幸福荘アパート 顆 顔 画 皆川 正夫
その部屋の住人は極普通の女の子。名前はミイ。
ミイ、ねェ、幸福? ウン。もちろんよ。とっても。
ミイ、ねェ、ケーキ食べに行かない? ううん。今日は早く帰りたいのミイ。
『今日は』っていったっていつもそうじゃない。どうして?そんなに早く家へ帰りたいの? だって…ミイ…ミイの部屋にいるだけで…そう、とっても幸福なの。 フウーン、そんなに? ウン。ミイ部屋に居るだけで… そういえばミイは下宿ね。下宿ってそんなに良いの? ううん、下宿だからっていう理由じゃあなくて…そう…ミイねお家、家族っていうものがないの。だからかあさんの膝って知らないの。だけど部屋にいるとね、かあさんの膝ってこんなものかしら?って思うのよ。とっても安心できるの。
フゥーン。かあさんの膝ねェ。だけど私だってママの膝なんて忘れちゃったわぁ。ミイって良いわねェ、私ミイのお部屋に行きたいの。ねェ行ってもいいでしょ、でも・・・ミイ…だってミイじゃない人にはケーキ屋さんの方が楽しいのよ、きっと。それにそんなきれいな部屋じゃあないし…ねェ今日はケーキ、付き合うわ。だから…
ううん、きれいじゃあなくって良いのよ。私はミイのお部屋を見たいの。入って、知りたいの。ミイの幸福っていうものを、ね!いいでしょ。どうしてそんなに幸福なのかを… だけど…どうしよう。 さあミイ!
ここよ。期待外れた?あんまり汚ならしいアパートだから…この部屋よ。ここがミイの部屋。ドアは開くわ。
その部屋はミイの言ったとおり、ただの汚ないアパートの一室だった。ミイの言ったとおり、私には何もなかった。幸福もかあさんの膝を少しでも思い起こさせるようなものも。ただの汚ならしいアパートの北向きの四畳半。すすけた壁。いやにさびしい部屋だった。ここがほんとにミイの…と言いかけ振り向いた。やっぱりミイはいない。私は急に泣きたくなって、部屋から走り出る。
そして私の部屋に…私の幸福に向って走る私。
2号室
今日、起きたら朝だった。ホントに変な朝だった。
第一に、そう、だれも起こさなかったのに起きたのは朝、朝の七時だったっていうことだ。≪もっとも、起こしてくれようにもそんな人間はいなかったんだけれど≫枕元の時計は? そういえば昨日から止まっていたはずだっけ。じゃあ、どうして朝の七時だって判ったかっていうと…まあ、なんとなくと言えば言えるんだけれど…そう、強いて言えば…そう、朝七時の太陽と風だナァ。別にABCって3つぐらい並べられてどれが朝七時の太陽と風ですか?なんて問い質されたって答えられはしないけれど。だけど朝の七時で、太陽と風はそれそのものであったっていうことは確かなことだったんだ。そしてこれもまた確かをことだったんだけれど、お天気も良さそうだし、朝も七時だっていうのに全く静かだったっていうことだ。これは変だ。なんだかひどく静かで、ポクがこれは変だって呟いた声さえ壁に吸い込まれちゃう感じで、《その壁っていうのも俗に言う所のベニヤ板1枚っていうやつだから余計妙をことなんだ》これは変だ。
解った!静かなのは、ポクの部屋のとなりの赤ん坊が泣かないからだぞ!それにアパートのとなりのバカ犬も啼いてない。これは変だ。西側の窓を開けてみる。ガラッ
すぐ下の道路には人っ子一人、ウナギ犬一匹さえもいない。ラジオでもつけてみようかと思ったんだけれども、そうだ、電池がなかったんだっけ。深夜放送も近頃はもうがき向き、マンネリだァなんて思って電池も買ってなかったんだっけ……ということは、ほんとうに時計が止まったのは昨日だったんだろうか。最近はもう炬燵に入っちゃあ寝てばかりいるから、日日も何も解ったもんじゃない。ゴミを出したのは何曜だっけなァ。アレッ!これは昨日飲んだコーラの残りかぁ。ウン、ということは、昨日は昨日だったっていうことだ。昨日の夜は、いやにかったるかったなあ、ラーメン喰ったし…そうだ!そう言えばラーメンもうないんだ。畜生、じゃあ…電車のガクンガクンという震えもないし、となりのガキも静かだぁー喰う物もないし、ウン、やっぱりもう一眠りするしかないじゃないか。バカ、朝の七時なんかに起きゃがって。なんてことだ。ファーア。
だけど今年こそ、どこかの大学からお呼びがほしいナァ。
そして、外では朝七時の太陽と風とが微笑んでいた。
3号室
≪この寒いのに、彼女、ちょっと遅すぎるんじゃないか。もう帰って来てもいい頃なのに……アレッあの音≫
アーあ疲れたわ。ただいま。寒いわねえ、あらっ、ストーブもつけずに……どうしたの?何とか言ったら?私が働いて帰って来たのに、お帰りぐらい言ってくれたって良いじゃないの。そんな所に寝転がってると、風邪ひくわ。ううん、いやねェもう。アタシったらアンタに少しも怒れないんだから。憎ったらしい。だって…アタシ、アンタに惚れてるんだね、やっぱり。
≪オレだってオマエを……なんて可愛い女なんだ!≫
ねェ、今日ね、お店のお客でいやらしい感じの中年男がいたの。それでね、あの男ったら、アタシがコーヒー運んで置いて、すぐ離れて行こうとしたのよ、そしたらちょっとお尻に触って『ねェキミ、今晩身体空いてるかい?』ですって。ホントにバカにしてるね。だから返事の代わりに睨みつけて、くるっと後ろ向いて離れたら、大きな声でね、『恋人かい?まさかもうヒモかなんかがいるんじゃないのかいで』ですって。もうーいやねェ。
≪そんなことこのオレに言ったって、何も出来やしないことぐらい、オマエだって知ってるくせに……≫
アンタったら、もう寝たいの?ちょっと待ってよオ、ううん、いやあねェ。アタシ髪の毛、巻かなくちゃ。ピンがいたい? だってお袋団1組しかないんだもの。田舎の母さんに仕送りしなくていいんなら、喫茶店のバイトなんてしなくて済むのに……そしたら、もっと長い時間、アンタとアタシ、一緒にいられるのに…ずーっと2人だけで暮していけるのに……ねェ、アタシを捨ててどっかに行ったりしないでよ!アンタがここに、この部屋に居てくれるだけで…アタシ…幸福なんだから。
うふっ変ね、アタシって。今まで自分が幸福だなんてこと、考えたことなかったのに。
≪幸福なんて、そんなもんだろう…≫
パチッ。何かニュースでもやってないかしら。
『 (あの音楽そして) オレ、ゴリラ。オレ、景品。チョコレエトの包み紙でオレあげちゃう! チョコレエトは××!』パチッ。
アーあ。ごめんね。いやなコマーシャルだこと。寒いからもう寝ましょ。明日はお天気が良さそうだから洗濯しなくちゃねェ。さ、ここよ。うふっ、ちょっとくすぐったいワ。アクシ、幸福…シアワセ…よ!
≪オレも、幸福サ。そう、オレが景品のゴリラのぬいぐるみであることを考えれば。なあ兄弟!≫
≪気がむけば続く≫