僕は研究所の裏門を出ていつものように家路を急いでいたのです。雑木林の中へ、さっきまで見えていた紅い夕陽もすっかり山の端に落ちこんでしまって、すぐにも暗闇がせまってくるほんの少し前、そんな絶妙を平衡の上に成り立っている蒼い空が、僕の体をすっぽりつつんでくれる。この時間の空が僕は一番好きなんです。山辺の空気はもう冷く、吐く息は白い渦をつくって僕の首筋にまとわりついてくる。
 頭の中は明日の実験計画を考えていた。
……今日、RIラバリング・アミノ酸を注射したマウスを明日の朝早くに殺してすぐに肝切片をつくって感光紙に感光させ吸着量を測定してから、切片を氷冷インキュベーション液で洗浄し、トーションバランスで重量測定して、諸々の条件でのアミノ酸画分をして肝内代謝移動を調べてみょう。……
 そんな事を考えながら雑木林にさしかかった。この林を通り抜けて坂を登ったところに我が家があるはずである。そこには、妻一人と小犬一匹、金魚二匹が御主人様のご帰還をきっとまってるはずなんだ。
 フッと背後に気配≠感じて立ちどまった。あたりはもうかなり薄暗く、木々の木葉の紅葉も、闇の中に消しとんでしまっていた。僕は二、三秒、足を一歩踏み出したそのままの姿勢で体をこわばらせていた。いや実際のところ一秒ぐらいだったのかもしれない。それからギクシャクと首だけ背後に廻してみた。こんな時でもスリラー映画の主人公もどきの気持でいるのがおかしくて、ふりかえってみたら「幽霊の正体見たり、枯尾花」ってケタケタ笑いだすんじゃないかな、照れくさくて恥かしくって。でも僕の見たのは、枯尾花でもしだれ柳でもなかった。背筋は固く緊張しきって動かそうとしても動かなかった。凍りついたようを時間がすぎてから、僕はもう一度目をこらしてみた。そこには、林の向うまでずっと続いている闇が横たわっているだけだった。
 生命現象研究所、正式には「文部省大学学術局所轄生命体内における物質及び非物質にかかわる総合現象研究所」という信じ難いほど冗長な名称がつけられている。そしてその仰仰しい名称から想像される諸々の期待を完膚なまでに裏切った、極く極く小規模の研究所が僕が研究員として働いている所である。研究員は二十名たらずで大体のうちわけは、生化学者、生理学者、精神医学者、心理学者、若干の医師、それにごていねいに哲学者という風に、一通り人文及び自然科学者をそろえている。武蔵野の一番奥まったところ、通勤特急で副都心から二時間以上もかけてついた駅から又車で三十分という所に位置している。研究所の裏手の丘陵の中腹に研究所員の官舎が雑然と十数戸建っている。そこは、研究所で働らいている人達のうちで既婚の人達の家となっていた。僕達は仲間うちでそれを二ユータウンとふざけて呼んでいた。これらは、政府が全国各地に設けた研究学園都市のうちで最小の規模のものとして計画立案されたもので、所長のおっちょこちょいのために生現研のみがこんな片田舎にとばされるハメとなってしまった。古手の研究者の中には、困窮隔絶都市なんてブーたれている人もいる。もちろん学園なんて有る手がなかった。マア、学者と医者の集団だから病気になっても腕の一、二本付け届さえすれば直す事ぐらいしてくれるだろうからあまり心配していないし、又大学院を出たばかりの僕にとってここ以上の勤め口はおいそれと見つからない事ぐらい大体想像がつく。なにせ僕は研究所最年少の新進気鋭の生化学者なんだから。その僕に目の前で見たことを信じろと言うのだろうか。そんな事を吹聴したら、哀れ戎の気狂い精神医学者のエジキにされてしまう。でもたった今この大脳皮質に認知された事も、少なくともかなりな確からしさをもって明言できる事である。
 わがなつかしの家にたどりつき、玄関を開けたのはそれから数分後だった。
「帰ったぞー。」
ここでふだんをら愛妻のおかえりなさいというかわいい声が聞れるはずである。なにせ僕の嫁さんときたら、まだ舌たらずの調子が抜けないし、それに結婚二カ月目のせいもあるが僕がかえると僕の首たまへとびついてくる。これで彼女がやせてなく、七、八十キロもある巨漢だったらと考えると慄然としてくる。マァマァ……。
 でも今晩はいつもと感じが異っていた。なにせあの声がきかれないのだから。
「あなたなの」
と、茶の間からくぐもった声が聞えた。僕はちょっと不満げに、それでも快活に、
「どうしたんだよ、旦那様のご帰還だぞ、丁寧に迎えたらどうなんだね」
と冗談めかして言ってみた。彼女はその冗談にも乗ってこようとせず黙っていた。
「どうしたんだ」
今度は気づかうようにやさしく言葉をかけながら彼女の顔をのぞきこんだ。彼女の瞳には大粒の涙が光り、唇を振るわせていたがそれもつかの間、僕の腕の中にとびこんできた。……こういう感じもたまにはいいもんだ………と不謹慎に考えていたが、そんな冗談ぽい僕の思いとは別に彼女はひたすら僕の胸の中で泣きじゃくっていた。彼女は泣きじゃくりながら、僕に断片的にこんな事を言った。
……夕方、取り込みわすれた洗濯物をとりに庭へ出て見た。すると雑木林の陰に人影が見えた。誰か研究所の人かと思って気にもとめずにいるとそのまま木の陰で黙って立っている。ちょっぴり恐くなって声をかけてみたが答えてくれないのでよく見てみょうと雑木林の中へ入っていった。ちょうど人影から十メートルぐらいのところで立ちどまりもう一度声をかけてみた。……
 さっと涙をふきとってやりながら彼女に言ってみた。
「いったい誰だったんだい。その人影は」彼女は唇をかみしめて黙っていた。
「黙っていちゃわかんないよ。もう僕がいるじゃないか、こわくなんかないんだから」
彼女の肩をやさしくだきしめをがら言ってあげた。彼女は少しの間言いよどんでいた。それでも意を決したように大きな目を僕の方にむけると真剣を表情でこう言った。
「笑っちゃいやよ。笑ったらまた泣いちゃうから」と、
「約束する、約束するよ。針千本でも指切りでも何んでもするから、さあ……」と、僕の冗談めかした気づかいを断固ふりはらうように、
「私見たの、声かけたらふりかえったわ。その人、ううん、人じゃないわ。ええ決して人じゃないわ。……だってそれ、目が顔の真中に一つしかないんだもの」
 その言葉を聞いた時、僕はノドの奥から驚きとも、恐れともつかぬ嘆息がでてしまった。
「エェツ……」

2.
 僕、辻幹生はさっそく昨日の事を調べるために研究の暇を見つけて文献探しをしてみることにした。それは三時をまわって電顕用資料ができたあとだった。研究所の二階の奥の隅にある遺伝生化学研究室の文献室をのぞいてみたいと思っていた。遺伝生化学研究室は地味を研究のために研究所内では小さくなっているようで、それが二階の最奥の部屋という形であらわれているのだろう。
 この研究室の住人である小倉は遺伝子のミクロ解析ではちょっとは海外で名のうれた物静かな男で、僕と同じで医大の、たしか七期先輩であった。その頃から遺伝学教室にいて、僕達学生実験の時には実験助手として僕達の実験を監督にきていたし、僕が基礎医学の研究室に入ってローテートした時、遺伝学の指導教官は有給助手になっていた小倉さんだった。それがこの生現研ができると同時に移ってきたのだった。僕は事が事だけに用件をあの冷やかな遺伝学者にうちあけるのが気恥かしくて、彼への挨拶抜きに文献室の戸を押し開けて灯をつけた。この一角だけは理科系の研究室にありがちなメカニカルなギスギスした輝きがなくしっとりとおちついていた。僕は書架にギッシリつまった本の背表紙を手でまさぐりながらこのチリ臭い古本のニオイをすいこんでいた。
「誰れです、アァ 辻君ですか」
 うしろで小倉氏の声を聞いたのは研究室に通じるドアを開く音を聞いたのと同時だった。「ハイ、僕です。すみません、勝手に見せていただいて」
 狼狽する理由もないのに声をふるわせながら謝っている自分が腹立たしかった。
「いえ、いえ、どうぞご自由に……………………。あなたもひょっとすると『あれ』の事でいらっしゃったのですか」
「あれですか。あれってなんですか」
と少々驚きながら、聞きかえした。
「いえね、あなたで五人目なんですよ。奇形児いや、奇形人の事を調べにきたのは。そうでしょう」
 こう見すかされてはしようがない。自分一人で納得いくまで調べてみるつもりだったがそれもかなわなくなったようである。そんな事を考えながら黙っていると、
「さあ、みなさん私の部屋で相談していますよ、あなたも来てください。生化学者の意見も聞きたいそうですから」といたずらっぼく言うと自分は研究室の方へひっこんでしまった。そういえばとなりの遺伝研には本当にかなり大勢の人達が集まっている気配がドア越しに感じられた。しかしそれが「あの」事で集まっているとは信じ難かった。それでそのまま、書庫の中をぼんやりあるいていた。やはり僕も科学者の末席をけがす者として、なんとか科学的説明ができないものだろうかと考え、安易に文献室に足をはこんだのではあるが文献の少ないせいもあって僕のきおいは達せられそうもなかった。僕は考えていた。
 一ツ目の怪物又は動物なんて、高等動物の中にいない事は確かだろう。大学時代に習った動物分類生態学の中には確かにでてこなかった。子供の頃読んだギリシア神話にはキュクローブスと呼ばれる隻眼の巨人が「オデセイ」に出てきた事をおぼえていた。
 その時 四、五人の研究者たちが文献室に研究室からドヤドヤ入ってきた。
「ヤァ、辻君、ちょっとこういうもんをつくってみたんだ」
と言いながら一冊のレポートをさし出していた。僕はその白いレポートを無言で目礼して受け取ると表紙に目をはしらせた。「未確認生命体報告例」と記されており、その編集はご丁寧にも「未確認生命体調査会準備委員会」となっていた。驚いてキョトンとして、僕は僕のまわりを見まわしてみた。動物、生理化学、心理…… !
 わかった、ようやくのみこめた。彼ら準備委員会を自称する面々はみんな、元大学の教官だった人達だった。目の前に立っている動物学者は元K大講師、そのとなりの生理化学者はM大の元助教授、その後ろの白髪の老人は心理学者でT大名誉教授というぐあいでみんな一度は大学に教官として籍をおいた人達である。とにかく彼らはこうしたあってもなくでもいい組織を造り出す事にかけては比類するものがなきがごとく上手の徒なのである。
 そう言えば、半月程前所長が研究所内はスリッパではなく、所内靴をはいてほしいと通達を出した時、この大学教官組は間髪をいれず「スりッパ問題再検討委員会」なるものを設置し「スリッパ通信」なる連絡誌をでっち上げる天才的才覚の片鱗を見せたのであった。そして今ここに、そのありあまる才能と精力をもって未確認生命体調査会なる組織を現出せしめようとしていた。そんな事をレポートを丸め持ちながら慢然と考えているうちも、生理化学者はまくしたてていた。
「………ですからあなたのお知恵も拝借したいのです。今晩九時、務台先生のお宅で第一回目の会合を開きたいのでいらっしゃってください。奥様もごいっしょに、なにせニュータウンの住民全部の問題ですからね、ではいそがしいので、これで失敬します」
 生理化学者達は、言いたいことだけ言い終るとポカンとしている僕を置き去りにしてさっさと文献室から姿を消してしまった。僕の掌の中に一冊のレポートを残して。
 僕は自分の生化学第U研究室(代謝機構)に戻ってきた。そしていつものように.パーコレーターのスイッチを入れ、冷蔵庫内の末失活標本を点検し、実験のタイムテーブルに記入し終るとやる事がなくなってしまった。椅子に腰しかけると最前のレポートがいやでも目に入った。僕はそれを無視するかのように煙草をとりだし、フィルターをつまんで逆さにしたり掌の上をころがしてみたり机の引きだしを開けてペン先をかぞえたりしてみた。が結果何もする事がなくなってレポートをおもむろに手にとってみた。レポートはかなりの枚数になっていた。僕は表紙をめくった。
「未確認生命体報告例」

 この報告書は、生命現象研究所及びその付近一帯の林野、公舎(略称ニュータウン)にて発生又は発見されている未確認生命体の報告例を集成したものである。発生区域の特徴としては山間部の比較的浅い林野にありその周辺には一つの小さな典型的過疎集落があるのみで他はすぐに急峻な秩父山塊がせまっている。なお、このレポ−トは事実のみを集成しこれに関する一切の判断、解釈はさけた事を付記しておく。

報告 1.
 生物物理化学者Y博士は先日午後5時頃ニュータウンと呼ばれている官舎から、近くの谷川の方へ歩いて散歩へ行った。この時後ろからヒタヒタ足を引きずるような音を聞いてふり返えってみたが何も見えなかった。がしばらく後に又最前の足音らしきものを聞くに至り、不気味に思いふりむきざまに大声を上げてしかりとばしてやろうと思った。(この時までY博士は誰かのイタズラと信んじていた。)その時ある人間ぐらいの大きさの物体を確認した。この間数秒、長くて十数秒後に突然目の前から姿を消した。但しY博士は、出現地点を詳細に調べる事はしなかった。

報告 2.
 病理解剖学者夫人誠子さんが町から買物の帰り、時刻午後3時半頃、研究所〜麓間の通常ルートを通ってもどってくる途中、車の疲れで町から研究所までの行程の5分の2程度の所で車を停車させ休んだ。この時、背後からのぞかれているような気配がしたのでふりむいたが発見できなかった。
そんな事を幾度かくりかえした後、彼女はコンパクトを取りだしパックミラーの死角になっている部位にむけて置いた。そしてしばらくそのままでいたがさっきの気配が感じられないままに数分がすぎた。疲れの為からきた錯覚だろうと納得し、あきらめて車をスタートさせた。
車が動き出した瞬間に、最前用意したコンパクトに或る人影がうつったのであわてて急ブレーキを踏み、車からとびおりたがそこには影も形も見えなかった。しかしその顔は丸顔で顔の真申にたった一つの眼が輝いているのをほんの一瞬だが、確かに見た。

報告 3.
 研究所守衛Mさんは研究所の裏手の雑木林の中でモミジの種子を探していた。たしか三時半を少しまわったところだと思うが正確を時刻は不詳である。Mさんは林の下生えをかき分けるガサガサという音をきいた。研究所の裏手の雑木林は研究者はめったに入ってこないので野良犬と思い気にもとめずに種子を探し続けていると今度は目の前でガサガサと音がした。今度は無視するわけにもいかず腰をのばし立ち上ってみると五、六メートル先に一人の男が立っていた。それは後向きのかっこうだったのでMさんは声をかけた。するとそれは無言でふりむいた。その目は顔の真中にたった一つだけあった。Mさんはその場にへたりこんでしまい目をしっかりとつぶっていた。その後なんの危害もあたえられず下生えをガサガサいわせて去っていくのを聞いた。Mさんはそのまま二十分程その場にへたれこんだままだった。

報告 4.
 内科医のK氏が午後7時頃、書斎の窓から。
ニュータウンの東端に位置するK氏宅の氏の書斎で氏は調べものをしていた。その時庭の犬が急に吠え出した。最初はさほど気にせずそのままにしていたがあまりひどく吠るので家人に犬を静かにさせるように言いつけた。それから数分後に家人の悲鳴が聞えたので驚いて書斎の窓を開け素足で家人の倒れている所へかけつけた。この際K氏はなにかにふれた感じをおぼえている。K氏は家人から懐中電燈をもぎ取るとあたり一体を照らしてみたが何も異常は見いだせなかったし、まして足あとなどはどこにもなかった。この頃犬は嘘のように吠えるのをやめていた。なお家人が落ちついてからその時の様子を尋ねると家人は「一つ目の小人」又は「一目小僧」のようなものを見たと言ってきかなかった。

 このように数多くの目撃例が上っている。これが何を意味するものであれ早急に原因を究明しない事には、生現研に勤務する者及びその家族は安心して散歩することすらかなわない。さいわい我々研究所員は現代科学の最先端にいるエキスパート集団である。この利点を最大限に利用してこの怪現象の解明に務めたいと思います。この為、今晩七時務台先生宅で会合をもちたいと思います。その場で各々の立場から存分に発言していただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
  十月二十九日
     未確認生命体調査会準備委員会

 僕は続み終って頭を天井に向けたままぼんやりしていた。研究室の窓からは西日が長くさしこんでいた。夕焼けは今日も赤く茜雲が一つ二つ山の端にかかっていた。背後でゴトリという音がした。僕はゆっくりふりかえった。何もいわなかった。でもなぜか隻眼の物の怪が立っている、そんな気がしてしかたがなかった。茜雲はその色調を微妙に変化させながら西の山の端に浮んでいた。

3.

「一目小僧なんて妻は言っていますがね、どんなもんでしょうかね」
「だいたい又、大学くずれの人達のお祭りさわぎてなところじゃないんですか」
「あの方がたは、こういう組級をつくることにかけちゃあ、天才的才覚を有してますからな、ワッハッハッ…」
「私が最初に見たんですの、その後主人がかけつけてくれたんですけれども」
「それは怖かったでどざいましょう。宅の主人も雑木林の中で見たと申しておりますのよ」
「私は主人に「一目小憎」だって言いましたら主人たら小一時間も腹をかかえて笑っておりますの。恐いやら、くやしいやらで……」
 「マア、マア……」

生理  「みなさん、お静かに、お静かに…………今こうして集っていただいたのはお手元のレポートにくわしく報告されている事を討議していただく為です。現在所長が出張中ですので極力問題はさけたいところでありますがこう「被害」がありますと目をつぶってもいられませんので、活発な御討議をお願いいたします。なお、準備委員会からの報告としては単なるイタズラとしては手がこみ入りすぎ不可能であるという結論に達したことを申し添えます。座長は勝手ながら私が務めさせていただきます」
 遺伝 「遺伝学の立場から見るならば一つ目を突然変異としてとらえる事はできます。但し人間の場合、突然変異は有効な方向に働きませんので生まれてもすぐ死亡してしまいます。この事から、一つ目の人間の生存にはかをり否定的な感じをもたざるをえません」
 内科 「私は学会誌でその種の床例報告を二、三散見した事があります」
 解剖 「しかし、その際の報告の床例は、現在テーマとなっているような形の一つ目ではありません。解剖学的にも、左右どちらかの眼胚形成がおこなわれなかったものと思われますが。」
 遺伝 「集団遺伝学の立場から言えば、確率的に異常がある程度あらわれる頻度は持っているわけですが、現在のように交通機関が発達してしまうと閉塞された地域ができにくくなりこれも否定的ですね。それに近くの過疎部落はジイさん.バアさんですし」
 司会 「一つ目になった事での、代謝系の異常は認められるのですか」
 生化 「さあ、くわしい床例にでくわしていないので…。ただこれを突然変異と仮定するなら、眼胚形成のみの異常では終らないでしょう」
 遺伝 「それは確かですね。マクロレベルでの一つ目という形に発現してもミクロレベルで、どこかの代謝系の異常を起している事は、染色体突然変異なら当然の事です」
 司会 「務台先生、歴史的にこのような事を述べているようなものはありますか」
 務台 「私は歴史は素人ですが、紀伊国続風土記に見られますね。一踏鞴と言いますが、南方熊楠はこれを熊本の一本クゝラと同じものと論じていますね。だいたいこの種の言い伝えは土佐が多いようですね。「土佐海続編」「芸藩通志」「寺川郷談」「落穏余談」「南路志編続稿草」又阿州、豊後にもその例を見る事ができますね」
 精神医 「それでは元々南の方の言い伝えですか、一目小僧は」
 務台 「まあ、私の知っている限りではそうですね、しかし民間伝承の類ですからこの際なんの役にも立たないでしょうが」
 心理 「私はこの閉塞された研究所、ニュータウンの環境が生み出した幻影だと思うんです。麓の町までは車で一時間半、隣りの部落までジープを使って一時間、他にこれといってする事がなくストレスは蓄積されたままで発散させる術もない。この鬱積されたエネルギーが生んだ幻の所産、集団ヒステリーですな。」
 M子夫人 「それでは私が、欲求不満のヒステリー女だっておっしゃるんですか。先生」
 心理 「いや、私の言った意味は、……」
 精神医 「お言葉ですが、それは速断にすぎると思います。これを閉塞された環境と言うなら群衆の中の孤独なんて状況では、あなたの言うような人間だったら発狂死してしまいますよ」
 心理 「それこそ暴言ですよ。神がかり的ですよ。これだから精神病理学はフロイトから脱げだせないのですよ」
 精神医 「おっしゃいましたな。あなたの一派では非現実現象の解明に力を入れている人達もいるのに、あなた達ときたらやれゲシュタルトだ知覚だとまるで生理学者のやるようなママゴトをして私も学者だなんて顔されてはかないませんな」
 心理 「超心理学ですと!、あんなもんは、巫女、霊媒、口寄せの類ですよ。だからあなた方は古いっていうんですよ」
 司会 「まあ、まあ、二人ともそう興奮しなくとも。私達の生理学にしても、遺伝学、生化学、みんな目の前にある材料を研究する学問ですから、今度のような場合にはまるで役たゝずになってしまうのです。二人とも落ちついて、その方面の知識をフルに出していただきたいんですよ」
 免疫 「まさしくそのとおりですな。今、私達がゲームがどうの、代謝がどうのといっても現物がないのですからね」
 生物々理 「この研究所の御題目には、非物質の方も入っているんですからね。その方向の専問家を入れないことにはお手上げですなあ」
 心理 「そう私の顔ばかり見なくてもいいでしょう。なにも私だけが、超心理学研究室の設置に反対したわけじゃないんですから。それともあなた方はこの現象を妖怪変化の類いと決めとんでいるんですか。それが科学者のとるべき態度ですか」
 免疫 「そう肩を怒らせなくてもいいじゃないですか。一つの可能性として討議しているんですから」
 務台 「私の専門である哲学からでた宗教学において古い教典を調べる際に三つの方法に分けられます。
(1)これを徹頭徹尾、虚構のものと考える。
(2)これを文字通りに理解する。
(3)この神話や宗教でおおわれたヴェールの中に真の材料となったものを見い出そうとする。
この三つですね。(1)はまったく子供の理解のそれですし(2)は非常に容易な方法ですが、これも科学的ではありませんね、もしH・シュリーマンがホメロスの詩編を虚構だと考えたなら、トロヤの遺跡は発掘できなかったでしょう。こんな事をもう一度胆に銘じて考えなおした方がよろしいでしょう。それがたとえ目の錯覚だったとしてもこれによって得るものは多大と思われますがいかがでしょうか。諸先生方……」
 司会 「はあ、…まことに……」
 心理 「申しわけございません。年がいもをく興奮してしまって……。お恥しいかぎりです」
 
「キャー 誰か………。」
 全員の肩がピクッと動いた。そしてしばらくの間沈黙が続いた。まず口をひらいたのは生理化学者だった。
「いったいどこでしょう、あの悲鳴は」
免疫学者が腰を浮かして言った。
「どうも私の家の方です」
「そう、あをたの家は二ユータウンの西端ですからね。出るとしたら出やすいですね」内科医が淡々と言ってのけた。
「そんな事より早く行きましよう。何かあったら大変ですよ、さあ」
 僕は気が気でなくて大声で叫んだ、務台先生の家をとびだした。靴底から冷気がしみ通ってきた。外はところどころに見える街灯以外はまったく明りがなく星さえも見えなかった。背中には、先生方みんながあとを追っているのを感じた。吐く息が妙に白っぽく水蒸気の一粒一粒がはっきり見てとれた。その白い息の向うに、街灯の影を横ぎって雑木林の中に入っていく黒い影を見たような気がした。それは妙に輝く目をもっていた。それもたった一つ、顔の真中に。肩から背中に寒さがはい入ってきた。額には汗の玉がふきだしていた。無性に寒むかった。

4.
 僕はこの研究所に来てから毎朝かよっているように、ニュータウンから研究所への道を急いでいた。しかし節節が痛くて歩く事も思うにまかせないのだ。昨日一日ずっと調査会の仕事で現場を調べてまわっていたんだ。だいたい若いって事はとってもすばらしい事だけれども時としてあまりに残酷に作用するもんなんだ。なにか大変な所を調べる時は、あの大先生方ときたら、『辻君、君、若いんだろう。あの薮のむこうの窪地まで行ってきてくれないか。なあ』とか『あの崖の中腹にある洞穴をのぞいて見てくれたまえ。』なんて。冗談じゃないですよ。
 いくら若くったって猿なんかとちがうんですからね。木に登ったり崖をすべったり、あげくの果に穴に落ちたり。おさえて、おさえて。マイッタ マイッタ。とにかく若さってやつは、結構、相当自分にとってキピシイよ。おかげで腰は痛いし節々はギシギシいうし、もう人生終いですね、あとは余生を盆栽でもつくりながら静かに暮したいと思うんですよ、なんて思いながらエッチラオッチラ歩いていた。研究所の古色蒼然として、そんなに古い建物じゃないんだけれどちょっと見るとヨーロッパの古城とも見える建物が雑木林の上に頭を出している。
 結局あの騒動は冗談だったんだ。そうだよ、だいたい一目小僧ってのは非科学的で迷信ぽくって ー でもゾクゾクしちゃうんだな。昨日の調査で何も物的証拠はでなかったし、そうすりゃ心理学者あたりからあなたはノイローゼなのです、集団ヒステリーのテンカン持ちなのですなんて御宣託うけて幕ってなことになっちゃうんだ。我が先輩、無口生真面目人間の遺伝学者 小倉博士殿も東京の母校で医大から資料を送ってもらって終日部屋にとじこもったきりだと聞いている。すると僕は肉体労働で彼は知的労働か、差別されるなあ。まあ、しょうがない、種子が違う、親をうらめ家をうらめ、ア〜ア。
 腕時計を見ると九時を廻っていた。かなりな遅刻である。いつものように裏の脇の階段を小走りに上っていった。一階の廊下は何故か誰の姿も見えなかった。三階の真中の生化学第U研究室の扉を急いよく開けて一歩足を踏み入れた。最前の薄暗い廊下の印象とはうってかわって、カーテンをしめわすれた窓からはキラキラ光る白光の光が部屋いっぱいにあふれむせかえるような感じだった。実験機器も試料も読みかけの文献もいつものままだった。スイッチを入れればそのままミクロトームが動き出し超極薄の肝切片を作りだしてくれそうだった。しかし何かが変だった。僕は薬品臭い部屋の空気を一息吸いこんでそれから僕の部屋の方に歩きだした。何かが変だった。実験室と僕の部屋の間切りのところまできて立ち停った。
「どなたですか、辻ですけれど。」
僕は人影を見た。窓際の僕の机のところにある椅子に腰しかけている。窓から朝のまぶしい白色光が入ってきて、それが机の表面ではねかえり部屋いっぱいにその光をぶちまけていたので座っている人の輪郭、それも背後からの輪郭しかわからなかった。誰だろう、僕の研究室にくるなんて………。
「あの ー辻ですが、何かご用ですか」僕はカバンを手にもったまま、所在なげに問うた。その時急に空がかげり潮が引いていくように光の乱舞が窓の外に吸いとられていった。部屋の中は程よい明るさになり一瞬にして書棚の本の背表紙の文字まで見えるようになっていた。
 椅子がギギィといやを音をたてて廻った。その人物はゆっくりと背中から肩口へと見せていき正面をむいた所でとまった。背中がゾクッときた。口の中が渇いて粘ばついてどうしても喉から上に言葉となって出てこない。
「ひ、ひとつや…」
 やっとの事で、ロから吐き出した言葉を自分で聞く前に僕は悲鳴を聞いた、男のを。それも一人や二人のではなかった。にわかに所内が騒然としてきた。
「お、おまえ、誰なんだ! 出ていけ、出ていけー」
 僕は事の異常さに舌がもつれてくるようだった。「一つ目」は微動だもせず黙って椅子に座った。
「出ていけ!パケモノ! 消えろ、バカ! マヌケ!人でなし? インバイ………」
 僕は思いつくままに罵署雑言を並べたてたが馬耳東風とまるで相手にしてくれない。だいたい罵倒の言葉なんてそんなに数多くあるわけじゃないし、根が上品なんだからそう右から左にさっと並べたてられる手がなかった。
 疲れきって僕は壁にもたれかけてゼイゼイ肩で息をしていた。廊下をどたどた走り廻る音がしている。僕はちらっと、ニュータウンはどうなってるかなって考えて見た。
 「一つ目」の頭越しに雑木林が見えていた。しかしニュータウンまでは見えないし、又見えたところでもどうなるもんでもないし。肩で息をしながらボンヤリ考えていると「一つ目」は立ち上って近づいてきた。
「ワーツ、よるな よるな! コラ、くるな〜」
 僕は大声で叫ぶと、カバンをほっぽりだして実験室を抜けると後手で扉をしめてよりかかった。三階の廊下には、人も「一つ目」も居なかった。ただ薄暗い中に差しこんでくる光の中にハッキリ見える浮ぶチリがいままで大立廻りがあったことを物語っている。…もし「一つ目」が妖怪の類だったら壁だって通り抜けられるだろう、当然。そしたら扉をいくら閉めたって僕のお腹のあたりからニューツと「一つ目」の頭がのびてくる。美的じゃないし、だいちゾッとしないよ。……急に思いついて僕はあわてて扉から背中を離した。……そうだ、先輩のところへ行ってみょう。……
 僕は少し足をもつれさせながらも、二階最奥の遺伝学研究室へ向けていた。まだ時折りドナリ声や悲鳴が聞えてくる。二階と三階の途中の踊り場で心理学者が腰をぬかして目を白黒させていた。
「辻君、おこしてくれんかね、ちょっと足をくじいてね、あれかね皆が言っていた『一つ目』とは。幻覚作用のもたらすもんとしては現実観、実体観にはなはだ富んでいるね」彼は、腰を抜かしたのが余程恥かしいのか、メッタヤタラと餞舌になりベラベラ有ること無いこと喋りまくっていた。
「先生、ちょっと待っててください。すぐにもどってまいりますから」
 こんな負けかしみの強い中年となんかつきあっていられませんよとばかりにそれだけ言うと僕は後を見ずに段を二段とばしにとんで二階におりてしまった。
「ア〜ッ、辻君、君、困るよ」
 二階も他の階と同様に薄暗く時折り人影らしきものが見えるが、もともと二階は資料室が大部分の為かひんやりと静りかえっている。……子供の頃、比較的大きな家に住んでいた僕は夜トイレに行くのが恐くてしかたがなかった。煌々と灯された光の下の茶の間の団欒は非常に健康的ですべてが祝福された世界の出来事だった。それに引きかえドアの一つむこうの暗闇は魑魅魍魎の跋扈する世界で、居間からもれる薄明りで父の書棚の蔵書が僕をうさん臭げにうかがっていた。そのくせ僕が視線をむけると知らんふカをしてしまう。部屋の絨毯だって奇妙な渋面をフッと消してしまうのだった。僕には居間からトイレまでの世界は恐しい伏魔殿としか思えなかった。それで僕は鴨居の上からワッと三ツ目の法師が顔を出したり洋服ダンスの前にかかっている着物が急に振りむいてパァーとした時に、みっともない悲鳴や泣き声を上げないように調子ぱづれの、それも精いっぱいの大声でうたったもんだった……。
「かきねの、かきねの曲り角、たき火だ、たき火だ、おちばたき……」
 僕は薄暗闇の中で、一人苦笑してしまった。よりによってこんなムチャクチャな時に子供の時の、それもずっと忘れていた記憶が、水中花の開花のようにぽっかりと思いだされ、あまっさえその歌まで口誦んでいるのだから。それでも思いなおしロの中で歌いながら二階の奥にある遺伝学研究室までゆっく少歩いていった。まるで子供の頃のように、ビクビクしながら。
「先輩、小倉先輩、居ますか、大丈夫ですか」
と大声を上げて研究室の中へふみ込んだ。先輩はいた。実験機器の並んでいる机の横の床に尻もちをついてアワアワ言っている。そしてその指差す方には「一つ目」が悠然と立っていた。
「先輩、しっかりしてください」
「アワ、アワアワ……アウー」
 きっと、さっきまでのアワアワより大きくなったであろう先輩のアワアワが気に障ったのか、ゆっくり僕達の方をめざして実験机の間をぬって近づいてきた。
「アワ、アワワ、アウウアワ……」
「先輩、つかまれますか、僕の肩に。いいですか」
 「一つ目」は、二、三メートル手前までせまっていた。
「行きますよ」
というかけ声と共に、小倉博士をかつぐようにして研究所をとびだした。あっちこっちで所員の騒ぐ声、逃げ出す足音が聞えてくる。どうも今まで「一つ目」は大部分の研究室には現われていなかったらしい。こんな時各階ごとの防音施設は、いくら静かな方がいいとはいえ、非常にまずかったようである。まず二、三の部屋に現われた時全研究室に通報されていればと思いながら僕は先輩をしょってできるかぎり早く階段を目ざして歩いていた。小さいとは言え大人一人の体である。そう早く動けるものではない。チラッと後をふりむくと「一つ目」がどこからでできたのか二、三人、僕達のあとを追ってきた。
「アワ………。アワ」
「先輩、お願いです。静かにしていてくれませんか」
 その「一つ目」を見つけた先輩は、僕の肩の上で足をバタつかせた。そんな事をされたら僕みたいな気はやさしくて力なしはひっくりかえってしまう。
「先輩、車でニュータウンまで行きますからキー貸してください」
 小倉博士は肩の上でコックリすると胸のポケットからキーを取出し僕の鼻先へキーを出した。目の前でブラブラしているキーを受けとり手の中で握りしめた。キーの冷んやりした金属の冷たさが湿った掌を乾かし吸いとるようだった。
 車の駐車場は研究所の前庭の隈にあった。小倉博士を後部の座席に押し込むと僕は肩で大きく息をした。研究所の建物の陰や雑木林から「一つ目」が、一人、二人と自動車の方をうかがっていた。これをバックミラーで見ながら僕は車を発進させた。研究所とニュータウンの間は車だと五分もかからない。しかしその短い時間の間にも雑木林の木々の陰から黒い姿をチラッと見たのは一、二度にとどまらなかった。
「先輩、どこもなんともありませんか」
「ああ、……… ありがとう、辻君」
 やっと落ちついたのか、小倉氏はカスレタ声でそれだけ言った。
「これから、家に寄ってワイフを助け出してから、となりの部落まですっとばそうと思うんです、どうでしょう」
「そうだを、電話も通じないし、電気もこないだろうしもうすぐ水道だって侍ってしまぅだろう」
 僕は小倉先輩がもう一度頼りがいのある男に変貌しつつあるのを感じとった。うれしかった。車はニュータウンの入口をぬけた。僕の家はニュータウンの東端、ニュータウンは少しづつ雑木林を残して家と家の間の塀がわりに使っているからむろんとなりの家も見えないし少し大きな声を出しても林の木々が吸収してしまうためか、隣家の物音が聞えたためしがない。それだけユッタリと建ててあるのだろうが、こんな時には裏目にでるかもしれない。僕は他の家の前を通らず我が家の前に車を横づけした。
「先輩、ちょっと待っててください。」と言い残して、家の中へかけこんだ。「おい、いるのか。」
と叫ぶ前に啓子の声が、台所の方から聞えた。
「近よらないでよ。いや、こないで。」僕は、靴をはいたまま玄関にかけ上って台所へ廻った。ガチャンという瀬戸物が割れる音がする。
「ワーン、こないでよォ。」
と彼女は泣き声でブルブルふるえながら近くにある、皿や茶腕を「一つ目」に投げつけていた。それでも二人の「一つ目」に囲まれて台所の隈まで追いつめられていた。
「おい、啓子 大丈夫か」
「あなたー。ネエー、なんとかして」
 僕の顔を見ると彼女は涙をポロポロこぼしながら訴えた。しかし「一つ目」はジリジリ彼女に迫っていたしへタに動いて一層彼女を悪い立場にしてしまいそうだった。それに「一つ目」が何の為にやっているのかも、又彼らが僕達に対して何をすることができるのか全々と言っていい程わかっていなかった。
「助けて、アナタァ!」
 僕は無我夢中で台所のテーブルをおもいっきりひっくりかえした。そうして「一つ目」の注意を引こうと思ったのかもしれない。とにかく夢中でひっくりかえした。テーブルの上の皿が勢いよく床にとび、粉みじんになった。しかし何の効果もなく「一つ目」はジリジリと彼女の方に近づいていた。こうなったら彼らに体をプチかましてでも啓子を救いだそうと身がまえ、一呼吸入れてつっこんだ時、フッと目の前から二人の「一つ目」が消えてしまった。僕はクッキングテーブルの角に頭をしたたかぶっつけてウンウンうなっていたし、啓子は啓子でキョトンとした顔で涙もふかずにあたりを見まわしていた。ガスコンロの上では、テーブルをひっくりかえした時にとんだのか、ナスの漬物がイヤな臭いの煙を立てながらジージーいっていた。……………
 僕は啓子の体をやっとの思いで助手席に押し込むと、ハンドルに向った。車の前には五人十人と「一つ目」が集まり立ちふさがっていた。それもどんどん殖えていきそうな勢いだった。
「辻君、つっばしりたまえ! さっきから考えてるんだが、人間、いや動物じゃないみたいなんだ、人間じゃないものを轢いても罪には問われないだろう?」
「ええ、僕もそんな気がしてしょうがないんです。小倉先生」
 そう言うと僕はアクセルを踏み込んでクラクションを鳴らしながら急発進をした。二、三人の「一つ目」がフロントガラスにおおいかぷさってきた。 
「キャーツ!」
 啓子が悲鳴を上げた。一瞬、僕も目をつぶったがしかし車には人を揆ねとばした衝撃は伝わってこなかった。僕はバックミラーを見ようともせず山道を登っていった。
ニュータウンの出口まできて、「先生、それじゃあ、隣の部落まで行きますよ、いいですね」と念をおして、車が一台やっととおれるような道に車を向けた。なぜに下の町への道を選ばなかったのかよくわからなかった。しかし隣りの部落に行けば何か糸口だけでもつかめるような気がした。
「おい、啓子、大丈夫か」と助手席の妻をゆすってみた。
「寝ているよ。よしなさい。寝かしておいてやりなさいよ。一人で恐かったんだろう」と小倉氏はポツリと言った。
 それから二人はどちらからともなく黙って、山道のゆれに身をまかしてしまった。

5.
「辻君、どうも部落の入りロまで来たらしいよ」と小倉博士は、道標を指さした。あれから小一時間、山道にゆられていたわけである。僕は静かに道標の横に車をとめた。日もだんだん西に傾いてきた。僕達は山の冷気に首をすくめてふるえながら車からおりて足腰をのばした。
「あれ、こんなものがささってますよ。ネェあなた、小倉先生、ネェッテバ」
啓子が素頓狂な声を上げたので僕と小倉先輩は道標の所へ集った。
「魚らしいですね、小倉さん」
「ええ……イワシ…目ざしですね、イワシの」
「なんでこんなものが、こんな所に……」
「さあ、おまじないですかねえ、魔除けかなあ」
「私、小さい時にこんな風にしているのを見たことあるわよ、なんだったかなあ……?」
 啓子の家は旧家だったから、普通の家では忘れ去られてしまったような行事を行っていたのかもしれない。
「それにしても、ここには現らわれていないのかなあ、「一つ目」が」
「とにかく、あと少しで部落ですから、車に乗ってください。先輩、啓子」とせかせて車にのせた。夕闇は山の向う側までせまっていた。そして小倉博士の言うように「一つ目」の姿が見えない事も確かだった。これから行く部落は爺チャン婆チャンだけの典型的な超過疎部落だったし、家も十軒程度の小さな部落だった。
 七、八分走っただろうか、茅茸のさして大きくない家が十数軒肩をよせ合うように並んでいる部落についた。
「すみません、誰かいませんか、助けてください、誰かいませんか」
 僕はこの部落で一番大きな家の前でどなった。
「誰ですだ」とくもごった聞きとりにくい声が聞こえて老婆がゆっくり門から顔をだした。
「研究所の者です、助けてください」
「ああ、学者先生達ですかい。まあ、家の中へ入ってくれや、−こんな時間にどうしただ」と老婆は、僕達を門の中へ招き入れながら尋ねた。
「はあ、まず水を一杯ください、とにかく」と小倉博士は言った。三人とも大きな囲炉裏に座らせ、茶と飯をふるまわれた。この家の主である老人が尋ねた。
「おめえさん方、大切なあわてようだったがどうしただね、言ってみろや。こんな爺でも役に立つかもしんねえし」
 この言葉に勇気を得たのか、小倉博士が語りだした。
「私は、この先の生命現象研究所の小倉と申します。彼は辻、となりの奥さんです。実は研究所周辺に急にえたいの知れないものが現れまして、研究所はメチャクチャ、所員は.バラバラに逃げだしたのです」
 彼は落ちついて、一語一語言葉を探しながら物語っていった。先々日の初めてそれが出てきた日の事、学者連が手分けして調査に当った事、そして今朝一せいにそれが現われて研究所は上を下への大騒動が起った事を。老人は黙ってそれを聞いていた。時々老婆が囲炉裏にくべる薪の枯枝を折る音がピシッ、ピシッとひびくだけだった。
「おい、おめえ、部落のもん、みんな集めるだ、先生方をお助けすべえ」
 老人は老婆にそう告げた。それがいいねお爺さんと言うと、スタスタ出ていった。そして五分後囲炉裏端は十数人の老人でいっぱいにうまった。
「……そんなわけでご助力顧いたいのです」と小倉博士は深々と頭を下げた。
「研究所ツウのは、あの上の山にあるあれかァ」
「そうだべ、あそこは昔入らずの山だったベェ。なあみんな」
「入らずの山と言いますと」
「あそこは、神さんの土地でな、昔はあそこに入っと、二度と出てこられねっていう言い伝えがあっただ、なあ」
「そうですか…?」と僕と啓子は気味悪げに顔を見合わせた。
「ヤイカガシだ、そりやあ、ヤイカガシにちげえねえ」と一人の老人が大声を上げた。「ヤイカガシとは………?」
 小倉医学博士は事の成り行きにとまどいながら尋ねた。囲炉裏の炎が一瞬大きく吹き上げた。炉端の顔が真赤に染った。
「昔、大昔、あの辺はヤイカガシのど神領だったんだ。ヤイカガシつうのは、八百万の神の一人で天日一箇の神っていう神さんだあ」老人は息をついて続けた。
「その神さんは鉄をつくる神様だァ。山や丘を堀りおこして穴ボコだらけにゃする。川で砂鉄をさらして、川を汚すべえ。そうすりゃ里の神様だって怒るベェ、それでその神さん達は、天日一箇神をとじこめただよ。それおめえさまたちがいる上の山のあたりなんだあ」
「思い出したぞ、そう言やあ、僕がこの研究所のプランに乗った時、建築会社の人に連れられて視察にきたんだがあらかた伐採のすんだ敷地は金属のカス、金尿って言うらしいが一面にあって建築会社の人も首をひねってたんだ」
「そう言えば先輩は、研究所ができた時からずっとあそこにいるんでしたね」
「それじゃ、まんざら伝説も嘘じゃねえベェ、なあよ、爺つぁまよぉ」
 物知り顔の爺さんは、黙ったままうなずいた。
「それでどうしたら、その「天日一箇神」とか言う「一つ目野郎」を追っばらう事ができるんですか」
 僕は勢いこんで、尋ねたが爺さんは首を振り舌うちでもするように言った。
「若いもんはせっかちでいかんなあ……一番やさしいのは、おめえさまたちがご神領を立ちのいてもとどおりにすればいいだベェ」
「それはできませんよ。国の計画の一つとして行なわれているもんですか」
 彼はちょっと驚いて強い調子でいったが老人はとりあわずに、
「もともと神さんの土地だったならば、それを返すのが道理だベェ」と言いはなった。小倉博士は口の中でモゴモゴ言っていた。突然啓子が口を開いた。
「お爺さん、あの部落の入口にあったメザシの頭は何なの」
「ほー、おめえさんは女の癖して、こっちの学者先生より頭がいいだなあ」と、ニコニコした目で彼女を見ていた。彼女の方もそう言われて恥かしそうに身をすくませながらそれでもちょっぴりうれしそうにうつむいた顔が上気していた。
「そこの、お二人の先生もよく聞きなせい。ヤイカガシは「一つ目小僧」の名前とも「一つ目小僧」を追っばらうおまじないとも言われているんだァ。つまりヤイカガシはヤキカガシ (焼嘆がし) て事らしいだよ。それは、家の戸口の外にフルイか竹カゴを置くだよ。それでカマドや囲炉裏や家のまわりで、ネギ坊主の皮や、魚の頭や茄子を焼くようにするだよ」
「あッ、それで「一つ目」が消えたのか。あの時、なあ、啓子」
 僕は思わず膝をたたいて大声をだした。
「そう言えば台所であなたがテーブルをひっくりかえした時、茄子のお漬物がガステーブルの上にとんでイヤナ臭いを出してコゲたのよね、そしたら全部消ちやったんだわ」
 小倉氏はホォーてな顔をしている。
「それでいいだなァ。それにさっき”お嬢さん≠フ言いなすったメザシの頭を家の出入口にうちつけとくべェ。これを十二月の八日の事始めと二月八日の事納めとの年二回やればいいだよ」と爺さんは一人でうなづいていた。妻はお嬢さんと言われ真赤になっている。勝手にしやがれ。
「本当にそれでいいんでしょうか。」小倉氏は気弱げに尋ねたが、爺さんは子供をあやすように、
「それでいいだあ、それでいいだあ…………そうだなあ、それが終ったら下の町の王子神社から神主さんを呼んでなあ、お祓いしてもらった方がいいなあ。できたら王子神社から天日一箇神の祠を移してもらえたら上出来だベェ」と後に座っている老人達に同意を求めた。老人達は口々にそうだなあ、と言って賛意を示していた。その賛意の渦の中で僕と小倉医学博士はただただ意外な成り行きに茫然としていた。炉では薪のはぜる音がパチパチしていた。炉端に集った顔は炎に赤く染っていた。

6.
 日は西の空をこがしながら、山の端に沈もうとしていた。僕と啓子は夕陽をながめるではなく、ぼんやりながめていた。眼下には研究所とニュータウンの家々が並んでいるのが見えた。その間から幾筋も幾筋も煙がたちのぼっていた。
「これで現われなくなるかしら、あの神様たち」
「さあ、どうかな」と言って僕は黙りこんでしまった。
「何を考えているの……」
「何にも……… ただ夕陽の中の君は美麗だってね」
 それは嘘だった。僕の胸の中にはいろいろな事が湧き上っては消えていた。僕の事、彼女の事、僕の仕事の事、いろんな事が湧き上っては消えていた。
「小倉さんはどうしているの」
「うん、なにか生理学につかまって報告書の仕事を手伝わされているらしいよ。彼、あれで根がやさしいからたのまれるとことわれないのさ」
「でも生理学さん、ビックリしてたおれて腰をうったとかで寝ているんでしょ」
「さあ、でも報告書のまとめはベットの中でやってるって聞いたよ」
 執念だなっとチラッと思った。未確認生命体調査会も結局解散だろう。委員長の生理学者としては、それが生物か非生物かもわからないうちに終るのは、二十年程前ゲバ学生に頭を下げさせられ研究室から追い出された時以来の人生の痛恨事だろうからなあ。僕は妻の肩をやさしくいだいた。一つ終ったのだ、とにかく終ったのだ。
 赤い空の中に幾筋もの煙がたちのぼっていた。それはすこしも乱れる事なく一筋の煙の糸となって虚空の中にとけこんでいくのだった。まるで、稲刈りあとの水田の稲積の煙のように静かに立ちのぼっていた。茜色の雲が一つ二つ西の空へゆっくりと流れていった。

(了)


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