その5 

 「綾の鼓」の多大な貢献者として、「高橋恵美子」さんを挙げるのは妥当でしょう。結成当初から、他のメンバーにSFとはかくありきとという思想と、作品の文章力とで圧倒し、リスペクトされていた人物です。
 例会では、自説を押し付けるようなことは無く、淡々と落ち着いた雰囲気を醸し出していました。メンバーからは、「さすが、お姉さま」と呼ばれていたような気がします。
 この「さすが」が付くところが凄いんですね。例会でうさおは何を言っていたのか、とんと覚えていませんがね。会を立ち上げるのに、自分の乏しい人脈を使い果たして、こっちむいて「そうだと思った!」、あっち向いて「ですよね〜!」って幇間(たいこもち)をしていました。
 こりゃ創始者って言ってもメンバーからの尊敬は得られないわな。この号までは、なんとか会にしがみついていましたが、内容が高度になるのと会話のマニア度が上がるにつれて,うさおの限界でしたね。追随能力が・・・。
 その例会では「お姉さま」と議論をしたら負けるような気がして、隅の方で黙ってうんうんと頷いてばかり。当時からうさおは、ふわふわしたことしか言わなくて、論理的かつ思想的な幹を持ちませんでした。その代わり、例会で得た知識は、他のところへ行って自分の意見かのように得意になって喋っていました。
 大体、SFに最初、のめり込んでいたのは兄貴だし、兄貴の集めた本(単行本だけではなく、宇宙塵、宇宙気流も含まれる)を読んで、一端っなことを言っていただけなんです。
 お小遣いは漫画の本に注ぎ込みました。松本零士さんのように、家中を漫画本で溢れさせたいと思ったのです。思いは倅に伝わり、親子二代で家は漫画本だらけになりました。
 ちなみに松本零士さんが特任教授をされていた「デジタルハリウッド」校の校長先生は、うさおが出入りしていた大学の研究室の助手でいらっしゃっいました。あまり学者臭くない大変ユニークな方で、日本で初めてデジタル・メディアの学校と工房を作った方です。
 何にしても、初めて何かを作る人は凄いな。
 会に参加していた当時を振り返ると、遊び着というお洒落なものは持っていなくて、例会にはジャンパーかスーツを着て出かけていたような気がする。今考えるとダサいな。ブルゾンの一つも持っていなかったのかな。
 小学校、中学校と下町に暮らしていたので、うちの貧しさに気が付いていませんでした。高校に入り友達の家に遊びに行ったら、皆さんお金持ちでびっくり。大学に行ったら血筋のよろしい方がいっぱいいて、(有名人をご家族に持つ方々)またびっくり。カルチャー・ショックだったなあ。

 うさおは純然たるSFではなく、奇妙な味(queer taste)と呼ばれる中間小説が好きでした。後に宮部みゆき氏の「震える岩」などを読んで、これですよって思いましたね。 
 うさおが奇妙な味を出そうとすると、なんでか猟奇的でおどろおどろしい感じのものになり、変なスプラッタものを書いてました。こりゃ、SFじゃないね。
 
 

No.5 表紙 山田美根子氏の表紙に変わりました

No.5 裏表紙 こちらも可愛らしく


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