龍の髪 帆田 力


 湖面をわたって来た風が、髪を乱して通り過ぎて行く。気持ちのいい秋風だった。乱れた髪に手をやりながら、ふと遠い昔のことを思い出し、一人にやついてしまった。
 小学生の頃だったろうか、女の子の長い髪の毛を見ては、耳がかぶさってくすぐったくないのかな、などとよく考えたものだ。長いきれいな髪をした女の子の事を今でもよく覚えている。その子に、くすぐったくないの、なんて何度もきこうとしたのだけれど、結局きかずじまいだった。今考えてみると、その子に淡い恋心ーと言うよりは、あこがれに近いものを感じていたのかもしれない。乱れた髪をなおしながら、なんだか楽しい気分になり、つい頬がゆるんでしまった。
 山にかこまれた静かな湖の岸に、今ぼくは立っている。人もほとんど通わないような山道にそって、緊張しながら車を走らせて来たぼくの目に、突然広がったこの湖の景観は、なにかすばらしい別世界のように見えた。疲れも忘れて何時間も湖畔を歩きまわった。波が静かによせてほかえす砂浜のような所もあれば、鬱蒼とした森が湖面にぐっとせり出した木と水の接線のような所もあった。小さな湖ではあったが、そこにはあらゆる美がひそんでいるように思えた。観光地開発の専門家であるはくが見ても、それははっとする美しきと神秘さをたたえており、日本にもまだこんな所が残っていたのか、と言う驚きにもにた索持ちさえおこって来たのだから。
 多少疲れていた。ふと気がつくと、日もだいぶ西にかたむき、山の端にかくれようとしている。その様子がなにかもの淋しい雰囲寿で、あれほど美しかった湖がなんとなく不気味に見えて来るのも、そのせいなんだろうか。車にもどろうとふり返った時、土地の人らしい老人がこちらへやって来るのに気づいた。どう言うわけか、人恋しきをおぼえ、微笑をうかべて老人に歩みよった。
「あの自動車、あんたのかね」 老人はにこりともせずに言った。
「ええ、そうです。何かおじゃまですか?」
 老人は首をふった。
「ここはいい所ですねェ、きれいな湖だ、静かで ー 」
「あんた 観光会社の人だろ?」
 老人の言葉に何となく敵意が感じられた。反対派の人間らしかった。.ぼくはこれまでに何度となく観光地開発をやり、その度に反対派の人たちと話し合っていたので、このような場面になれていたのだが、やはりいやなものだった。
「そりゃ、このすばらしい自然を多少なりともこわすのはもったいない話です。しかし、我々はこの自然の中にすっかり溶けとんでしまう建物や道をつくろうとしているんです。もっとすばらしい所になりますよ、まあ見てて下さい。それに、あなた方の生活をおびやかす訳でもないし、反対にー」
 ぼくはベラベラとまくしたてたが、半分は心にもない事を言ってしまった。これも、経験から得たことなのだ。しかし、この自然をすこしでもこわすことに、多少の抵抗を感じはじめていたのも事実だったが。
「龍神様がきっとお怒りになるだ、きっと」
「えっ、りゅうじんさま、ですって?」
「龍神様だ、この湖の守り神なんだ」
 龍神 − よく聞く話しだ。ぼくはいろいろな土地でこの手の伝説をたくさん聞いていたのだ。しかし、それぞれの土地によって多少のちがいなどがあり、それはそれでとても面白い。ぼくはいつの間にか、このような伝説のフアンになっていたらしく、老人の話に割と熱心に耳をかたむけていた。全く信じてはいなかったが。 何千年も前からこの湖には一匹の龍がすみついていると言う。村人たちは龍神として龍をうやまい、守り神としていた。その龍は、村人に害を与えようとする人間を、美しい娘に化けてこらしめたと言う。話しを聞きながら、なにげなく湖を見てみると、確かに龍の棲む湖というイメージにぴったりなのだ。日本のネス湖と言うキャッチフレーズでもつきそうだな、などと言うくだらない事を考えてしまった。
「あんたも気をつけなさるといい、たたりにな……」
老人はそう言い残すと、またとぼとぼと村の方へひきかえして行った。
 ぼくなんかまっ先にこらしめられる人間なんだな、と思うとなんだか急におかしさがこみあげて来て、一人でにが笑いをしていた。気がつくと、あたりはまだ明るかったが、日は山の端にすっかり沈んでしまい、湖面の小さな波がキラりと光っていた。黄昏時の淋しさからか、急に風が寒く感じられるようになり、かけるようにして車の方へ向った。内は快適な暖かさで、ほっと一息をつくと、妙に落着いてきた。予定の時間がだいぶ過ぎてしまい本当ならもう宿にもどってなければならない時刻だったが、なんとなく、ここからはなれたくなかった。そのうちに、昨日からの疲れのせいだろう、急に眠たくなってしまい、そのままシートをたおすことにした。
 夢を見た。小学生のぼくが湖畔で遊びまわっている。石をひろい、水きりをしているようだった。気がつくと、湖の方から一人の女の子がぼくの方へ歩みよって来た。あの子だった。彼女の手にはまっ白なゆりの花が一輪にぎられ、風にそのきれいな黒髪がなびいている。鮮やかな線の帯が純白の着物によく合い、頭には薄紅色の髪かざりがとても可愛らしくゆれていた。
 −おーい、見て、きれいな石だろ! ぼくは彼女の方へ走って行った。女の子はその澄んだ美しい目でぼくを見た。なぜか、その目は深い悲しみをたたえているようだった。
 − どうしたの、そんな悲しい顔をして?
 − やめて、お願いだから、どうか私たちをそっとしておいて、湖をいじらないで……
 女の子はくるりと背を向けると、湖へ走っていき、岸のところですっといなくなってしまった。
 はっとしてぼくは目をさました。いやな夢だ ーあの女の子の悲しそうな目が、ぼくの頭にこびりついていた。
なにかむなしさをおぼえ、ため息が出てきた。煙草を口にくわえ、ライターのボタンを押そうと頭をもたげた時、女の子の姿がぼくの目にとびこんで来た。煙草がポトンと音をたてて床にころがり落ちた。夢の続きを見ているんだろうか、ぼくは呆然と彼女を見つめていた。女の子は湖に向って歩いていた。一瞬、彼女はふりかえり、ぼくはその目をはっきり見てしまった。そしてすうっと夕闇に消えて行った。
 「おおーい、きみいー」 思わず叫んでいた。慌てて車からとび出し、水辺まで走って行ったが、そこには誰の姿も見えず、人のいた気配さえまったく感じられなかった。
 どのくらい岸にたっていたのだろうか、ただ星が夜空をすっかりうめつくしているのを見ると、相当時間がたっていたにちがいない。身体がすっかりひえきっていた。
 これは嘘だ、こんなことが現実におころうはずがない、ぼくはそう自分にいいきかせていた。しかし、あれは幻だったのだろうか。いや、そうではない。現実なんだ。ぼくはなにかやるせないどうにもならない気持におそわれていた。 − それは、超現実的な出来事を体験したと言うことより、自分が自然の敵だと言うことをはっきり認識したからだろうか。心に秘めていた小さな思い出が、何かたわいなくくずれていく気がした。
 帰ろう、東京へ帰ろうと思った。キーを取り出そうとした時.ぼくははっとして立ちつくしてしまった。ボンネットの上に、誰がおいたのか、一輪の純白のゆりがそっとおかれてあった。

 翌日、ぼくは東京へ向って車を走らせていた。部長へこの計画の中止を申し出るつもりだった。


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