一九七四年二月十三日の朝  龍田 野平


 その日は雪とともに始まった。真白を世界に飛び散った血が美しい。ひとりの青年が今、この世からの旅立ちの苦痛と戦っている。青年の両の手首からながれでている鮮血が雪を染める。青年は雪の上に仰むけにねてしっかりと天を見つめている。青年は昔を思い起こしていた。(この北大の構内を仲間と歩いている。中央ローンの緑に朝露が光ってきれいだ。いつだろうあれは…)
 青年はうすれていく思考能力を呼びもどそうと必死だった。苦痛は全くない。精神的な苦しさだけが彼を襲う。それはもう帰ってくることのない片道キップの汽車に乗った者にしかわからない苦しさ。
 彼は自分の行為を悔いてはいなかった。それはもう二年もまえから計画されていたことだった。しかしその計画とはあてどもない、きまぐれな風のように、いつやってくるかわからないものだった。しかし今、こうやって横になって初めてそれがあたかも今日のための計画であることを彼は確信していた。もうすぐ日の出だ。彼は日の出をみてから死にたいと思った。(太陽なんて美しくもなんともないものなんだ。焼けただれたかたまりをどうして見ようとしているんだ)突然の死を知らせる人を彼は待たなかった。だからなお太陽がみたかった。日の光の祝福する中で彼は死をむかえたかった。彼は日の出を待っていた。初めてのデートの彼女を待っていた喫茶店で彼は今と同じ気持ちをあじわったことを覚えていた。(約束の時間より三〇分も早くきて、一分ごとに時計を見ていたっけ。きっと彼女はきてくれるだろうという確信はあった。でも…)今、彼は太陽が約束の時間にくるだろうかどうかを心配していた。やにわにあたりがうっすらとしらんできたのに気がついた。もう太陽はのぼってきたのだ。彼はしっかりと目をこらし、日の光のあたっているニレの木々を横目づかいに見た。北海道の冬は、すべてのものを雪というベールにつつんでしまう。あのニレの木も夏のおもかげはなく、白髪の老人のようにさびしく立っている。だがそのさびしさに勇気をあたえようと太陽はまた夜の世界からやってきた。そして今、又、太陽はこの世の征服者として、父として、神として立ちはだかっているのだ。
 彼はしあわせだった。雪の朝、だれもいない構内に人間が造ったのではないものたちに囲まれて彼は死ねるのだと思った。決して偽わることのないものたちをそばに彼は、本当の自分をさらけだそうとしている。本当の自分は、いつもいつもかくれていた。あるときは、顔のかげに、あるときは、体のかげに、あるときは言葉のかげに…。彼は思っている。この世に正しいことがないように、正直なんてないことを。いつも、そこにあるものは装いだけなのだ。
 彼はまた昔を思いだそうとした。美しい昔を。過去のすべては正当化され美化され、すべてがやさしくなるのだ。だから彼は過去が好きなのだ。過去には悪人もいなく罪人もいないのだ。美しい思い出が次から次へと浮んでくるのだ。しかし、それらは混沌とした泥の中の蓮の花だった。彼の頭の中をめぐる思いはことごとく泥の中にうづまり、ついにはその面影さえも消してしまいそうになる。彼は首をこらして、頭の中の映像をはっきりさせようとする。そして、どんなわずかを思い出ものがすまいとして焦点をあわせようとする。その結果、ようやく見つけだしたもの。それは場末の酒場でみつけた女の姿だった。その女を彼はよく知らなかった。ただ一度、その店に行ったことがあった。彼はもっとよくその女のことを思い出そうとした。カウンターにたっていたその女。ただ一夜の話相手に、嘘か本当かわからない身上話を聞かされた女。その女に、親はいなかった。養父母の間で、しかも貧乏のどん底にあったというその女。そのうら悲しいエピソードを聞くともなく聞いた彼。そして、同情などしなかった彼が、女を前に自分の敗北をみとめてしまった。彼にあたえられなかったものは貧困。そして得たものはあまえ。彼には女の語る身上話を、まじめに聞く現実はもちあわせていなかった。しかし、いつも彼の心の奥底には、それに対する不安があった。彼には、食えなかった時代がなかった。明日の米を心配する生活はなかった。だからこそ、高校を中退してホステスになった彼女のさびしさは通じない。歌謡曲の文句としか聞きようのないこの現実を彼は率直に正直に受けようと努力した。しかし、それは夢でしかなく、映画でしかない。彼は、この死の直前でさえ、それが理解できない。彼は泣くこともできなかった。そんな自分が無性に悲しくなった。あの女…。
 彼は今、いのっている。あの女が幸せにくらせる日が来ることを、そして、嘘か本当かわからないそんな話をまにうける自分を笑っている。
 彼はもう一度、ニレの木を見た。そこには朝の光を受けた雪の結晶、赤い屋根をもつサイロ。牧場の棚。教養の校舎。体育館。テニスコート。
 彼は死期のせまってきたのを感じた。まだ目ははっきり見える。だが、迎えの車がもうそこまで降りたっているのを彼は知っていた。サンド・マンが彼の目に砂をかける。彼はあえて抵抗しないでおこうと思っていた。だが、今になって彼はやっておかなくてはならない幾つかのことを思い出した。彼は笑って自分の軽率さを悔いた。気持ちはものすごくよかった。もう、ただ眠たいたけだった。彼は、大きなあくびをひとつしてそのまま眠りについた。
 彼は、いきをきらしてたちどまった。まえを走っていた乗用車が、突然飛び出してきた猫をひいてしまったのだ。彼はこわごわひかれた猫を見た。内臓のはみでた猫は、そんなに苦しそうではなかった.ぼんやりまわりをみたり、目をつむったりしていた。彼にはもうこの猫が助からないということがわかっていた。でも、彼はその猫をかわいそうだとは思わなかった。なぜって、猫が悪いのだから。彼は冬のトレーニングのため毎朝このコースを走っているがこの猫に会ったのは初めてだった。車の中から人が出てきて、ひいた猫をうさんくさそうに眺めている。彼はその運転手を見た。運転手は手を頭にやりながら、近づいてきた。彼と運転手は猫のそばまできてその臨終のようすをうかがった。その時、猫はその輝く大きな目をみひらいて大きなあくびをひとつした。そしてそれが、その猫が行なった最期の行為であった。  end


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