真理子  藤森 重臣

     敬愛するT・S君へ

 武蔵野の面影を未だその随所に残す小金井公園は、初春の光を顔一杯に受けて、長い冬をじっと耐え抜いてきた木々の莟や新芽が、春の誘いに答えるかのように、先を争って吹きこぼれようとしていた。小鳥のさえずりに曖かさを感じ、土の色にも温和な気持ちが伝わり、空気にもあの刺々しさがとれ丸みを帯びた頃、雑木林に囲まれた小金井公園は、ハイキングや花見に来る客を、首を長くして待ち焦がれていた。国電武蔵小金井の駅より徒
歩二十分の所にある小金井公園は、緑の芝ふが絨毯のように敷き詰められ、その中央には民芸品や、古代、中世の遺品が展示されている郷土館という小さな博物館が建っていて、市民の憩いの場として絶好の環境を提供していた。
 寒の入りとはいえ、時々、名残り惜しそうに吹く北風に、公園内に疎らに点在している人は、はっとして襟を欹てる。そんな中に彼は一人寂しく、失恋の思いを背負ってしょんぼり歩いていた。ほんの一ケ月前迄は、彼女と楽しく過こしていたのに、彼がムードもなく一緒に寝ようと言いだして、嫌がる彼女を無理矢理倒してはみたが、余り彼女が抵抗するので、何もせずに終わってから二人の仲は気まずくなり、それ以来よりを戻せなくなっ
てしまった。今頃、彼女は、男はセックスの事しか頭にないのだろうかという男性不信の念を抱いている事だろう。彼が焦り過ぎたのだろうか、現実は厳しく小説のように旨く行かないものだ。彼の理性を外した態度にも問題はあったろう。然し、あの時は理性もへったくれもなかったのだ。突然むらむらとした気が起こって、無我無中でした事なのだ。離別した女性の感慨に浸っている限り、彼の心にぽっかり開いた傷口は、北風にさらされて永久に癒える事はないだろう。彼は孤独を傍に連れ添って、木々の枝からの洩れ日が斑模様を作っている砂利の散歩道を、漫然とした沈みがちの歩調であてどもなく徘徊していた。
 ふと、人の気配を背後に感じた彼は、後ろを振り向いた。と、そこに女性が立っていた。薄緑のミニスカートにピンク色の、ジャケットを着て、合わせた両手でハンドバックを前に下げ、ぱっちりとしたそれでいて神秘さを漂わせた吸い込まれる程の奥深さのある潤んだ瞳に、笑窪が出来ている小さな口許、肩迄垂れているつややかな黒髪は可愛らしくカールをなし、ぴしっと引き締まった肢体は均衡がとれていて、かと言って女性らしさを失わない可憐性が全身からほとばしり出ている小柄な女性であった。一目見て、彼は別れた彼女より美人だと思った。
「悲しそうね、失恋したんでしょう?」とその女性は言った。
「どうして分るんです?」と自分の心境をずばり見抜かれて驚いて問い直す彼。
「顔に書いてあるわ」
 冗談を真に受けて慌てて片手で顔を擦った彼は、半ば自制しょうとせず、半ば自棄っぱちの気持ちで、この女性の魅力にのめり込んでいった。彼女の名は真理子と言って、彼と同じ東京学芸大学に在学しているとは教えてくれたが、どういう訳か、学年も所属している学科名も住所も明かしてくれなかった。
「どうして学年も学科も教えてくれないのですか?」と彼は尋ねる。
「あなたの過去をとやかく詮索しないから、その代わりに私の現在についても問わないでね」
 彼女に、にべなく言われ、彼は一言も返答出来なかった。それは、無理強いすると、前の彼女の二の舞いを踏んで、この真理子にも嫌われるのではないかと思い、鎮重な態度を取らざるを得ず、真理子に対して彼は自分の我を通す事が出来なかったからだ。
 夕暮れ時迄、二人は芝ふの上に横になったり、郷土館に入ったりして公園内を闊歩して時を過ごした。綿雲のぽっかり浮かぶ西空に夕焼けが真紅の陰影を刻み、それが除々に紫のベールに変化していく、田舎と都会の同居している小金井の街を駅に向かう熱い熟い二人連れ、彼の好みに不思議にもぴったり合った真理子は、いつの間にか頬を彼の肩にもたれ掛けて歩んでいた。彼も優しく自然に真理子の肩を抱いていた。失恋の思いが一変に吹き飛んだ彼の心は、幸福感に浸った春の盛りの青葉がぐんぐん伸びていく洋々たる状態に一挙に変化していった。

 翌日、興味の一かけらも失くした息が許せる講義を聞き終えて教室を出ると、そこに真理子が立っていた。彼の帰りを待っていてくれたのだ。男友達に照れながら別れを告げて、彼は寅理子と一緒に駅に向かった。自分の過去や失恋の体験など真理子に話さなかったのに、彼女の妖精のような光を宿すつぶらな瞳を見つめていると、彼は自分の内部が全部見透かされ、一部始終責理子に通じているのではないかという不安が重く暗く影を投げ掛けて、慌てて視線を彼女から逸らすのだった。
 真理子は不思議な女だ。頭に浮かんだ注文を口に出さぬ内に、彼女は彼の身の回りの事をしてくれる。超能力を持っていて人の心が読めるのかしらと思ってみたが、どうもそうではなさそうである。普通の異性にない何かが秘められている彼女は、娼婦のように寒々しくけばけばしく濃艶に飾りたてする女性でも毛頭なかった。
 それから毎日、授業が終わると必ず真理子は彼の教室の廊下で待っていてくれた。彼は真理子以外の女性とばったり口をきかなくなり、興味も失せていった。其理子以外の女は女としての価値がないという極端な盲目状態に、彼の感情は傾むいていった。何かに熱中すると他の事に目もくれずにつっ走り、自分が軌道を外れた事に後になって気が付いて、悔し涙に暮れ自己嫌悪に陥る。彼は所詮、そんな男だったのである。
 学校の帰り、
「あなた、他の女の人と全然口きかないでしょう?」と真理子が尋ねる。
「うん」と彼は答える。
「駄目よ、そんな事じゃ」
「そうかなあ」と曖味な口調で彼は言う。
「そうよ、いろんな女の人とも付き合わなければいけないわよ」
「そりゃ分っているんだけど………」
「分ってたらちゃんとなさいよ、じめじめした態度は嫌われる元よ。男らしくからっとしてよ」
「分ったよ、分ったよ、からっと話せばいいんだろう、他の人と」
「あら、怒ったのね。御免なさい、そんなつもりじゃなかったのよ」
「いいんだよ、僕の方が悪いのき、実に幸せ者だよ、僕は、君みたいないい子に巡り会えて」
「私も、そう言われて嬉しいわ、どうもありがとう。今度、あなたのアパートに行ってみたいわ、この近くでしょう?」
「うん、駅から十分位の所にあるんだ」
「部屋の広さは?」
「四畳半」
「炊事、洗濯、全部一人でやってるんでしょう、大変ね」
「そうでもないよ。食事作るのが面倒臭くなれば外食するし、眠くなれば炬燵に入ったまま寝ちゃうし」
「あら未だ炬燵出しているの?そんなに寒くないでしょう?」
「うん、仕舞うのが面倒臭いのさ」
「まあ、呆れた!」
 彼女の語調は決して強くはなかった。こうして二人は駅前ターミナルへやって来た。
「ねえ、せめて君の家の電話番号だけでも教えてくれよ」
「それは言わない約束よ、じゃあさようなら」
 そう言って、真理子は雑踏に紛れて駅の改札口に消えて行った。彼は真理子の後姿をまじまじと挑め、完全に見えなくなってからアパートの方へ歩を向けて行った。
 アパートの自分の部屋に帰っても、彼は真理子の事しか念頭になかった。真理子の蜂蜜のように甘ったるいうなじ、すべすべした今にも溶けてしまいそうな健康そのものの小麦色の肌、すんなりと揃った奇麗な足許、人を引きつける魅力のある黒目がちな目許、顔とよく調和している愛くるしい口許、目蓋を閉じても思い浮かべる事が出来る真理子の面影と容姿。真理子を−生離したくない、結婚しょう、苦しい時も楽しい時も人生の好伴侶となって生きて行こう。否、それよりも前に婚約だ。婚約指輪を買おう。然し、高いから止めようかな、それよりプレゼントの方がいい、真理子の欲しがっていた物はえーと、今度聞いてみなければいけないな。
 最近迄、失恋していたとは夢にも思えない彼であった。

 桜の花が咲き綻ろんだ小金井公園は賑やかに花見の客で埋まっていた。子供達の歓声が公園の隅々に充満し家族連れが芝で御弁当を食べ合う風景、黄色い声を立ててバレーをする女学生、心配そうな親の目を抜ってよちよち歩きをする赤子。巻雲が戯れの引っ掻き傷をつけている紺青の空の下、通りでは楽しい音で自動車が走る。暖かい光線に包まれた小金井公園は、春の息吹きのする桜色と、みずみずしい縁に彩られて、陽炎の仄かに昇る中に鮮やかに映えていた。

小金井公園からさほど遠くない彼のアパートに今、真理子と彼は二人で昼御飯を食べていた。学校の授業は午前中で終わり二人で昼食をとろうという事で、彼が自分のアバートに真理子を誘って、二人して食事を作って食べているのだ。
「君の食事は旨いね」と彼は口の中に一杯頬張って言う。
「あら、あなたこそ御世辞が旨いのね」と彼女。
「御世辞じゃないよ・本心だよ。あー旨かった、御馳走様」
「はい、お茶! はい、灰ざら!」
「早いなあ、末だ煙草も出していないのに!」
「多分、煙草を吸うだろうと思って…」と俯く彼女に彼は柔かに、
「そんな悲しそうな顔するなよ、別に非難した訳じゃないんだよ。御免よ」
 「それならばいいのよ」
 つと、彼は立ち上がって窓際に行き、
「ここら辺はいいだろう、静かだし、二階だから暖かいし」
 「えゝそうね」少し上擦んだ声で真理子は答えた。けだるい光が窓から射し込む暖かい春の午後であった。
 煙草を吸いながら、後片付けをする真理子の後ろ姿を見て、彼は色気があるなと思った。何とも言えぬ背部の脹らみ、露に見えるすらっとした脚の曲線美、突きたてのお餅のようなふくらはぎへと彼は目を下ろしていった。
「そんなに私の足を見ないでね」と彼女はいきなり振り返って、微笑を浮かべて言った。その顔にはっと驚く程の性的魅力を感じた彼は真理子に近づき、目と目を合わせてからそのサクランポのような口に軽く接吻をした。そして両手を真理子の背中に回し、今度は熱く強く唇を重ねた。真理子は逆らわず、彼のなすがままにされていた。絡み合った舌で歯茎の裏を撫で回すと、心無しか真理子は体を強ばらせた。

 抱き合ったままで彼は真理子を畳の上にそっと横にして、上衣を脱がせた。彼女は軽い抵抗を試みたが、上から覆い被さる彼の強い力に負け、抵抗するのを諦めたようだった。むっち少と盛少上がったブラジャーの純白が強烈に目を射して、更に一層彼の情炎は高まり、彼の体の一部は膨張を開始した。
 ブラジャーのホックを外すと期待に沿ったふっくらと円熱した豊かな乳房が剥き出しになった。きちんと形の整っているやや上向きの真理子の乳房、その頂上についている今か今かと刈り取りを待っている熟しきった果実の種子のような小さくて愛らしい乳首、その乳首に軽く手を触れる彼、その瞬間真理子は小さくのけ反った。彼は両手を二つの乳房に乗せ撫で始める。その次に乳首を歯で軽く噛み、舌で乳首の周囲を舐め回した。彼女は目を瞑り、ロを無意識に開き、弱い坤き声と伴に、両手の爪を畳に食い込ませて益々のけ反った。彼の男性自身は最早、臨界点に達していた。
 スカートを脱がす段になった時、真理子はブラジャーを外された時よりなお強く反発し、体を捻って彼から逃れようと両手を彼の胸に押し当てて突っ張った。然し、理性をとっく逸脱している彼にとって、なおさら興奮は高潮し、情欲の炎はめらめらと燃え上がったのだった。スカートを脱がされた彼女は遂に彼の力から解放される事を断念し、全身の力を抜いた。
 其白なパンティーの上からも真理子のこんもりとした茂みの状態がおぼろげに伺えた。ズボンを脱ぎながら、彼は片手で真理子のパンティーをずらしていった。除々に霧出される真理子の陰部、乳房同様に成熟しきった女陰は、先刻迄の性感帯への刺激の為にしっぽり濡れていた。真理子の総てが集積されている繊細なおだやかな恥丘、そこに育生する恥毛が、未だ男を知らぬ純真な乙女の恥じらいを示してか、奇妙に絡み合っている。その恥毛の裂け目奥深く、快楽と官能の秘境に彼の充血したペニスは挿入された。オルガスムスの絶頂に達した二人は、幻夢と恍惚の境地に埋没して行った。
 時は自ら溶解し、真赤な日輪がギラギラ照り輝く灼熱の世界、時ばかりか、物質、肉体、精神、総てが溶け合い混入し、雑多な色調がぐるぐる廻る、振動に伴い高揚する回転速度、色彩円板は早瀬の川となり、川は激流に、激流は突如閃光を出して爆発する噴火山へと変貌し、体内の感覚を墳出して轟く大爆音に意識は熔岩の流れと化す。その奔流がやがて緩慢となり、蓄模していたものを全部吐き出した山は力尽き、沈下し始める。後には余震のように覚めやらぬ興奮が一条の尾を引いて残るだけー

 行為が終わった後、真理子は裸のまま畳にうっぶして、肩を波打たせながら両腕に顔を埋めてすすり泣いていた。横で胡座をかいて真理子の泣く姿に見入る彼。
「御免よ」小さな声で彼は言った。
「いいえ、今の事で悲しんではいないの、只、あなたと永久に会う事が出来なくなるかと思うと……」涙声で言う真理子。
「なっ何だって!」思わず彼は身をのり出した。
「白状するわ。今迄、私の住所も電話も学科もあなたに教えなかったわね」
 泣き顔を徐々に持ち上げて彼女は言った。
「うん、僕に隠していたね」
「隠していたんじゃないの、私には住所も学科も何にも無いの」
「一体どういう事なんだ′」
 彼の体をどろどろした戦慄が走った。
「本当は私は人間ではないの。だけど怪物でもないわ。私の正体は潜在意識が生み出したイメージなの」
 「イメージ?」
「そう、あなたは失恋していて、無意識のうちに心の中で理想の女性像を作り上げてしまったのよ。それが私なの。だからあなたの思っていた事は、全部私に分るのは当然、だって私はあなたの一部分なんですものいつもあなたと別れた後は人に見られぬように消えていたのよ」
 真理子の体がうっすらとぼやけたようだった。
「真理子! 嘘だろう、嘘だと言ってくれ!」
 掠れた声で言った彼は、彼女に詰め寄り肩に手を当てた。その真理子の肩は物悲しくも重量感の無いものになっていた。
「いえ、真実なの、イメージだからそんなに長く実体化していられないの、あなたとの行為の結果、私の寿命は急激に減ったのが分るのよ。あなたと純粋な関係でいたかった、そうすればもう少し長くつきあえたのに、でも、あなたが余り可哀そうだったから……… 御免なさいね、もうそろそろ私は消えてしまうわ、がっかりなさらないで、これからもいろんな人と付き合うようにしてね、自分の穀に閉じ込もるのだけは止してね。今迄、とても楽しかったわ、でももう終わり、消えていくの、何も分らなくなってきたわ、じゃあお元気で、お体を大切に、さようなら・・・「真理子!」
 真理子の肩は完全に皮膚の感触でなくなっていた。彼女の性器からは彼のザーメンがうらみがましく陰毛を伝わって零を垂らし、畳の上に白濁の汚みを作っていた。
真理子の裸体を透かして畳の目が簿ぼんやりと浮かび上がり、その裸体は小さな小さな粒子の集合体となって、その一つ一つがきらきらと美しく輝き出した。
「さようなら」
 真理子の声が聞こえたようだった。
 真理子の素粒子のきらめきは次第に鮮度を失い、瞳の部分の神秘的な輝きを残して、総て部屋の空気に同化していった。その日の輝く結晶もいつしか色褪せ到頭透明になり、存在感を無くしていった。真理子の肉体のあった所には、彼女の意識がふんわりと漂っているだけだった。
「さようなら」
 真理子の最後の言葉が彼の耳に凍り付いていた。明るく微笑み掛ける太陽に見守られた四月の小金井の街、そのアパートの一室にいる彼の心に、再び寒波が襲来していた。
               (七二・二・九 完)


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