雲海  篠宮 友子


 何十メートルか足の下に、ただ一瞬時を失しなった世界のようにそのままの姿で、静寂な身を横たえている雲。
 山の上から見える雲海は、不思議な世界を彼の前に作り出していた。風もなく回りにだれ一人いる訳でもないのに彼の耳には、南海の隈やかな波しぶきにも似た波の音が響いてくる。不思議なほど青い空から彼の下で、ただよっている雲海に金色の光を、太陽が投げ掛けている。
 一目、見るなり彼は自分の求めているものがここにあったとそう思った。動くことを知らない雲の波と、さかんに動き回る青い空、そのすべてが、彼が求め、そして今まで得られぬものだった。
 隣りの山の頂が、雲海の波をかきわけて頭を出している。それは、彼が一度行ってみたいと思っていたピーター.パンの島、ネバーランドの姿、そのものだった。太陽の金色の光が、子供達に島の位置を示す何百万という金色の矢のように輝いている。ほら、インディアンの煙が、海賊船が雲の中から表われてくる。・・・

 彼は雲というものが単に水蒸気の集まりであるということを忘れていた。ゆるやかに広がった山の斜面を、彼は一歩一歩下りていった。黒い土と緑の高山植物を相手に、彼は、山の斜面を滑るように下りていった。
 彼がふと我にかえった時、もうそこには、雄大な雲海の姿はなく、頭上にどんよりと重々しくたれ下る雨雲がそこにあるだけだった。

 ほんの少しの夢でしかなかった。風がでてくると、雲は、ちぎれて小さな固まりになりつつ流れていってしまった。

 「おい何してるんだ。ずいぶん捜したんだぞ」
 突然彼の頭上から声がふってきた。彼は見上げもせずに、ぼそりと呟いた。
 「見つけたんだよ。ネバーランドを・・・」
 「え!?ネバーランドだって。何をバカなこと言ってるんだ」
 「不当だ。インディアンの煙が・・・」
 「インディアン?何を言ってるんだ。こんな所までかってに降り来て。おまえが降りてゆくのを見た人がいなかったら、ここにおいてゆくところだったんだ。さあ!坐り込んでいないで立てよ」
 友人は、彼の手を強く引いて彼を立たせ、車を置いてあるドライブラインまで無理に歩かせた。
 麗容の山に灰色の筋をつけて、排気ガスを蒔き散らし、すべてを黒灰色に染めてしまう人間−彼もその一員ではあったが、彼はスピートもなくマスコミもなく、ただ自然だけの世界を求めた。もし食物が豊かにあって、争いのない世界があったとしたら・・そこはどんなに幸福であることか・・・。

 青いマイクロバスの中から彼の同僚達が、彼を好奇の目で凝視していた。その中の若い娘が、ちょっと軽蔑を含んだ口調で彼に言った。
 「いままでどこにいたの?迷子になった訳ではないんでしょう?」
 シートに深く坐って無言のまま窓を見つめている彼を、困ったように覗めて友人は口を開いた。
 「崖っぷちに立っていたら大金の入った財布を落したんだよ。財布を追って崖を降りたんだけど、財布が見つからなかったらしくてぼんやりしてるんだ」
 「違う・・・」彼は、聞きとれぬほど小さな声で呟いた。
 「夢の国を見つけたんだ」彼は心の中で繰りかえした。
 すっかり晴れた青い空の下には緑の谷が開けている。その谷間に、赤や白の屋根が、点在していて、美しく見える。だが彼にとって現実の美しきは必要なものではない。夢のような現実から飛躍した、ありえないような美しさを彼は求めていた。
 再びゴミためのようを町の中に道は伸びている。永遠にそこから抜け出られずに、灰色の線は続いている。
 「どうしたの?少しおかしいわ」
 旅館に着くと、日ごろから親しくしている女性が心配そうに彼の顔を覗き込んできた。
 彼は、彼女を見て、静かに言った。
 「君は信じているかい?ネバーランドを、青い鳥を?」
 「え!?」彼女は訝かしげに彼を見つめ肩をすくめた。
 「あなたが信じるならばね。 それより明日は半日自由行動でしょう。二人でどこかにに行かない?」
 「君は、夢を持っているかい?」
 「夢……?」彼女は少し赤面して続けた。
 「ええ、少しなら持っているわ。あなたみたいな人と、少さな赤い屋根の家に住めたらすばらしいと思うわ。庭に花を植えて……」
 彼は、振り返ってじっと彼女を見つめた。
 「現実から君はでようとしていないんだ」
 彼女は、むっとして彼に言った。
 「そうよ。わたしの夢は、少なくとも現実を中心に考えているわ。でもそれだって現実じゃない。あなたみたいに、緑色のドアを捜していたり、子供みたいにピーター・パンを待っていたり、宇宙人が飛んでくるのを待っていたりするのは、おかしいわ。だれもこの現実から逃げられない。あなただってそれを知っているはずだわ」
 彼は彼にしか見えない、あの雲海の姿をじっと見ていた。静かな夢の世界が広がっている。

 彼は思い出したように言った。
 「行こうか、二人であの山の頂まで、たった二人で登ってみょうか……」
 彼女には彼の行動がよく分からなかった。夢について現実離れしたことを呟やくかと思うと、一瞬後には、現実の話しを始める。
 彼は彼女の答えを求めるように彼女を見つめた。
 「そうね……そうしましょうか」
 彼から目をそらせながら、それでも少しうれしそうに彼女は答えた。

 空が爆発したように一瞬の間に明るくなった。太陽は山々の間から背伸びしてこの町を覗いている。

 朝早く彼は、昨日登った山に向った。頂に辿りついたとき空は真青で雲一つ浮いていなかった。切り立った山の上から下を望めば、ぼんやりとした町が下方にゴチャゴチャと固まっている。彼は目をあげて青く濁った遠方の山々を見た。雲一つない。
 彼の背後にいた彼女はそっと彼の肩に手をまわして話しかけた。
 「きれいね。このへん、雲がでていないのはめずらしいんですって」
 彼は何も言わない。崖っぷちに腰掛けたまま、前方を凝視してあの世界をもう一度求めていた。ただ静かに坐ったままの彼をちょっと見詰めて、彼女は肩を落した。だが彼女はそうした彼が好きなのだし……。

 彼は雲のでてきた足下を見つめていた。雲は生きていた。波打ちやわらかく流れ迫ってくる。彼の顔には、子供のような無邪気を、ほほえみが溢れてくる。
 「どうしたの?」
 彼女は突然の変化に驚いて彼を見た。しかし彼の目には、彼女の姿は映らなかった。ネバーランド、夢の世界。彼はおぼつかない足取りでその切り立った崖から手を差し伸べ、そのまま前進した。彼にはもう危ないという言葉はありえなかった。彼は現実を捨ててしまったのだ。その果てなく続く雲海は彼が来るのを待っている。動きながらそっと彼に囁きかけてくるのだ。彼の体が大きく揺れ動いて崖から落ちかける。彼女は、彼を呼びとめたが、彼は、前進した。

 彼はやわらかいショックを感じてあたりを見回した。海、その中に彼は浮いていた。暖かいそれが、彼をやさしく愛撫する。ひたひたと流れるそれに、身をまかせて、彼は頭上を見た。金色に輝く丸い大き夜光が彼の頭上を飛び眺めていた。
 ふと見れば青い島が顔を出している。麗麗しい姿を横たえて。彼は手で雲を掻きながらその緑色の島に泳ぎよった。
 つき出た岩の上に人影があった。彼はもっとよく見ようとその岩に近づいた。青いコケがビロードのように被っているその上に、女性が立ってhる。長い黒い髪と澄み切った瞳それに彼女には、現実味がないというのだろうか。
 女性は彼を見つけ、一瞬顔を引き攣めたがすぐやさしくほほえんだ。そして手を差し伸べ彼の手をつかんだ。
 「夢があるわ。あなたの瞳には。そうした人達がここにはくるのよ。さあ行きましょぅ。密林も海賊も、海も人魚も冒険もあなたのものよ。あなたの前いた世界は決して入ってこられない」
 彼は女性の側に這い上がって、そこが彼の世界、彼の望んでいた世界であることを知った。青い空、そう雲は彼の下にある。決してこの島を被えやしない。澄み切った風、青い密林が彼を待っている。うれしそうに彼は女性の手をとった。
 「さあ、行こう。ここには永遠の夢がある。ぼくにはそれが分かる」
 必死の捜索にもかかわらず、山から落ちた彼の遺体は、どこにも見つからなかった。


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