時の娘  浦  晃


 暫らくして、少女はただ一言だけ答えた。
 「わからないわ」
 彼はもうそれ以上追求しなかった。少女が遠くにある、と云うんだから、それは遠くにあるのだろう。それでいいじゃないか。
 「じゃお父さんやお母さんの住んでいるところも遠くなんだね。送っていけるかな。私はこの山と山腹の村以外に出たことがないんでね」彼は本当に、そんなに遠くまで送っていけるかどうか心配だった。
 「送って下さるの」と少女はその澄んだ瞳を向けて聞いた。
 「迷惑かな」
 「いいえ、嬉しいわ。とっても素敵なところよ、私が住んでいるところは。あなたにも是非見ていただきたいわ。」
 「そうだな、私も見てみたい気がする。まだ小さかった頃、父は色々な事を話してくれた。巨大な建物や鳥のように大空を自由に飛ぶことの出来るもの、道を走る乗物、私にはどれもこれも信じることの出来ないものばかりだがね、今だって……」そう云い乍ら彼はライフルにふと目をやった。そうだ、信じるべきなのだ、と彼は考え直す。「君の住んでいる町にはそう云う物があるんだろうなあ」
 「ええ、その外あなたが見たこともないようなもの、いっぱい」少女はためらいがちに答えた。
 彼は話題を悪い方に向けてしまったのだろうかと考えた。少女は余り自分の住んでいるところについて話したくないらしい。
 「みんな戦争が悪いんだよ。父はそう言っていた。この戦争は人類全ての文化を、叡智を、伝統を、破壊してしまった。もう二度と人類は立ち直ることはないだろう。そう云っていたのを今でも憶えているよ。でも君の話を開いてみると、そうでもないようだが」
 すると少女は、今度は、はっきりとまるで何かを読むように、それが彼女の頭を支配しているのでもあろうか、とうとうと言うのだった。
 「私たちは過去において愚かしい行為を数えることも出来ない程積み重ねて来たわ。そうしてその度に、もう人類は終りかと考えて来たのよ、でもそうじゃない、私たちはどんなに酷い状態になっても、そこから再び立ち直る力を持っているのよ」
 しかし彼は聞いてはいなかった。いや聞いてはいるのだが、彼に もう一つの声、父の声がまるで遠い谺のように語りかけて来るのだった。『なあコウよ、人類は苦境から這い出す力をもっているのだ、だが人類はまた己自身を破壊に導く力も兼ねそなえている、これまでの人類の歴史は絶えずその繰り返しだった、恐らくこれからもそうだろう。わしはなあ、コウ、これまで人類を憎んで来た。しかしそれも今では忘れもしよう、今が一番幸せな時かもしれぬ、この荒廃と自由が……』彼がそうして暫く、彼の内に寄せる父の言葉に酔っていると、少女は寒そうに身体を震わせ、それに続けてくしゃみを二つした。
 「寒いのかい、風邪をひいたのかな」そう言って彼は薪を加えた。火は一層強く輝き、小屋は暖かくなったが少女はなおも震え続けた。心配になって来た彼は、少女の側によると、その額に手を当てて熱を計ってみた。僅かだが熱があるようである。
 「少し熱があるようだ。今ベッドをこしらえてあげるからここで冷えないように暖まっていなさい。風邪をひいたようだ」
 少女はもう何も話したくないらしく、ええ、答えるだけだった。
 彼は隣りの部屋に入って、妻のベッドを運び出して来ると、先程あわてて火の側に寄せた彼自身のベッドをもとの位置になおして、改めてユキのベッドを火の横においた。古びたマットを引き、シカの皮で作った毛布を出し、彼の毛皮も一枚取って移した。
 「さあ、そのままベットに入りなさい。ゆっくり眠るといい よく眠れば風邪もよくなるだろう、よくなってもらわなければね」
 少女はこっくりと一つ領くと、少しふらつき乍らベットの側に寄った。彼はそれをみて、少女を一気にすくって抱き上げると、そのままベットに寝かしっけた。
 「本当にごめんなさい、こんなことになっちゃって。」少女は熱のある眼で、すまなさそうに言った。彼にはその少女の表情が本当に可愛くみえる。
 「いいんだよ、気にしなくて。おやすみ」そこで彼はまだ少女の名を聞いていないことに気づいた。
 「君はなんという名前なの?」
「わたし?ヨーコ・M」
「ヨーコエム?」彼は聞き返した。
「いいえ、ヨーコ、エム」少女はゆっくりと言った。
「おやすみ、ヨーコちゃん、明日の朝は元気になって眼が覚めるようにね」
「おやすみなさい]少女は眠った。

 静けさが訪れた。彼は自分もベッドに入ると、今日一日に起った出来事をもう一度整理してみようと思った。獲物が何一つなかった帰り。そしてユキの墓……。少女ヨーコ。それは彼のこれまでの一日一日からすると、余りにも多くのことがありすぎた一日だった。おまけにもっとも悪いことには、心の中に忘れ去ってしまったはずのユキのことを、ずい分と思い出してしまった。再び彼の心から忘れ去られるまでにはどんなにか長い時間が費やされることだろう ーしかも、それは決して完全に忘れ去ってしまうことなどない。彼が意識的に思い出さないだけなのだ。彼は充分そのことを知っていた。明日は少女の言っていたベルトを、狩に行く前に捜さなければならない。雪がひどく積もってなければよいが、そして明日は獲物があればよいが。これからは彼自身の分だけではどうにもならない。勿論それは、彼にとって決して重荷ではなかった。ユキが生きていた時だってそうだ。生活に対する態度が自ら異なって来る。ユキと少女ヨーコ……。
 暫らくして彼も眠りに落ち入った。
 次の日の朝、彼は久し振りに心地よい朝を堅いベッドの上で迎えた。シャツを着、ズボンを穿いて、小屋の戸を開けた。昨晩の天気と打って変り、太陽は黄金色に輝いている。彼は少女の寝ているベッドに近寄ると、軽く少女のホオに手を触れた。その様子は孫にでも接するが如き老人の仕草だった。彼は別に少女を起こすつもりはなかったのだが、結果としては起すことになったようである。少女はけだるそうに眼をあけ、そして言った。
「おはよう」
 「ごめんよ、別に起こすつもりはなかったんだが」彼はそう云い乍らも風邪のことを思い出して、少女の額に手をあてた。昨日程の熱は感じられなかった。
 「よく眠れたかい?気分はどうかな、昨晩程は熱もないみたいだ、だけど用心した方がいい。今日一日はそのまま寝ていた方がいいよ。気持ちは悪くないかい?」
 少女は明るく笑った。
 「ええ、もう大丈夫、きのうは本当に御めんなさい。でも‥…・、きのうのこと、お願い、ベルトを捜して来てちょうだい、ね、お願い」少女は何よりもベルトが心配 のようだった。
「ああ、捜して来てあげるよ、食事を済ませたらさっそく猟に出かける、その行きがけに捜してきてあげよう。君は何か欲しいものあるかい、きのうはあんな風でミルクを飲んだだけだから、さぞお腹がすいただろう」
「ええ、とっても」と少女は舌をちろっと出して、腹がへっているという風におなかを手でおさえた。
 彼は笑い声をあげながら、「そうだろう、そうだろう」といって朝食を作り始めた。
 二人分の食事を、彼が憤れた手つきで作っている時、少女がもじもじしながら尋ねた。
 「あの……」
「なんだい」彼は手を休めることなく、優しく開いた。
「あの、奥さんのほかの服、着てもいいかしら、私のまだよく乾いていないの、だから…」
「そうか、それは気がつかなかった、いいよ、とれでも好きな奴を着なさい、あのスーツ・ケースのはどれでもいいよ」彼は思わずスーツ・ケースの服は全部あげるよ、と言い出しそうになったが、あやうくユキの言葉を思い出した。
 彼は朝食を作り上げるとそれをテーブルの上にならべ、彼女の出て来るのを待った。あの娘はどの服を着て来るだろうかフライト・グリーンのシャツか、それとも銀糸の入ったグレーのセーターだろうか、オレンジの奴かな?彼は待った。それはとても楽しい時間だった。
 少女はグレーのセーターを着てきた。よく似合った。ユキの服はどれもこの娘に似合うんだな、と彼は今さらながらのように思った。
 「それが気に入ったのかい?」
 「ええ、とても、でもあのスーツ・ケースのはどれもみんなすてき、奥さんはとても趣味がいいわ、これなんか…」とそこまで言って少女は、はっとしたように自分の着ているセーターを手でつかんでよく見た。実際ヨーコはびっくりした。『これは、これは私の時代の……』そう思ったが、口には出さない。彼の方は少女が急に口をつぐんで、セーターをじっと見つめだしたので、何といってよいのやら見当がつかなかった。それでもどうやら食事のことを思い出して声をかけた。
 「食事にしようか、冷たくなってしまう」
 「ああ、どうもごめんなさい]ヨーコは疑問を押しかくして席についた。そして必要以上に嬉しそうな声を出した。
 「うわあ、おいしそう、すごくおなかすいてるの私、いただきます。」
 十年もの間続いた、彼の、一人だけの食事は、今日で終った。

 食事を済ますと彼は、少女に大体の食料のありかを教えてから、いつもと同じ出立ちで小屋をあとにした。
 昨日は、少女をかかえていたにもかかわらずあれ程の早さで帰り着いたのに、今、彼は何ともいえず歩が進まなかった。ユキの墓の前を通るのがいやなのか、そこで少女のベルトを捜すのがいやなのか、それとも少女のベルトが見つからないのではないかと心配しているのか、彼自身にも判らなかった。けれども、ユキの墓のある径は彼が必らず通る径だったし、少女のベルトにしたってあれだけ心配している以上見つけ出してやらないことには可愛そうだった。ひょっとすると今日の狩は中止しなければならないかもしれない、と彼は考える。それはまだいい。まだいくらかは食料もあるだろう。それよりも少女のベルトがみつからないことの方が気がかりだった。もし今日見つけ出すことが出来なくて、明日もまた発見出来なかったら…、例え今日一日中晴れて、昨日の雪が溶けて捜し易いようになっても、それでもなお、そこになかったら、一体どうすればいいのだろうか。ユキの墓は他の一面と同じく白一色に飾られていた。墓標としてのヒマラヤ杉も、いまは綿を被った白いとんがり帽子の様に立っている。彼は近づいてライフルの銃把を雪の中につき立てると両手でヒマラヤ杉の雪を落した。雪はザッ、ザッと小気味よく落ち、その下からは生きた濃い緑が現われてきた。大かたの雪を払い落すと、彼は昨日の夕方少女が倒れていたあたり、そうちょうど彼がライフルを立てた所の周囲を中心に少女の云う茶色のベルトを捜し始めた。
 それは暫らくすると見つかった。彼はホッとするとともに、それを興味をもって観察した。それは確かに普通のベルトだったが、いかにも不均合な大きなバックルがついておりそのバックルには幾つかのボタンと云うか、つまみと云うか、彼には判断のつけ難いものが付いている。だが彼にはそれが多分装飾用のものだろうとしか考え及ばなかった。それよりも、それが一晩中雪の中にあったにもかかわらず少しも濡れていないことの方がずっと不思議だった。確かに彼だって防水のためには、ロウを塗れば良いこと位知っている。けれどもどんなに丹念に塗ったところで、決して完全な防水は不可能だった。ところが彼の目の前のベルトは完全な防水のように見える。
 全くあの子のまわりには考えられないことばかりだ。と彼は思うんだが、それ以上考えることはしなかった。ベルトが見つかったことで、少女の嬉ぶ顔が眼に浮んだし、それでもう彼の考えはこれからの猟のことに移っていた。彼はベルトを肩にかけ、ライフルをつかむと先へと進んだ。妻の墓をふり返ることもなかった。ヒマラヤ杉の所から森の中へ彼の大きな踏跡が残った。
 その夕、少女は彼を小屋の小さな戸口で迎えた。彼は、もし少女が本当に彼を出迎えてくれたのならどんなにか幸せだろうと思ったが、それを顔に出すようなことはしなかった。そうしてすぐ例のベルトを肩からはずすと彼女に渡した。
 「これかな?君の失くしたと言ったベルトは?」
 少女は、彼が期待した程派手には嬉びを現わさなかったが、それでもその眼には一つの安堵感といったものが窺えた。
 「そう、これなの。どうもありがとう。雪の中で大変だったでしょう、本当にごめんなさい。」彼からそれを受け取る時、ヨーコの手がそっと震えた。けれどもヨーコはこのベルトに余り執着せずに話題を変えていった。「おなか空いたでしょう。御馳走をつくっておいたのよ、腕をふるって」
「そう言えばいい匂いがするな、ではさっそく、いただくとするか。他人がこしらえた料理を食べるのも久しぶりだな」彼は少女が話題を変えてくれて助かったと思った。しかも彼は小屋に入った時からこの食欲をそそる匂いに悩まされていたのだ。

 料理はすばらしいものだった。実際、この小屋にある材料だけで、よくもまあこれだけの料理が出来たものだと、彼は感心せざるを得なかった。彼自身かなり料理には自信があったのだが、それも消しとんでしまった。
 ヨーコは静かだった。食事半ばで、彼はやっとそのことに気がついた。それまでは空ききった腹にものを押し込むことで大変だったのだ。ヨーコは彼と眼が会うと笑顔を向けるのだが、その眼は決して笑ってはいなかった。彼にはその原因がベルトに関係のあることだろうとおおよそ見当がついていたが、それよりも今の状態を壊すことの方をずっと恐れていた。けれども何か言わねばなるまい。彼の年齢がそう判断させた。
 「どうかしたのかい、さっきから一向に食事が進まないみたいだが、何か考え事でもあるのかな?」
 「ええ、ちょっと」
 ヨーコは迷っていた。今朝、彼が猟に出かけていくのを見送った後、捗女は食事の後片付けをやり、小屋の清掃をした。そうして昨晩の、そして今朝の、あのスーツ・ケースを陽の当る場所に持ち出して来ると、丹念に調べてみたのだ。そこでヨーコには納得がいった。彼の妻ヨーコ(ユキ?)は少なくとも彼女と同時代か、それとももっと先の時代の未来人であるだろうということを。それはある程度予想していたことではあったが、矢張彼女にはショックだった。
 何かの原因で過去にやって来た彼の妻ユキは未来へ帰ることが出来なくなってしまったのだ。(それとも未来から逃げ出して来たのかしらーそんな話をヨーコは聞いたことがあった。)そして彼と巡り会い、結婚したのだ。そう彼女は考えた。だけど、きっと彼の奥さんは幸せだったに違いない、そうとも思った。
 そして今、彼が彼女のベルトを持って帰った時、彼女は自分が未来から来たのだということを彼に告げようと思った。勿論奥さんのことは言うまい、と心に誓っている。けれども彼とこうして向かい合って食事をしていると、何故だかその意志がぐらついて来るのを感じるのだった。先に彼のところへやって来たユキが羨ましかった。
 それでも彼女はようやくそれを振り切って彼に話しかけた。
 「ベルトのことなんだけど……、」
 「ベルトがどうかしたのかい?」
 「あれは、タイム・マシンと云うの」
 「タイム・マシン?」
 「ええ、タイム・マシン」
 それから少女の語ったことは彼にはほとんど理解出来なかった。
 「タイム・マシンというのはね、ある人を過去へ、十年でも二十年でも、その人の行きたいだけの年代を超えてその人を運ぶことが出来る機械なの、それが発明された頃は酷く大きな物だったらしいんだけど、今はとても小さくなってあのベルトについていたバックル、あれ位の大きさにまで改良されて……。それで昨日の夜、私が学校の勉強だった、ていったでしょう。タイム・マシンはとても役に立つんだけど、それを使い方によっては悪用することも出来るの、だからその作り方は今でも小数の人しか知らないし、使用も厳重なの、そして私たちが学校で、人類のこれまでの歴史がどんなに破壊と創造の繰り返しだったかを勉強する『歴史哲学』の授業で私たちにこれを使ってその事実を教えるの、ところが昨日私が他の人たちと過去に行ったのはいいんだけど途中で機械がおかしくなったらしくて、多分どこかの時空間振動にぶつかったんじゃないかと思うんだけど、それであんな風になってしまった訳なの」
 ヨーコは一気にしゃべった、彼が理解してくれようが、してくれまいが、そんなことはどうでもよかった。
 「じゃあ君は、もう帰ることが出来るんだね。そのタイム・マシンとか云うベルトが見つかったから」彼は割と楽に話すことが出来たと思った。彼に理確出来たのはそれだけだったが少女に悲しい顔はみせたくなかった。
「えっ、ええ、それはそうだけど……」
 ヨーコは彼から『もう帰ることが出来るんだね』と聞かれた時、何故かある突ぴょうしもないことを考えついた。『もしかすると、本当は、彼の奥さんのユキというのは、私だったかもしれないっ』それは彼女にとって真に驚くべき発見だったが、充分に考えられることだった。現に今着ているこの服にしたって彼女にぴったりだったし、何よりも彼女のお気に入りの色と柄だった。『そうだわ、私なのよ、過去に私が、もう一人の私がやっぱり彼に雪の中で助けられて恋をしたのよ、そうして一人ぽっちの彼を幸せにしようと、彼の若い時にもどって結婚したのよ、そして私が……』けれど彼女には一つ心配なことがあった。それを確かめるためにヨーコは彼に尋ねた。
 「ね、私、奥さんに似ているかしら……」
 一瞬彼はとまどったような表情をした。彼は昨晩少女がユキの服を着て出て来た時、おもわずユキと見聞遣えた程だったのだ。
 長い沈黙だった。
 ヨーコはやっぱりあれは私じゃないのかしら、と思った。彼はスプーンをもてあそんでいる。だが、その表情は深く沈んでいた。陽に焼けた荒く彫り込んだようなその横顔は彼女に何事をも告げようとしないかのようであった。その横顔を彼女が見つめていると、突然彼はヨーコの方を向いて言った。
 「ああ、似ているよ、とってもよく似ている。昨晩君がユキの服を着て出て来た時、私はユキが出て来たのかと思った」
 それで充分だった。やっぱりそうなのだ、あれは私なのだ、そうヨーコは思った。確かに彼女も存在の環と云うことがあることを識ってはいた。『これがそうなんだわ、彼の奥さんは私だったのよ』
 けれどもヨーコは、今ここにいることがとても気にいっていた。『きっと私はこれからあのスーツ・ケースを持って彼の過去へ行き、そして彼の奥さんになるのだろう』 − それはきっと楽しいに違いない ー と思うのだが、現在の彼、年老い、どこか疲れていて生きている彼との生活を、もう少しでも味わいたかった。
 ヨーコは、今この時の彼を愛し始めていた。
 そして彼もまた。
 楽しい日々が続いた。
 彼は迫り来る冬のために、精を出して猟に勤めた。二人分の冬越しの食糧だ、彼はそう考えている。成程彼女は今日にでも帰ってしまうかもしれない。それはそうなのだが、彼はこの事を余り意識してはいなかった。ヨーコもあの時から一度もタイム・マシンの件を口にしなかったし、彼も彼女が帰りたくなれば帰るだろうと思っていた。それよりも、その時が来るまでの時間を、このユキとよく似た少女と充分に過したかった。
 二人は小屋を二人が生活しやすいように整理した。それは彼がユキと生活していた時と同じような小屋になった。小屋だけではない。小屋の周囲には、彼が猟に出かけている間にヨーコが造った花壇が出来た。それが出来た時、ヨーコは彼に花の種がないかそれとなく聞き出して植えたのだ。今、彼は気がつかないだろうが、それはきっと春になるときれいな花を咲かすだろう。ヨーコはそう考えて名も知れぬ花の種子を播いた。彼女はこの幸福に満ちた日々をどう過すかを考え、強いて自分の帰る時のことを考えようとはしなかった。
 夜の更けるまで小屋からもれる明りが降り積もった雪を照らし出すこともあったし、時おり華やかな笑い声が聞えて来ることもあった。
 少女ヨーコが彼のところへやって来てから半月程たった頃、彼はヨーコを彼女が倒れていた場所でもある、妻ユキの墓へ案内した。その日は雪もなく、陽射しの温かい日で、彼と彼女はピクニックにでも出かけるようにユキの墓へ参った。彼自身は少女ヨーコを愛しているのだと気付いていたため、少々うしろめたい気持がしないでもなかったが、過去の重くのしかかる幸せの想いを取りのぞく良い機会ではないかと考えていた。ヨーコはもう一人の自分が眠っているその場所を、一度見てみたいと思っていた。ユキの墓へやって来て二人佇んでいる時、ユキは始めて言葉にならぬ感慨をうけた。一体この下に眠るのは自分なのだろうか、ではここにいる私は何なんだろう。この墓を掘りおこせば一体何が出て来るのか、白く細い骨なのか?私の死んだからだなのか?ヨーコは判らなくなって来た。それでも彼女は自分がユキなのだ、ということを確信していた。
 二人はそこで暫く佇んでいてから、小屋へもどり始めた。ユキの墓で考えたことは二人ともまるっきり異ってはいたが、二人ともここへ来たことを後悔してはいなかった。
 小屋が見え出した時、彼は明日山腹の村のジョン爺さんの所へ行く、とヨーコに言っ。彼は時折り父の友人であったジョン爺さんを訪ねることを習慣としていたのだ。彼女が何故と聞いたので彼はそう答えた。すると彼女は『コウ爺さんは元気ですね』とからかった。二人は声をあわせて笑った。

 翌朝彼は朝早く起きて山を下りた。村への往復には、一日は要しないのだが、彼はなるべく早く帰ってくるつもりで朝早く小屋を出ることにしたのだ。山を下りる時は生活用品でどうしても手に入らないものを交換するためもあったので、頭陀袋の中にウサギや山鳥をつめこんで出かけた。
 ヨーコも砂と同じように早く眼をさまし、朝食をこしらえたり、彼の荷をつめこむのを手伝ったりして小屋の戸口に出て送り出し、時々ふり返る砂に元気よく手を振った。
 正午前に村についた彼は、さっそく遊んでいる子供たちにジョン爺さんやその外の人たちについて尋ねた。大人の男達は猟や漁に出かけたらしく、女たちも洗濯や家事に忙しい最中らしくて通りに顔をみせてはいなかった。子供だけが無心に駆け廻っていたのだ。
 子供達の言うところではジョン爺さんは相変らず元気そうだった。彼は村の共同井戸で水を飲むと一休みし、子供達のはしゃぐ様子を呆然と眺めていた。それから気をとりなおして村はずれにあるジョン爺さんの小屋に向った。
 ジョン爺さんは揺り椅子に揺られていた。彼はその姿を認めると、ちょっとだけ手をあげて老人の注意を引きつけた。
 「元気かのう、コウ」彼が近づくと老人は言った。
「御老体こそお元気そうでなによりです。私はまだまだ若うございますから」
「そういえば血色が良いのう、何か良い事でもあったのかな」
「ええ、実は山の小屋に客がありまして…・」と彼が言い出した時、老人の頻がぴくりと強ばった。彼はそれに気付いて話を止めたのだ。
 「どうかしましたか」彼は気になってジョン爺さんに尋ねた。最初彼は老人がどこか身体の具合でも悪いのか
と思ったが、すぐにそうではないもっと外の原因があることに気がついた。
 そうしてジョン爺さんは彼に言ったのだ。
 「若い娘じゃろう、その客人というのは。ユキさんによく似た娘じゃろう」
 彼は焼いた。どうしてこの老人がヨーコのことを識っているのだ。彼女が山を下りて村に来たことはないはずだし、一老人やその外の村人が小屋を訪ねて来たこともないはずなのに。何故か老人はヨーコのことを識っている。どうしてなのだ。彼は驚きを表して老人を見つめた。
 「どうして御存知なのです」やっとそれだけ聞くことが出来た。
 しかしジョン爺さんは老人だけが持つあの遠い目を見るような目で山を見ているだけだった。
 彼が再び「どうして御存知なのです」と尋ねると、ジョン爺さんはやっと彼の方を向いて言った。
 「ユキさんが初めておまえの小屋を訪れた時のことを憶えているかな、コウ」
 「ええ」と彼は、ユキと最初に会った時のことを想い出し乍ら答えた。
 それは十数生前の秋の事だった。小屋の修理をするために屋根に上っていた彼は、村へと道が通ずる林から一人の女性が黄色いスーツ・ケースを持ってやって来るのを発見した。その女性は真直ぐに彼の小屋の万へやって来ると、屋根にいる彼に向って声をかけた。それがユキとの出会いだった。そうしてその女性ユキはまだ呆然としている彼に向って〜その時は彼はもう屋根から降りて来てはいたがー『私をお嫁にしてくれません』と言ったのだ。その時の彼はもうしどろもどろで今想い出してみても恥しくなるのだが、それでも結局彼はユキと結婚した。
 けれどもそれが一体ヨーコとどんな関係があるというのだろう。彼には判らなかった。
 「それがどうかしたのですか」彼は少しいらだった様にジョン爺さんに聞いた。
 「うむ」と老人は首をふって彼に答えると、語り始めた。
 「もう十何年も昔になるが、秋で良い天気の日でのう、わしも今ほどおいぼれてはいなかった。その日わしが村の通りを散歩しておると一人の女が村口からやってくるのが見えた。そのころも今と同じ様に客人はめったになかったから、わしはその女が近づいてくるのを待っていた。するとその女はわしに近寄ってくるなり、こちらが言いもしないのに『ジョン爺さんですね』と言ったもんだ。わしはその頃爺さんなんて呼ばれてはいなかったので『爺さんは余計じゃよ』と言ってやると、その娘は突然しまったというような顔をしてから丁寧に謝り、『大事なお願いがあるのですけど』といった。それまでにも充分に驚かされていたわしは、そのあと娘が語ることはほとんどのみこめなかった。ただ驚ろいているだけだったよ。それで何度も何度も繰り返してくれるように頼んだ。そうしてやっと判った事は、十六年後に山に住んでいるコウという人の小屋へ一人の娘が世話になる。ということだったんじゃ」
 「ではその女はヨーコのことを、いやヨーコというのは今小屋にいる娘のことですが、彼女の来ることを識っていた訳ですね」と彼は言った。
 「その女ではないよ。ユキさんじゃよ]
 「ユキ!その女というのはユキなのですか?」彼は驚いてものもいえなかった。ユキはそんなこと一言も口にしなかった。それにジョン爺さんにしてもこれまで何十回となく訪れて来たのに一度としてそのことを話してくれたことはなかった。彼は数分間黙りこくっていた。それから尋ねた。
 「どうして話してくれなかハ一たのです」
 「ユキさんに口止めされておつたのじゃよ」
 「ユキに?」
 「そうじゃ、ユキさんは話を終えるとおまえの小屋への道を教えてくれと頼んだ、そうして今まで話したことは決しておまえに話してくれるな、今日までは、とね」
 「今日まで?一体どうして今日までなのです?」彼は混乱した頭の中で尋ねた。
 「それはのう、コウ」老人は言いにくそうに言葉を選んだ。
 「それは、何故なのです」
 「それはユキさんがその娘だったからじゃよ、今山の小屋に来ている」老人はそう言い乍らもまだその言葉を信じていないかのようだった。けれども彼には、余りにも多くの理解出来ぬ事柄があるにもかかわらず、なんとなく判ったような気がした。これでユキがスーツ・ケースをとっておくように頼んだ訳が判るし、何故結婚してくれといったかも判ったような気がした。そういえばヨーコはあのベルト、タイム・マシンとかいうのは何時でも自分のいきたい時代へ時間を超えてゆけるといっていた。しかし何故今日なのだろう、と彼は思う。何故今日までジョン爺さんほ口止めされていたのだろう。
 「それだけじゃない。わしが今日まで口止めされていたのは、ユキさんが今日自分の家へ還って、そうしておまえの若かった時代へ来る決心をする日じゃからよ」ジヨン爺さんほそう言い終ると、疲れきったように眼をとじた。揺り椅子は止まることなくゆったりと揺れていた。
 彼は崩れるようにジョン爺さんの隣りに座り込むと、山を見上げた。その眼は先程ジョン爺さんがみせたあの老人の眼と同じだった。

 朝早く起きたのでヨーコはテーブルにうつ伏せになって居眠りをしてしまった。そして夢を見た。その夢はまだ若い彼と彼女がこの小屋で生活している夢だった。それは妙に生々しく彼女に思えた。それは幸福そうな二人で、夢と判っていても、ヨーコには彼女が今ここでこうして彼と生活しているのを咎めているように思われてしかたがなかった。
 眼が覚めた時彼女は、とにかく一度家に還ろう、と考え始めていた。家に還って。パパやママに相談してみよう。そうして彼の若い頃にもどって結婚するのだ、そう思った。
 彼女は正常な思考を飛びこえて、自分の想像に考えを左右され始めていた。それが時の流れなのだと思い込んでいた。
 ヨーコは柱の釘に掛けてあるベルト型タイム.マシンを取りあげると、黄色いスーツ・ケースを右手に持ち、ふらふらと小屋を後にしてユキの墓へと向った。
 朝晴れていた天気から曇りに変わり雪がちらつき始めた。

 彼はジョン爺さんを小屋の中へいれて、揺り椅子も囲炉裏の側へ移し、火を強くした。

 「TIは時空間振動、TUは時空間歪曲、そしてTVで時空間転位」をれだけでよかった。それだけなのよ、とヨーコは思う。けれどもこうしてユキの墓 ー そして自分の墓でもあるのだが − を見ていると、何故か彼の若い頃へ行って彼と一緒になるということが幻想のように思われてしかたがなかった。『一体私は彼を幸福にするために行くのだろうか、それは彼に不幸を与えることになるのではないだろうか』そう思われてくるのだ。
 『定められた運命なのだ』ともう一人の自分が言うのをヨーコは聞いた。
 『でもどうしてなの、私がこのまま現在の彼といてはいけないの』と反問する。
『歴史が変わるわ』
『何の?誰の歴史が変わるの?今ここにいる彼と私が消え去ってしまうとでもいうの』
 ヨーコには判らなかった。彼女はTUまでセットしたベルトをTTにもどした。その瞬間激しい嘔吐と目眩が彼女を襲った。
 彼女は忘れていた。TU時空間歪曲は、長い間その状熊でいるとセット開放後、酷い嘔吐と目眩を誘発させることを。
 ヨーコはユキの墓を離れると、大きな杉の木に寄りかかって吐いた。朝とったものが全て出た後でも吐き気は治まらず胃液までが出て来た。それに諺の中を雷のようにガンガンと頭痛が走った。ヨーコは杉の木の冷たい木膚に背中を寄りかけるとTTのセットを開放した。それが最後だった。ユキの墓から大きな杉までのヨーコの移動と時空間変動が重なってこの杉の木に重く厚く積っていた雪があっという間もなく落ちて来た。
 ヨーコには何も言うことが出来なかった。たとえ言ったところで、山腹の村にいる彼にまでとどくことはなかった。
 その夜遅く彼はジョン爺さんに別れを告げた。もう当分は、恐らく春が来るまでは老人を訪れることはないだろうと言った。
 彼は村のもう一方の村口から出て、いつもとは異る、ずっと廻り道であるはずの道をとった。ユキの墓の前を通ることが出来なかったのだ。夜更け頃雪が酷くなった。彼が小屋へたどり着いた時、ヨーコはいなかった。スーツ・ケースもなかった。雪はそれから三日間降り続け、ヨーコの上に雪を落としてしまった杉の木も今は他と同じようになっている。

彼は再び孤独の生活にもどった。
 だが……、春になって雪が溶け、小鳥たちが鳴き出し緑が芽をふかす時、ヨーコの作った花壇の花は、きっときれいな花を咲かすだろう。
 そしで、同じように雪が溶ける時、彼の妻ユキの墓の側の大きな杉の木の下に……。
 (了)


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