「綾の鼓」 雑感 夢枕 獏

 「綾の鼓」について、それも主として創作に関して、私的な感想などを述べてみようと思う。
 その前に、「宇宙塵」の代表者、柴野氏からの手紙が手元にあるので、それを全文掲載しようと思う。この手紙は、氏から飯田会員宛におくられたもので、私が飯田会員から借り受けたものである。

 「綾の鼓」拝読、有難うございました。なかなか高レベルで、立派なものと思います。
 高橋恵美子氏「それでも俺は知らない」の筆力に感心しました。欲をいえば、もうひとつ現実とのつながり、文学的象徴としての真実ではなく、ナマの、未来がどうしてこうなのかという、素朴な意味での現実性が出てほしい気がしました。私にとっては、SFというのは、どうしてもそういうものという気がするのです。
 月刊の連絡誌を出しておられる由ですが、できたら併せて紹介(宇宙塵レビュー欄で)したいので、拝見できると幸いです。
 本誌のどこにも号数が書いていないようですが、これ一冊に終らせず、つづけて頂きたいと思います。
 簡単ながらこれにて 六月十日 柴野 拓美

 さて、「綾の鼓」であるが、全体的に見てまとまりにかけるきらいはあるが、ファンジンとしては柴野氏の言う「なかなか高レベルで、立派なもの」であると思う。もっとも、氏がその基準をどこにおくのかはわからぬが。
 また、氏も指摘しておられたが、やはり本の号数は、なんらかの形でほしい。
 最初に島内氏の「綾の鼓」と題された作品がのっているが、どうもわけがわからぬ。聞いて見れば連載とのことなので、なるほどわけがわからぬはずである。どこかに連載であることを示す記述がほしい。
 本文を読んでみたのだが どうも重みにかけるような気がする。古文調≠ェ完全に作者のものになっていないせいであろうか。三人の主要人物、青山小三郎、水木源之進、小萩の作中での位置づけ、綾の鼓との関係をもっとしっかりしたものにしたい。それらのことにもっとページを費やして書きこんでから筆を進めて行くべきではなかろうか。
 同氏の作品で「貌」というのがあるが、私はこの方を買いたい。こぢんまりとではあるが、ずっとまとまっているのである。ショート・ショートとあるが、もっと長くも短かくもできる作品と思われる。いわゆる最後の一行になってストンと落ちのあるものとはちがい、読者の思考は放物線をえがいてラストへ入って行く。文全体からくる奇妙なムードは、氏の持ち味であろう。だが、決っして傑作というものではなく、読者はそのムードにのりきれない。今ひとつもりあがりにかける。点線の多いのも気になる。
 もう少し書きこんでほしいとも思うのだが、そうしては氏のムードがこわれてしまうような気もするのである。
 ところで、あなたはドンデンカカリアというのを御存知ですか。

 さて、同ぺージに滝見氏の「電話」という作品がある。この作品は、僕がバカなのかさっぱりわからない。どなたか説明してほしいものである。
 池田氏によると
「説明など云々する性質のものではない」
とのことであるが、あまり良い作品とは思わない。

 藤森氏は、「犬」、「夢」、「古跡発掘」という、三っつのショート・ショートをのせている。三っつとも、文章には気を使って書いている。島内氏にも言えることだが、<書ける>人である。だが、どうも作品が三っつとも弱いのである。
 「犬」について言えば、オチが途中でわかってしまうのだ。いっそのこと、もっと徹底的に「・・・犬になっていた。といってもさして私は驚かなかった」というナンセンスを追求した方がよかった。
 いつぞやの宇宙気流という雑誌に、「僕とおとうさんがカレイになった話」というのがあったが・・・どなたか読んでいたらうれしいんだけれど・・・ああいったナンセンスさがもっとほしい。
 また、「夢」という作品を分解してみると、「夢と現実が逆であった」という、ごく単ジュンなことになる。
このオチも途中でわかってしまうのだ。もうひとひねりほしい。
 「古跡発掘」は、会話だけでできあがっている。これはもちろん作者の意図したものであろうが、残念ながらその効果があがってない。冗漫である。文章にして、もっと切りつめたほうがよほど良いものになったと思われる。
 文明の力≠皮肉るあたりも平凡で、「自分達の作った武器によって自らの首をしめて滅んでしまった」も同様である。
 「素朴な生活」と「文明生活」との対比をもっと効果的にすれば、この作品はもっと生きてくるはずである。
 気のせいか、三っつともどこかで読んだような作品である。
「夜の鏡」。たどたどしいが、僕の好きな作品である。作者は飯田恭生氏であるが この同じ人が「はらつづみ」にせんずり≠フショート・ショートを書いたとは、ちょいと信じられない。
 言葉の細かい使いかたに問題がのこるが、ある気分≠ヘ作り出していると思うのである。へタをすれば、その気分≠セけが浮きあがり、まるっきり白けてしまう恐れもあるのだが、どうにか最後までもたせたのはやはりエラい。読ませるものは持っている。
「その笑い声が この薄暗い所では、いやに虚ろに響いたからだった」は、効果的である。平凡ではあるけれども書くコツは身につけている。そのコツにおぼれないように願いたいものである。

 ヨダン「幻想小説とSF」はおもしろかった。

 「ミキ」作品群なんば 36、74、112
 自筆のファックスである。
 感情移入がしにくく 読んでいくと作者は読者をおいて、かってに自分の内宇宙≠ヨと進んでいってしまう。
日記をぬき出したような作品である。もっと整理されるべきであろう。
 個人的には、中では74が一番良いできであろう。特に弟−節。

 「夢」。山田女子の作品
 その2、その5、その6、その12が印象に残った。
 マンガを書いているそうで、そのためかどうか、作品が視覚的でわかりやすい。特にその2などは美しい。その4で、「太った友人」 「やせた友人」と単純化した表現がおもしろく、その7に出てくる「ふちの青いすき透ったものが・・・どぶの中から出て来る」などは好きな一節である。
 なぜ、その12を印象に残ったものの中に加えたのか、というと、鉄砲の弾が「コルクのせんだった」から。
 やはり、すべて女性的な作品で、それがともすれば作品的な弱さにもつながって思えるのは、僕が封建的だからだろうか。
 とにかく、彼女が脱会したのは、残念なことである。

 「ポクは英雄なんだ」。川田氏の作品である。
 「私小説的である」とか、「ショジカオル的である」とかの意見が多々出たが、私は、「金曜パック的」と評した三木氏の意見に同感である。的を射ているように思う。
 さて、これはまあとにかく楽しい作品である。SF仲間を対象とした、いわゆるファンジンらしい作品なのだ。この作品について、細かいことをいちいち指摘するのは適当でないだろう。高校生にありがちな、変に深劾ぶった所がないのは中学生的とも言える。これはほめているのである。いやみがなく好感が持てた。
 だが、最後が尻つぼみなのはおしい。あまりにも簡単にアルタイル人がボクを逃がしてくれたのもうなづけない。めんどくさくでもなったのだろうか。

 さて、高橋女子の「それでも俺は知らない」である。僕は意線的に一番最後にこの作品を持ってきた。種々の意味で、一番問題のあった作品だからだ。
 発表するのは初めて、とのことらしいが、まず僕はその「筆力に感心」した。これは技術的な小手先のうまさなどというものに対してではない。むしろ技術的にはまだ不完全な段階にあると言ってよい。ある文節か前後関係なくあらわれる箇所、時間的に合わぬ言葉の使用、構成の乱雑さ、矛盾、ひとりがてん、etcと、多くの問題がある。(だが、ここではそれらの細かい指摘はさけることにする)にもかかわらず、僕を「ウーム」とうならせるのは何だろう。それは、彼女の文章からうかがえる、彼女の<書く>姿勢の真摯さにあると思われるのである。
 最初にこの作品を読んだ時の感想は、とにかく疲れた、ということだった。気を持たせ、今に何かおこると思わせておいて、結局そのままラストへ行ってしまった。わけがわからなかった。
 特に「それでも俺は知らない」という一見斬新な題が、物語とどういう関係があるのか、ということが。
 僕はもう一度読み、またもう一度読んだ。つごう四度にわたって読みかえし、僕が理解したのは次のようなことだった。
場所 おそらくは地球
時代 おそらくは未来
主人公 俺(人間であるらしい)
 俺は生まれた時から「壁」の内で、サンぺーなるロボットに育てられ、監視されている。これはみな、時おりここへやってくる「あの人達」のしくんだことらしい。
 「壁」は光をさえぎる働きをし、「あの人達」は光がきらいらしい。
 十八になった俺は、外へ出た。サンぺーも俺をとめない。やがて、俺は自分と同じ境遇下にある女に出会う。彼女は「あの人達」を憎んでいる。また、恐がって壁の外へ出ようとしない。
 俺は彼女を後に、壁の外へ足を踏み出すのだった。

 きわめて簡略なストーリーであるが、どうだろう。これだけ読むとこれはまるで初期のクラークの書きそうな長編の、イントロの部分のようではないか。
 主人公の行く手に待つものは?何故主人公はそのような境遇にあるのか?何故十八になると外へ出れるのか?あの人達とは何ものだろう?人類の過去に、いったい何があったのか?etc.
 僕がそっくりいただいて、書いてみたい気もする。だが、残念なことに、この物語はこれで終りなのである。疑問符ばかりを残して あちらの世界で始まり、あちらの世界で終ってしまうのである。
 柴野氏の言われる「・・・現実とのつながり、文学的象徴としての真実ではなく、ナマの、未来がどうしてこうなったのかという、素朴な意味での現実性が出てほしい・・・」とは、まさにここにかかってくるのである。彼女は意識的に説明をさけたのかも知れない。彼女がほんとうに書きたかったのは、あのような状況そのものだったのかも知れない。その出発点は、小説というより詩に近いものなのかも知れない。
 だが、作品において説明をはぶくということは、彼女の頭のうちでも説明をはぶくということになってはいけないのである。彼女が書かなかった、諸々の事象についての説明は彼女の頭の中では明確になされてなければならないのである。それだけではない。作者は、その説明をはぶいたことを、読者に作品の上で充分納得させねばならない。それだけの準備を作中において、行なわなければならない。説明をはぶくような重大なことは、気分ではなく、計算の上になされるべきだと思うのである。
 たとえば「リスの・・・」という作品がある。この作品における説明の排除というものは、充分な計算の上に行なわれたものである。それでも充分なフィクションとしてのリアリティを持ち、いっそうの迫力を持って読者にせまってくるのである。
 十六Pで、彼女が「・・・ロウ・・・」の説明をしなかったことなどは、大きな失策といってよい。いっそのこと、使わない方がよかったのかも知れないのだ。
 おそらく彼女は 自分が作り出した状況に対する説明(細かい部分的な箇所も含めて)をすることに 自信がなかったのではあるまいか。気づかねうちにいなおっていたのではあるまいか。
 先に僕は、高橋女史の作品は欠点があるにしろどこかすてがたい所があり、「それは、彼女の文車からうかがえる、彼女の<書く>姿勢の真摯さにある」と書いた。このことをもう少し別の角度から見てみよう)
 たとえば、川田氏の、「ポクは英雄なんだ」とくらぺてみると.彼女の作品の持っている性質が明確になると思う。
 この二作品はまったく対照的である。とりあえず、この二作品を<プロジン的><ファンジン的>と、それぞれ呼ぶことにする。たとえぱ 高橋氏の場合にはまず最初に書きたい世界なり、状況なりがあって、彼女の意識はそこである程度の制約をうけることになる。つまり、自分の描きたい世界を作りあげるのに、ある事柄を書くことが、適当であるかどうかの選択をすることになる。ところが川田氏の作品では そこはもっと自由なのである。自分の学校のことやテレビのこと、誰々の作品は読んだの読まないのと<楽屋おち>が次々に出てくる。
 結果として、川田氏の作品は、SFの、しかもファンジンの紙面以外の所では通用しにくく、高橋氏の作品はファンジンの紙面以外の場所でも通用し得ることになる。
 別の言い方をすれば、川田氏が作品中に意図したものは、活字として表わされたことそのままであるが、高橋氏のはそれだけではないと、いうことなのである。
 幸いにも、比較するのに格好の対照的な作品があったからこのようなことが言えたのであるが、両者の中間的な作品も世の中にはあるのであり、世に出る作品の多くが、その中問的な作品に、含まれることを、ここに明記しておく。
 さて、<書く>ということの原点にたちかえってみるに、高橋氏の作品には、何を書きたいかということは明確ではないけれど、それを書こうという意識は充分あるのである。しかし、文学というものの性質を考えてみるに、ある事柄に対して、「それはこれこれこういうものだ」と作者の内にはっきりしている時、つまり理屈として明確に語れるのならば、それは文学にする必要などないのである。理屈では語れぬ部分があるからこそ文学というものが出て来るのであり、その<理屈では語れぬ部分>を語るための手法として「SF」などが出てくるのだと思うのである。
 話をもどそう。
 高橋氏の作品の場合、その<理屈では語れぬ部分>を、うまく語れたかというと、そうでもないが、作中に流れるムードはある程度統一されている。
 ラスト、主人公は外の世界へと向っていく。その歩みには希望があり、力強いものがあり、ひとつの生の肯定があるのだが、ほんとうにそうなのだろうか、と考えてしまう。
 文など背のびして書いているのだが、そのわりにはいやみがなく、安定している。<俺>や<女>や<あの人達>との開係にもっと枚数を使い、作品全体をもっと整理したい。
 この作品に、まざれもない本物のSFの匂いがするように感じられるのは、僕の気のまよいだろうか。

 柴野氏のこと。
 あと十分しかないので急いで書くが、柴野氏のいう、「SFとはどうしてもそういうもの」とはどういうことなのだろう。反論を加えたいのだが、これだけで判断するのはやはり危険である。
 氏にもう少し詳しく説明してほしいものである。


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