(中篇、分載)
時の娘 浦 晃
昼間から降り出した雪は、少しも止むことなく降りて来ていた。
その雪の中を彼は寒さに震えて小屋へと足を速めていた。今日は獲物も一つとしてなく、おまけにこの天候からすると、明日からはもっと着込んで来なければ、その内行き倒れ、と云う事にもなりかねない。しかし蓄えの肉類が底をつく前には、なんとか補充しておきたかった。
雪は夜まで降り続きそうだった。
もう冬か、彼は雪道を踏みしだき乍ら、そう思う。以前は、彼は冬が好きだった。子供の頃、父に連れられて雪の中のうさぎや狐の捕り方を教わったものだった。父と彼との二人だけの山小屋に帰ると、父は火を焚き乍ら、昔の事を色々と話してくれた。彼が行ったこともない街や、見たこともない巨大な建物のことなどを、父は夢見るように、瞼を閉じてじっと彼に語ってくれた。なかには、彼の想像の及びもしない様な事柄も父は話してくれた。それは、彼にとっては信じられない事どもであったが、父はそれが現実に、この大地の上にあったのだし、又父自身の限で見たのだとも云った。それからその後に起ったいやらしい事件も、父の憎悪を込めた愚痴も、後から後から止めどもなく出て来た。彼は今でも、時々それを思い出すことがあった。
それは、雪の降る季節になって、一人で火をくべている時が多かった。何故なら、父は彼と二人で、そうして囲炉裏を囲んでいる時に、その話をしてくれたからだった。幼なかった彼は薪をくべ乍ら、熱心にその話を聞いていた。
だがそれも父が死んでからは、彼は一人で火を囲まねばならなくなった。それは寂しい時間ではあったが、彼にはそれ程退屈ではなかった。彼は一人で薪をくべ乍ら雪の降りて来る音や、時折.パチッ、パチッと彼を驚ろかす囲炉裏が酷く気にいっていたのだ。
だが……。ユキと出会い、二人が結婚し、そうして……。彼女が死んでからというものは、彼は冬が嫌いになった、雪を憎むようになった。彼はもう、一人で火を囲むことが嫌だった。
雪が首筋にはいりこまないよう、襟を抑えて寒さに震え乍ら雪道を急でいる時、彼は一瞬立ち止まってそこを見た。そこは想い出すのもいやな、しかし彼にとって決して忘れることの出来ない場所だった。その小さなヒマラヤ杉の根元が、よく見るといつもと少し違っているのだった。確かに雪であたり一面被われてはいたが、何となく、土を盛った様にふくらんでいた。
彼は注意深く、そこに見入った。突然、彼の背筋を電流が走ったかの如く、彼は身体を強ばらせた。ただ一挺の父譲りのライフルをその場に落したのにも気付かず、彼は駆け出した。
誰かが行き倒れになっているのだ!赤い布地がうっすらと被った雪に見えかくれしていた。
それは余りにも妻の死に似ていた。
彼の妻は、もう十年も昔、やはりこの様に雪の降る黄昏の頃、彼が猟から帰って来た時、この、今誰かが倒れている、この場所で、雪に抱かれて冷たくなヶていたのである。
彼は駆け寄り乍ら、自分は悪い夢を見ているのではないかと考えた。そうでなくとも、これは悲しい冗談だった。なにもかもが余りにも似ていた。全てが神の酷い悪戯の様に思われた。もしそうならば、彼は神を呪ったに違いない。
彼は雪をはらいのけ、この不幸な旅人を抱き起した。
それは、末だ若い女だった。
一見して複雑な織り方をしたと判る小麦色のセーターと赤いスカートを身につけ、(防寒服などとは絶対に呼べない代物だった) 髪は薄い茶色で肩までの長さがありそうだったが、今ではそれも雪に濡れていた。顔にはまだ少女らしいあどけなさが残っている。
彼は少女の小さな胸の上に頭を寄せて、まだ生きているかどうか、聞きいった。心臓がまだ動いている。早く彼の小屋まで連れていって温めてやらねば。彼は少女のホオを二、三度叩いてみた。が、気を失ったままだ。彼は少女を肩にかつぎあげ、ライフルを拾いあげて山小屋に急ぎ始めた。助かればよいが、ただそう思った。同じ場所で、しかも同じ雪の降る夕に。二人の人間の死に様に出会うなんて。そんな不幸は願い下げだった。肩の少女は恐ろしい程冷たく、軽かった。そして彼は身体中に熱を持ち、頭は、何の理由とも知れない怒りに、より一層熱かった。一体、この娘は何故こんな所に倒れていたのだろうか?彼は最初はてっきり行くあてもない年取った老旅人か誰かと思っていたのに。それがまだ二十歳にも満たないような少女とは……。彼は自分が始めてユキに会った頃を断片的に想い出した。あの時の彼女も、この肩の少女のようにあどけなさが残っていたっけ……。
けれども自分はもうこんなに年取ってしまった、もはや残された時間を、過ぎ去った過去の想い出と、父や彼女との楽しかった日々に生きていくよりない、と彼は考える。
小屋に着いた時には、さすがに彼の手は肩の重荷と寒さのため、筋肉にしこりを感じて来ていた。しかし、今はそれどころではなかった。彼は速やかに火をおこすと、蓄えた薪の心配もよそにどんどん燃やした。少しでも早く小屋を温めねば……。それから、自分のベットをなるべく火の側に寄せて、少女をそっとおいた。何度か叩いた少女のホオをもう一度叩いた。本当は少女の濡れた服を取り変えてやる方がよいのだろうけれども、何となくそれは出来なかった。その代りもっと火を強くした。
実のところ彼は少々狼狽気味だった。これまで人を助けるなんて経験したこともなかったのだ。まだしも傷ついた山の小動物や小鳥たちの方が扱い易かった。この年齢になって、と彼はいくらか自嘲混りで反省するのだが、初めての事はどうしようもない。それで結局のところ彼は、火の具合を見ては、ベットに寄って少女が息を吹き返してはいないかと、その頬を摩ったり肩を抱いてゆすったりし、また火の具合を見るという単純な行動を取るということになった。
そうして何度目かに少女の顔を覗き込んだ時に、やっと少女の顔に赤味が射し瞼がピクッと動くのに彼は気付いた。そこで再び大分暖まった彼自身の大きな手で、少女の頑を軽くたたいた。少女はゆっくりと、そして少し眩しそうに眼を開いた。
美しい真黒な瞳をしていた。それから言葉にならない声をその可愛い口許に出して、眩しそうに手を顔の上に持っていった。
「気が付いたようだね」ほっとして彼は言った。
「ここはどこ?」
「君は、雪の中に倒れていたんだよ。もう少し私の通るのが遅かったら、そうして私が幸運にも君を発見しなかったら、手遅れになるところだったんだよ。」
「ここはどこ……?」
「私の小屋だ。安心しなさい。もう大丈夫だから。一人で雪の山道を歩くなんて危険だね」
「私、私、どうしたのかしら……」少女はそう言って、自分が何故こんな所にいて、どうしてこんなことになったのか思い出そうとするかのように、再び瞼を閉じた。
その時になって彼は、少女の髪がまだ濡れているのに気がついた。きっと身体中湿っていて気持ちが悪いに違いない。そうだ、ユキの服がとってあるはずだ。
彼は二つしかない部屋のもう一つに入っていった。暫く入らないためか、淀んだ空気の匂いが彼の鼻孔を動かした。その部屋には格別の用がない限り、めったに入ることはなかった。部屋は彼にユキとの生活を無理にでも想い起こさせるのだった。だから彼は火の側に坐ってじっとドアを見るだけだった。内にはユキとの日々が押し込めてあるのだった。外から見るそれは、完全に外の世界と縁切った場所の様に彼には思われるのだった。
けれども今は、別問題だった。部屋にはユキの残した数少ない形身の、黄色いスーツケースと、中に彼女の服が二、三入っているのだった。少し大きいかもしれないけれど、背丈はそれ程違ってはいないだろう。とにかく、彼の小屋にある女物の服と云えば、これしかないのだから仕方なかった。彼はスーツケースの中から、少女に似会いそうなセーターとスラックスを取り出し、大きめの清潔なタオルを一つ取ってベットへ持って行った。少女はベットの上に腕をついて身体を起こそうとしていた。
彼は少女の背に手を廻して手伝ってやった。
「少しは元気が出て来たかい。さあ、これで濡れた髪を拭きなさい。今ミルクを温めてあげよう。それから、君の服濡れていて気持ちが悪いだろう。これ、少し大きいかもしれないが着替えをさい。風邪を引くといけない。向こうの部屋をつかっていいよ。」
彼はミルクを暖める手筈に取りかかった。
「どうもありがとう。私……、でも、悪いわ、これどなたの、私、勝手に使っちゃ……」
「心配いらないよ。どうせもう誰も着てくれる者はいないんだ。死んだ妻のものだよ」とそこまで言って彼はロを閉じた。少女の瞳が彼の眼をじっと見つめており、それが彼の視線と絡み合った。それは数秒間の出来事だったが、彼に何かを語りかけて来るのだった。しかし彼にはそれが何を意味するのか判らない。何故か遠い過去の出来事に関係がありそうでもあり、又それはこれから先の事でもあるかのようだった。そして、ユキの面影が浮かんで来るのだった。
それから少女が口を開いた。
「奥さんはお亡くなりになったの……」
「そう、君が倒れていたその場所でね、君と同じように雪に抱かれて冷たくなっていた。私は今日と同じように猟の帰りで……。本当に君を見つけた時は驚かされたよ、でもその話は後にしょう。さあ、髪を拭いて、着替えておいで」彼はミルクを火にかけた。
少女はユキの服を持って隣の部屋へ入った。彼は一体これからどうすればよいのだろうかと考えた。少女が回復したら、家まで送っていってやらねばならないだろうか。この地方の冬は到来が早いので冬の支度もせねばならないが、しかし単調を彼の生活と異なった新しい生活が待っているようでもあった。とにかく何かが、彼に今までとは違った方向を取らせ始めたのだ。それがとてつもない不幸を呼び寄せるとしても……。
突然、ドアがバタンという大きな音をたてて開いた。彼はそれが余りにも突然で、しかも少女が開くにしては酷く大きな音だったので、驚いて立ち上った。少女がドアのところに立っていた。その顔は怒りに頬がひきつり、眼を丸く開けて、今にも彼に飛びかからんとするかの様にして言った。「あれをどこにやったの?」
「あれって、何だい?」彼には少女の怒りも、少女の尋ねたことも、全く判らなかった。
「隠さないで、タイム……」そこまで言って少女は何かを思い出したのか、口を閉じた。そして彼の眼にもはっきりと判る程、その身体から怒りが退ぞいて行くのがわかった。
「何のことだか私にはよく判らないんだが、どうかしたの、何かなくしたのかい」
「今、今何年なの……」と、少女はさっきとはうって変って、今度は恐れるようにして尋ねた。
だが彼には今度の質問も意味がよく判らなかった。一体少女は何を尋ねているのだろうか。何年か、と少女は聞いた。それはどういう意味だろうか?彼の齢のことを聞いているのだろうか、そうとも思われなかった。
「君の言っていることがよく判らないんたが、もう一回云ってくれないかな」
少女は本当に震えて言った。
「今、何年かって聞いているの……」それから一呼吸おいて、何かを思い出したらしく「戦争が終ったのは何時?」と続けた。
『戦争』と云う言葉を聞いて彼はどうやら少女の云っていることが分りかけて来た。父がいつも彼に話してくれた話の中に『みんな戦争が悪いのだ」と云う言葉を思い出したからである。
「よく判らないけど、それは父が話してくれていた事のことかな、それだったら私が生まれた頃に終ってたらしいよ。だから私は何も知らない。その事については」
少女は失望したように頭をかかえこんで、ドアに寄りかかった。何か一生懸命整理しているかのようだった。彼は少女の側によって肩をたたいてやった。そうすることしか彼にしてやれることは無かったからだ。
「困ったことがあったら相談してくれていいんだよ。もっとも私には何にも判らないことばかりだが、それでも……、いや、はやく着替えて、それからゆっくりと考えた方がいいんじゃないかい?」
その言葉で少女は再び思い出したように、けれども、今度は明らかに諦めの表情を浮かべて聞いた。
「わ、私のベルト、御存知ない?大きなこの位のバックルのついた茶色のベルトを」そう云って彼女は、指でその大きさの四角をつくってみせた。
彼はそんなベルトに見憶えがなかったが、これ以上少女を悲しませるといけないと思って、安心させるように言った。
「それだったら、気がつかなかったけれども、きっと君が倒れた拍子にはずれたんじゃないかな、私はあわてていたんで君だけをかついで運んで来たんだが、きっとあの場所にあるんじゃないかな、明日になれば雪も止むだろう、そうしたら猟に行く時捜してあげよう、きっとあるよ、安心しなさい」
「でも、誰かが持って行くことはないかしら、人でなくとも動物か何かが……」
「大丈夫、この雪だ、それにこの辺は人が通ることはほとんどないんだ。これまで山で人にあうなんて、君もいれて数える程だよ、さあ、さあ、着替えて、ミルクも温たまって来たようだし」
少女はそれで納得したようだった。おとなしく部屋に入って行った。彼はミルクを妻のものだった木彫りのコップに注いで待った。少女は何をあんなに騒いだのだろうか、彼には不思議だった。よく聞けばただのベルトだと云う。でも、女の子なんてそんなものかもしれない。男にはとんと合点のゆかぬような事柄で大騒ぎをする。そう云えばユキもよく彼を困らせたことがあった。今少女が着替えている服だって、スーツケースの中に入っている奴は全部ユキが持って来たものだったが、彼女はいつも口癖の様に、『私が死んだら絶対にこのスーツケースと私の持って来た服だけは捨てないで、あなたが死ぬまで側においてちょうだい。』と言っていたものだ。その時は彼は、縁起でもないと気分を悪くしたものだが、それも女らしい優しさの表現だと思っていたし、だからこそこうしてとっておいたのだが。まさかこんなことに役立つとは思ってもみなかった。
少女が着替えを済まして出て来た。
ユキがそこにいた。いや、少女の姿をしたユキが……。いや、ユキの服を着た少女がそこに立っていた。彼に熱いものがこみ上げて来た。ユキ、何故死んだんだ。私一人をおいて。彼の身体中を悲しみが駆け廻った。それは悔いても決して悔やみ切れるものではなかった。それから彼は落ちつきを取りもどして少女に声をかけた。
「よく似あうよ、さあ、こちらへ来てミルクを飲んで暖たまりなさい。さあここにお坐り」
「どうもありがとう。すっかり御迷惑をかけちゃって、御めんなさい。私、私……」
「いいんだよ。私も話相手が出来てうれしいんだ。こうして囲炉裏を囲んで人と話をするなんて、もう二度と出来ないと思っていた」
「奥さんはいつ頃お亡くなりになったの?あ、こんなこと聞いてはいけないかしら」
「いや、いいんだよ、そうだを、もう十年もたつだろうか」彼は感概探げに、ユキとの楽しかった日々を想い起こし乍ら答えた。
「奥さんはユキって名前だったの……」少女は尋ねるというよりは、反芻するように繰り返した。
「それよりも君は何故あんなところに倒れていたんだい?いや、それより、どうしてこんなところまでやって来たの?まさか、旅行者でもないだろう。家はどこにあるの、お父さんやお母さんはどこにいるの」
「勉強だったの、学校の」
「学校?」彼は聞き返した。『学校』と云う語句は父が話してくれたなかにあったものだった。それは確か子供達を一つ所に集めて色々な事を教える所だったと思う。彼が六つになった頃、父は度々、彼に向って『おまえを学校にやることも出来ないのか』と言ったものだった。だがそれは過去に、彼が生まれるずっと以前、戦争と云うものが起る前にあったものではなかったのか、現在でも学校と云うものがあるのだろうか?
「学校というのは、確か子供達を集めて色々な事を教えてくれるところだと憶えているんだが、今もこの近くにあるのかな」
「ええそうよ、でもこの辺りではないワ、ずぅっと遠いところよ」
「じゃあ、君はどうしてあんな所に倒れていたの?」
と、彼は不思議そうに尋ねた。
少女は黙っていた。夜が流れていった。 .
(つづく)