あかね 清水 美恵子
敬愛いたしております
皆川正夫様に 恋心をこめて
新居萄子は、小さな農園をもっていた。勿論、彼女の父が農園主であることを考えあわせれば、当然なのであるが、十七才の誕生祝いに父がくれた特別なtものなのだ。
農園には一本、太い径が緑を貫いており、路傍に銀杏を配し、遠くからでもその所在を明らかにしてくれていた。
その径のほぼ中央あたりに、小高く盛り上がった所があり、丘と呼ぶにはあまりにも、ささやかなものであったが萄子はそれを夕陽の丘と呼んだ。とりたててそう呼ぶ理由などなかったが、子供の頃、そこに登って見た夕陽が綺麗だと思ったからに他ならなかった。
萄子は、仔牛の為に玉萄黍を植えていた。もうひと月もすれば、それは程良く熟すはずである。萄子は日々の暮れつ方、玉萄黍に囲まれた草地に腰を下し、もの思いにふけるのが常であった。だが、萄子はおおよその女の子がおちいっている甘い感傷に浸れなかった。
七月には不向きな黒づんだ枯れ葉が目の前をよぎっていった。
彼女には、二つ年上の許婚者がいた。それが彼女の、十七歳という光を消えさせ、寂しい感じの女の子に仕立てていた。別に彼女が望んだ事でもないし、父がとりきめた事でもなかった。
品川正夫と言いその父は勢力家でこの地の商業、財政を思うように牛耳っていた。親の甘やかしが正夫をことさら手のつけられない暴れ者にし、粗野で我が儘にさせていた。いつからかそんな彼が、萄子に目をつけていたかは、知らないが、欲しい物は幼い時から我がものにしていた正夫だ、無理矢理親をくどき落して萄子の父に圧力をかけたにちがいなかった。
父はその圧力に抗う事を知らず、萄子が高校を出るまで結婚は待ってもらいたいとたのむのが、せいぜいであった。そして、もはや半年後には高校を卒業しなければならなかった。
萄子は、そのような正夫の生臭い獣のような情欲が、ふと自分のまわりにじわじわとしめつけるように、まとわりつくのを感じて、ゾクッと身を震わせた。
陽はもう山の端にすっぼり隠れて萄子の顔が、ぼうと蒼白く闇に浮んでいた。
翌日も彼女は夕陽の丘に来た。いつもと違って何となく楽しい。高校では、新しく転任して来た先生の話で、もちきりだった。東京から来たとの事で、明るさの内に楚々たる風情を隠した美しい女だった。
意外に男子生徒だけでなく女生徒にも人気があった。何しろ、寄るとさわるとその話だ。葡子は、いっしょに転校して来た先生の弟だという少年に何か心ひかれるものを感じていた。
少年はたまたま萄子と同じクラスになり、席もそう遠くはなかった。時折、少年の横顔をチラッ、チラッと盗み視していたが、そのうち少年と眼がばったりと合ってしまい思わずほおが、桜色に染ってしまっていた。
少年はにこりと笑い、その微笑は心通うものを感じさせた。胸さわざはするし、心がキユーと縮まるようで顔を伏せてしまった。
萄子は傍らのかやつり草を一本摘み取りロにくわえるとクックッとふくみ笑いをした。寂しい笑いだった。
陽があかね色になった時、葡子は腰を上げた。その時ふと眼の隅でキラリと紅い輝きが見えたような気がして目をこらしてみた。
夕陽の光を受けて、表面に出た玉萄黍の粒がキラキラと、まるで雲母片のように時としてルピーのように透き通って見える。
でも、玉萄黍に紅い実なんてあったかしら。
筍子はさらに表皮を少しむいてみると、内から同じような粒が綺麗を歯並をみせて透き通って輝いていた。
しばらく、その不思議さにうたれて、じっと見とれていたが、やがてその紅い粒がひとつとして同じ紅色を呈していない事に気がついた。
赤く輝いているもの、どんより赤黒いもの、目のさめるような深紅、紅の色さえさだかでない黒紫。
もう少し良く見ようとして、暮れかかる夕陽にかざして、その玉軍黍に手を触れた時、赤黒い粒のひとつが欠けて、ほとっと落ちた。その事に不吉なものを感じた荀子は父の待つ暖かい家へと逃げるように帰っていった。
翌朝、作爺の所から父に迎えが来た。なにやら昨夜来から急に容体がおかしくなり危篤状態が続いていると言うのだ。父はとりあえずと言いながら朝食も食べずに、飛び出して行った。筍子には、心臓をドキッと締めつけられるものがあり、そのまま表にかけ出すと、真直夕陽の丘に登っていった。
昨日のあれは悪い事の前兆だったのよ、そうしたのは私。何だか、恐しい事が起きてしまいそう。
夕辺、落した粒はすぐにも見つかった。昨日よりも大分色が失せてはいたがまだ紅色は呈している。鋭い後悔の念を感じ、無駄とは思ったが、もとの欠けた所にはめ込んでみると、難なくすっぽりとその場に納って見る間に昨日の如き色合にもどった。あっと声にならない声を挙げると、後も見ないで、丘を駆け降りていった。
不思議な事もあるものだねえと正午頃帰って来た父が言った。荀子は学校を休んだのだ。
医者はもう時間の問題だとさじを投げていたのに、今日になったら作爺の奴、見る見る血の気をとりもどして今じゃピンピンしているじゃないか。
父は何度もくどくどとひとつ事を繰り返し、口に泡をたてて言っていた。いつもならうんざりとしてしまう彼女だが、今日だけは何かホッとして父の言葉に耳を傾けていた。
おや、筍子。何だか顔色が悪いようだね、真蒼じゃないか。
ううん、何でもないのよ。
躯の内に暖かさが、よみがえって来た。
数日もたつと、少年は荀子を見てニッコリと笑いかけて来るようになった。そんな時、荀子はあわててあらぬ方を視るふりをするのだ。少年は所在なさそうに寂しく目を膝の上に落している。
私は……私はねえと、荀子は心の中で大きく叫ぶのだけれども、顔はまだそっぽを向いたまま。
陽が中天から西にはづれた頃、荀子は銀杏の間を縫うようにして歩いていた。背中に少年の眼を感じながら…
ひらり、ひらりと踊るように歩を進め、心がいつになく激しいリズムを刻んでいたが、かえって快よくそれを楽しんでいた。やがて夕陽の丘に来ると傍らの玉荀黍畑に飛び込んで身を伏せ少年の来るのを待った。
案の状、少年は目に戸惑いを浮べて玉厨黍を眺めていたが、荀子が入っていったとおぼしき畑へ足を踏み入れていった。
だが、彼は矢庭に足首を握られて、どうとばかりに、そこに倒れてしまった。荀子は少年の足が、目の前に来た時そうするつもりはなかったのに、その足首をとらえてしまっていた。彼の手は暖かくやわらかいものを把んでいた。荀子のほほと少年のほほは、まさにくっつかんばかりだったし、彼の手の下のやわらかいものが、荀子の躯と解って、真赤になって手を引いた。
何故、あんな事をしたんだろう。
荀子の方が驚き、言いようもない恥らいで一杯だった。
玉荀黍畑の中で疑視合ったままの二人は、やがて笑い出し少年が先に口を切った。
その、何です。君が僕の心を把んで離さないものですから、今日は君のを僕が……
華やかな笑い声が、玉荀黍の中で聞え、雲雀が小首を傾けた。二人は何年来もの親しい友のように陽気に声をたてて笑いあった。そして友から、男と女に変っていった。
そうだわ、貴方に素醸しいものを、お見せするわ。荀子は、少年を紅い玉荀黍のある畑へ連れていって、件の玉荀黍を見せたものだった。
まさか、本当なの、それ
少年は物珍らしげに、紅い粒の列を眺めていた。彼はしばらくの間、荀子の眼をのぞきこんでいたが、本当なんだねと、ニッコリ笑った。
この色とりどりの糸がついているのは、どうして
少年が指した。荀子は、この数日間、粒の状態やら色具合から、おうよその人の見当がついていた。それを色絹糸で、その目印としていた。少年はほほ打合せと言う顔をしてみせた。
これが貴方なの。これが、私 黄色の糸を指し示し、次に青糸を示してみせた。
この血のように、寒々しい色の糸は、誰の……
私の最も嫌いな人よ
荀子は、はき捨てるように言った。夕闇は、二人の知らない内に、押寄せて来た。
今日は、少年が休んでいた。
どうしたのかしら・‥…
荀子はロに出して言ってみた。これじゃあ、まるで世話女房と心の内で、舌を出してみせた。陽は大部、傾むいていた。玉葡黍に囲まれて、腰を下す。
荀子は一瞬、真蒼になり、立ち上がった。
黄色の糸のついた玉荀黍の粒が、消え失せて、ポッカリと空洞が明いていた。
とたんに、荀子は後から抱き締められ、首筋に生臭い息がかかった。死にもの狂いにあばれて、その手にかみつき、やっと腕からのがれて自由になった。
貴方だったのね、黄色の糸の…
その先を手で別して、正夫は情欲に燃えた目で、荀子をねめつけた。荀子は、救いを求めるかのように、玉荀黍を見た。ニヤッと笑い、ふてぶてしくその先を続けた。
…粒は俺がもらっといた。勿論、丁重にしてね。時に俺の許婚者さん。話は昨日の事でさ、俺はたまたま君をドライブにさそおうと思って来てみたのさ。聞けば、まだ帰ってこない、多分玉荀黍畑と言われ、なあに、車で行くには及ばん、銀杏並木のお散歩も何々乙じゃねえかと勇んで来りゃあ畑の中で、ちんちんもがもがおしゃりこしゃりこって案配、そうさ、お楽しみの最中だったじゃないか。
正夫の眼には、青白い狂暴の光が、あふれていた。荀子は正夫の言いようもない下卑た口調に、たまらない嫌悪感を覚え顔をそむけた。
へへへ……あいつも相当おめでたいお坊ちゃんだぜ。お前さんの、あんな甘ちょろい夢みたいな話を真に受けて、…ははは…いいお笑い草だ。
あの時、俺がどんな思いだったか、解るかい。俺が隠れているのも知らず、仲の良い所をたっぷり見せつけさせていただかして…そうとも俺の未来の花嫁さんがよ。
つばを傍へ吐いて、一歩荀子に近づいた。
へっ、だが俺はそれ程馬鹿じゃねえんだぜ。どうせ、俺の妻になる女だ、何も急ぐことはねえ。なあ、お前さんの夢をゆっくり壊してから、ものにすりゃあ、それでいいことだ。お望みなら今からだっていいがね。
正夫の大きな体は、いつの間にか荀子の退路を断っていた。彼女はその時に本能的な恐怖を感じた。逃げられない。逃場を失った鼠でさえ、このように哀れではなかったろう。正夫は近づきながらゆっくりとポケットから手を出し、その手を荀子の目の前でちらちらさせた。
黄色の糸だけが、鮮やかに目に映った。
やめてっ!と荀子が叫ぶのと、正夫の指の間から真赤を液体が、したたり落ちるのと同時であった。
正夫は予想外の効果に満足の笑みを浮べて真白気に血の気の失せた荀子の様子を見るのだった。
その急激な動きは流石に正夫も止めることはできなかった。荀子は紅い玉荀黍から粒をもぎとり逃げようとした。彼女の躯はたくましい正夫の腕につかせそその時から荀子は何の抗いも見せなかった。
正夫は荀子のブラウスに手を掛けるや力まかせに引きちぎり、スカートをむしり取ったが、彼女は蒼白い顔で空を見つめるだけで、体中の力を抜いていた。
やがて荀子の体から一切の布片をうばいさると狂ったように草原に押し倒した。
なあ、俺と楽しく遊ぼうじゃないか。そのうち、お前の方から俺にしがみついて来るさ。正夫は、残忍な笑いをほおに残して顔を近づけて来た。
荀子は玉荀黍をひとつ口に含むと思い切り奥歯で、かみつぶした。
なにしろ目の前が真赤になったことだけは覚えている。それが今まさに、沈まんとしている夕陽のせいなのか、荀子の体の上にまとわりついている、なんとも形容のしにくいどろどろにつぶれた苺シロップの様なもののせいなのかは知らない。
今や荀子の肉体は、どこかしこも深紅に輝いていた。そのままの姿勢でしばらく沈せんとする夕陽を見つめていたが、その眼に涙が宿り、ほおを伝って夕陽の丘に落ちていった。
葡子は青い糸のついた紅い粒を口に含んだ。