指輪 第2回 高橋 恵美子

 あの日、彼女が帰ったあと、奴は延々三時間近く一人でしゃべりつつけ、俺を離さなかった。奴の話というのは、こうだった。その問題の恒星、位置は銀河系のはずれの方になるのだが、その恒星の回り、特に第六惑星と第七惑星の軌道の間に、何かがあるはずだから、見て来いというのだ。全く、簡単に言ったもんだ。話さえ聞けば、当然興味が湧いてきて断わる人間なんかいないと思ってるんだ。よくよく聞けば、その星のある場所たるや、一番近いキューブから、最新の宇宙船を使っても一ヶ月半はかかるという。しかも奴、その事実を一体どう伝えたと思う? − 幸運じゃないか、航行可能域にあるんだよ、近くにキューブができたばかりなんだ、時期もいいし、この星系の異常に気づいてるのはたぶん僕だけだよ、こんな幸運な話ってあるかい? − 幸運、幸運ネェー。奴にとって、本当に幸運なのは、奴に俺という友人がいた事だよ。
 俺は断わった。極力断わった。だが、俺にとって、断わるという事がどんなに消耗か、察してほしい。俺は、いったん店員と言葉をかわすと、その品を買わずに帰る事なんか、一度もないという、そういう種類の人間なんだ。その上、彼女の婚約という精神的打撃もある。
 そう、思えば、全く馬鹿馬鹿しい話だった。肝心な所で、奴の話を断われなかったばかりに、六ヶ月の休暇をとり、キューブに入るための無味乾燥なえさを食べ、四ヶ月近い宇宙航行をするっていうんだから。だけど、馬鹿馬鹿しいと思いながら、俺には何となくあきらめがついていた。彼女のせいかもしれない。婚約しちゃったのか ー と思うと、一人で宇宙へ飛び出すという考えが、まんざら悪くもないと思えてくる。
 旅行者ホテルというのは、実際本当のホテルとは似ても似つかない。それは、キューブを使用する人々を隔離し、収容するための建物だからだ。この施設にホテルという名をくっつけたのは誰だか知らないが、いったいどういう発想なのか、神経を疑ってしまう。ホテルというのは、本来、サービスの体系であって、客がホテルの言う通りに動かされる場所ではないじゃをいか。洗練された雰囲気と落ち着き、完全に保障される個室、それがここでは何もかも独断的で、退屈で、粗雑だ。それから食事。そう、結局はこれにつきる、食事の不満。クロレラ食にはサービスも優雅も何もありはしない。しかし、このクロレラ食の拷問を数日続けなければ、キューブには入れない。そこが何ともつらいところだ。いくら俺でも、数日間の監禁、抑圧生活と、激烈だという頭痛、目まい、吐き気、特徴的な全身に及ぶ脱力感、その結果襲って来るうつ状態とでは、比較する気にもならない。それがキューブ酔いというわけだ。そこでキューブに入る者は誰でも、特殊酵素入りのクロレラ食と、ビリピリする光線を何度か浴びて、体質の一時的変換をはからねばならない。−− 旅行者ホテルとはそういう場所である。
 どこかで呼出し音がしていた。引き戻されるような感覚がして目がさめた。書きもの机についたまま妙な姿勢で眠り込んだらしく、体のふしぶLが痛かった。スクリーンのスイッチを入れると、ホテルの制服を身につけた女が、ニッコリと笑った。
「失礼いたしました。御面会の方がいらしてます。御返事が遅かったものですから、こちらでGルームに席をおつくりして御客様を御通ししてございます。御言付があれば御伝えいたしますが。」
 スクリーンの前で、俺は半分目を閉じてその言葉を聞いていた。
「いや、いいよ。直接そっちへ行く。」
 言いながら、眠気を振り払うように思いきり首を横に振った。それからさえない顔で、ふとスクリーンを見ると、女がキョトンとした顔で俺を見つめている。
「失礼いたしました。」
 女は一瞬のうちに消え去った。消えたスクリーンの裏で、女が笑い出すのが見えるみたいだった。何とも間の抜けた見つめ方をしたものだ。
 馬鹿にされたような、釈然としない気持ちのまま身なりを整えると、俺はGルームへ向かった。Gルーム、要するに面会室。Gルームの受付で場所を聞くと、横の階段を上ってカーテンのあいている部屋、との事だった。受付の女は、まるで本当にそこにいるみたいだった。
 ドアを開けると、中は暗く、光と影が複雑に入力組んでいて、階段を捜すのに一瞬とまどう程だった。二、三段の階段があちこちにあってそれぞれが面会用の小部屋に通じている。使用中の部屋だけが、こうこうと輝くように明るく、もれた光の線が真暗な部分に吸い込まれていた。階段はかろうじて跨みはずさない程度に、ぽうっと光っていた。トントントンと上がってふと気がつくと、真下の部屋でできないキスを必死に試みているカップルが目に入った。馬鹿馬鹿しかった。階段を昇りつめると先の方に、光がはっきりした縦縞をなしてもれてくる部屋があった。それが、カーテンのあいている部屋らしかった。目的の部屋につくまで、さらに二、三段づつ降りたり昇ったりしなければならなかった。各小部屋の床は、常にたがい違いに作られているのだ。それもこれも、つまり、光の使い方も床の凹凸も、すべては部屋に備えられた機器のためである。
 小部屋の中は明るすぎた。俺が中に入ると、カーテンはピッタリと閉まり、牢獄のような雰囲気を消し去った。気にならない程度の簡素な調度品、ソファーとテーブル、ゆっくり体を伸ばせるような椅子、壁ぎわには腰までの高さの物入れが二つ、ソファーの上には彼女がいた。テーブルには、飲み干したコーヒーカップがある。何となく、自分が驚いていないのが不思議だった。ホテルのスクリーンの女から客の話を聞いた時は、奴だろうと思っていたのに…。
「私があなたの所に行くって言ったらねー、あの人、あなたがちゃんと勉強してるかどうか確かめて来いって言うのよ。」
 彼女はまるで浮き立つようだった。
「ひどいねt、昔っからそうだけど。あの人、飛び回ってるわ。」
「俺、退屈」
 言うと、テーブルをはさんで彼女の前にどっかり腰を下ろした。
「そうでしょー、こんなとこで」
「コーヒーも飲めないんだもんなー」
 俺は底の方に薄く砂糖のたまったコーヒーカップが、どうも気になっていた。
「あら、ごめんなさい。目の毒だったかな。何か間がもたなかったもんだから。何してたの。」
「うん、居眠り。」
「フーン、勉強するつもりで?そんなとこでしょ、わかるよ。」
「うん。」
 その時になって、やっと彼女の指輪が目についた。この前会った時は全然気がつかなかった指輪。しかし、こんなものが本当に婚約指輪なんだろうか。鈍く光を放ち、いやにゴツゴツした重そうな指輪。彼女の手はひっきり
なしに動き、その指輪をはっきり見る事はできなかった
が、いわゆる婚約指輪とはどうしても考えられない指輪。
 彼女の手の動きが急に止まった。
「ごめんなさいね。」
 真剣を声だった。目を上げると、彼女は下を向いて、ゆっくりその指輪をいじり始めた。俺は、自分の考えを隠しきれなかった事をひそかに悔やんだ。彼女が言葉を続けた。
「この前、言わなきヤいけなかったんだけど、何となく………。」
「いいんだよ。別に、さー」
 彼女は黙ってしまった。居心地が悪そうだった
「俺も気がつかなかったからなあー。この前だってはめてたんだろ、それ」
「うん」
「目立つな」
「うん」
「俺って、よっぽど なんだなー」
「私が隠したのかもしれないよ」
 いやな言い方をするを、一瞬俺はそう思った。だが、彼女は真面目を顔をして俺の顔を見つめていた。
「そうか、てれくさいって事もあるもんな」
 どう答えていいのかよくわからなかった。いやな言い方をするよ、もう一回そう思った。
 テーブルの上のコーヒーカップが再び目についた。手を伸ばし、取っ手を持つ真似をした。彼女がニコッと笑ってコーヒーカップに手を伸ばした。
「持ち上げてよ」
 彼女が言った。
「うん」
 俺は注意深く取っ手の間に指を入れ、そろそろと手を上に上げた。彼女がカップの反対側を支え、俺に調子を合わせた。手が上まで上がると、俺は得意気に言った。
「どうだ」
 楽しそうな笑い声を上げると、彼女はカップをさっともっと上まで上げてしまった。
「あっ、とったな」
 そう言うと、俺は彼女の手のカップを取ろうと、すばやく手を伸ばした。彼女がキャッと小さく声を上げ、もう一方の手を添えて、反射的にカップを下に降ろした。俺の手と彼女の手が空中で交差し、それから俺達はお互いに顔を見合わせて笑い合った。彼女も、彼女の頼んだコーヒーカップも、壁ぎわの彼女の側の物入れも、すべて立体映像なのだ。
「俺、さっき一生懸命キスしてる人見ちゃったよ」
 ふと思いついてそう言った。
「そんな人がいるのでガラス越しより始末が惑いのにね」
「うん、ほんと」
「でも、そうね。いざとなったらやっちゃうわね、最愛の夫になら」
 言うんじゃなかったな、と思ったけどもうしようがない。
「勝手にしろよ」
 言葉にヤケクソの響きが交じる。
「うん」
 彼女はニコニコしていた。そして手にしたコーヒーカップを、トントンと軽く手の中で投げ上げていた。そのたびに、指輪が光っている。
「どんな人?」
 カップの動きが止まった。
「研究員。いい人よ」
「なら、いいじゃないか」
「うん」
「だけど、変な指輪だな、それ」
「うん、生きてるのよ、これ」
「えっ」
「ううん、うそ。でも何だかわかんないんだって、これは確かよ。何しろネ、世界にたった一っしかない指輪なの」
 彼女は急に能弁になった。楽しそうだった。そして、今度こそ自分の気持ちを悟られまい、と俺は心に決めた。
「私が言ったの、何かの話のはずみに。どんな指輪が好きって聞くから、どうせなら誰もはめてない指輪がいいって。そしたら持って来たの。その時には、自分がそんな事言ったの忘れてて、彼にしかられちゃった。 −隕石なんだって、研究所で分析中の。何だかよくわからないらしいんだ。名実ともに、世界でたった一つしかない指輪だぞって念を押されちゃった。それからこの指輪の事はあんまり人に言うなよって。持ち出しちゃいけないのよ、ほんとは。おもしろいでしょ」
 彼女は話の間中、その指輪を目の前でいじくりまわしていた。指輪は相変わらず妙な光を放っていた。生きている、と言われたせいか、かすかを脈動でもあるんじゃないか、とさえ思える。
「私、でも、はじめ気がつかなかった」
 軽く顔をしかめて、彼女は話を続けた。
「彼が、婚約指輪のつもりでこれを持って来たって事。………これをはめて、彼の話を聞いて、ケラケラ笑っているうちにだんだんわかってきたの」
 突然、彼女は言葉を切った。そして一瞬、その指輪を見つめるとキッと口びるをかんでそれを抜きにかかった。唐突であった。俺は呆然として彼女のする事を見つめていた。指輪を抜いてしまうと、彼女はそれを手の中に握りしめてニッコリと笑った。それから、その小さな物を軽く放り上げた。一回、二回、三回。
「ね、この指輪あげようか」
 突然の言葉だった。最初はいとも自然に響いた。彼女の口調は屈託がなく、当り前の事を当り前に言ってのけたという風で、動じるところがをかった。だが、言葉の意味を悟ると、俺はハッとなった。頬がこわばった。息がつけなかった。それから、徐々に胸の奥から言いようのない怒りがこみ上げてきた。怒りで、次第に呼吸が荒くなるのを俺は必死で抑えつけた。そして立ち上がった。彼女が下から真っ直ぐ俺の顔を見上げていた。
「帰れよ」
 低いが、はっきりした声だった。自分の声ではないみたいだった。彼女の表情が変わった。どうしてだかわからない、という感情が表情となっていた。
「帰れよ」
 もう一度、ゆっくり、はっきりと、俺は命令した。決意は固かった。
 彼女はうろたえていた。緊張した表情を浮かべながらも、俺の言葉に素直に従った。彼女の姿は、ドアを通り抜けると同時に消えた。そのドアのノブは、俺の手をすり抜けたが、それでもなお、明確にその形を映していた。

 その夜、俺は遅くまで自分の部屋で起きていた。酒でもあれば、飲みたいところだった。−−−いくら彼女でも、言っちゃいけない事があるんだぞ、俺は思った。特に、この俺に対してあんな事を口にするなんて……。婚約したっていいさ、指輪をはめたってかまわないよ。だが、あれだけは………。どうしても許せなかった。

 俺の心は、玩具じゃないんだ………。
                  (さらにつづく)


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