青春 淡い恋  藤森 重臣

 彼女は窓の外をぼんやり見つめていた。特にどこを見るともなく、窓の桟に頬杖をして、雨降りでしっとり濡れた街角を只何とはなしに無表情に眺めていた。通りでは振袖や着物できれいに着飾った男女が、傘をさし笑い合いながらせかせか、年始回りに去って行く。
 今年の正月は雨続き、うっとうしい気分で彼女は滅入っていた。彼女を憂うつにさせているのは、果たして天候のせい丈なのだろうか。否、違う。彼が去ってしまったのだ。彼女から離れてしまったのだ。彼との交際は半年にも満たない短い期間で、まるで桜花の様に咲いたかと思ったらすぐ散ってしまった。彼女は彼が好きだった。けれども今は解らない。余りにダメージが大き過ぎたから、感覚がマヒしたみたいに嫌い≠ニいう感情が、沸き上がって来ない。
 「御馳走が冷めちまうよ、早くお食べ。それに済んじまったことを、くよくよ悔いたって始まらないよ。今年からは気持ちを一新させて仕事しなくちゃ駄目だよ。さあ元気を出して、正月だというのに何だろうね、去年の正月はこんなじゃなかったのに、全く陰気臭くて・・・。
 傍の炬燵で丸くなっている母が待ち切れずにいさめ、それが愚痴へと変わっていった。母も以前は、こんなではなかったのに。かび臭い部屋の炬燵の上には御屠蘇料理が小じんまりと並べられ、雑煮はとっくに湯気を昇らすのを止めていた。
 「いいの、母さんは黙ってて頂だい」
 彼女は母を振り向かず、食卓の上を盗み見てぶっきらぼうに答えた。再び外を見やった彼女には、雨足が幾分速くなった気がした。
 彼女は中学を卒業するとすぐ小さな洋裁店に就職した。店員の数は一桁で、店の仕事は大会社からの下請けが主であった。最初は辛かった。日中は誤って指に針をさして痛いのを我慢して裁縫したり、危げな裁断をしてみたり、夜は夜で皆が帰った後、一人で後片付けをしなければならなかった。それに少しでも失策をしでかすと、年上の女店員からの辛辣な悪口や嫌味を浴びせかけられ、おまけにお給金は初任給のままちっとも昇給する兆を見せなかった。何度、この仕事を止めようかと思った事だろう。だがいつも思い留まっていた。それは母の介添えでこの店に勤められるようになったから、止めると母に済まない気がするからだった。
 彼女の母は病弱の身であった。以前は気丈夫な母だったのに、父親が悩溢血で倒れ看病の甲斐なくあの世の人となった時、余程ショックが大きかったのだろう、過労が一度にどっと出て、それ以来寝たきりの生活を続けるようになってしまった。一人娘の彼女は働くより他に道は無かった。朝眠い目を擦り擦り朝食を口に頑張り、満員電卓に揺られてやっと店に辿り着く。夜は帰りの電車の中で眠りこけ、毎晩遅く帰宅しても母は起きていて、夕飯を一緒に食べ、疲れきった体をぐったり横にして、そのまま眠ってしまう毎日の連続であった。昨日も明日もない。彼女には今日という日しか存在していなかった。
 彼女は母の前では決して弱音を吐かなかったが、母はそれとなく察していたようであった。どんなに辛くても彼女は母の前では一度も涙を見せなかった。その代わり蒲団を拘ったり誰れも見ていない所では忍び泣いていた。本当に苦しかった。辛かった。店でとても嫌な事があると、目を真赤に腫らす迄泣くのもしばしばであった。目が赤いまま翌日、店に出て、
 「あら、あんた馬鹿に目が赤いじゃないの。解った、泣いてたんでしょう」
 「違うわよ、目にごみが入った丈よ」
 「嘘、本当は泣いてたんでしょう」
 「違うわよ、絶対に、」
 「嘘!嘘!」
 「適います!」
 「ほら泣き虫が怒ったわよ」
 「泣き虫しゃないわよ」
 「なんです お店に来るなり口喧嘩なんかして、早く仕事に取り掛かりなさい」
 店長の声で口論は止められた。
 昼休みになれは仲間同志で、男の人の話や服装やファッションの事など、へちゃくちゃおしゃべりをする。彼女にとってそんな話は 夢物語に過ぎなかった。なぜなら、洋服など滅多に買い直した事がなかったから。
 彼女と母のいる家はオンポロアパートの一室。四畳半と炊事場のついた薄暗い部屋に、親子二人で決して愉快とも楽しくとも朗らかともなく、淡々と睦ましく暮らしているのだった。
 夕食時が彼女の唯一の楽しみであった。母との会話がぽつりぽつり始まる。母はあい変わらず父の事を言うが、彼女はもう慣れっこになった。
 「父さんが生きていたら、こんな事にはならなかったのに、お前にばかし苦労をかけちまって済まないねえ。母さんはすっかり体が弱くなっちまって」
 「平気よ。もう慣れたんだから、母さんこそ元の元気な体に戻らなくちゃ。」
 「そうだね、早く元気にならなくちゃいけないね。だけどお前、仕事の面でどんな嫌な事があっても決して挫けもゃいけないよ。だけど、どうしても店が嫌なら、母さんの事はどうでもいいから心配せずに、別の所に勤め直してもいいんだよ」
 「ううん、母さん、私今の仕事続けるわ。絶対止めはしないわ、母さんの為にも」
 「無理しなくてもいいんだよ」
 「無理じゃないわ」
 「そうかい、それでも・・」
 俺の言葉は半信半疑のまま窄んで行き、その先は聞こえなかった。語らう二人の屋根の上、月の光がしんみり降り注いでいた。
 洋裁店に就職してから、三年目の梅雨が過ぎ本格的な夏を迎えようとしていた頃、彼女は同じ店の女友達に誘われて、ある日曜日、一緒にボーリング場に連れて行かれた。ピンの絶えず倒れる音と若者達のざわめきと熱気の蒸し返りで、ちょっぴり圧倒された彼女は、初めての場所に異和感を覚え、なかなか馴染めなかった。
 女友達と一緒に順番を待っていると、彼女の友達の人が偶然に学校時代のクラスメートという男の子を見つけて、彼女達のいる所に連れて来た。彼女の友達は根も葉もないおかしな事を言い合っては笑い合い、男の子の面白い話に彼女も混じって騒ぎ合った。彼は彼女より二才年上の格別ハンサムとは言えないが、表向きは感じのいい背のスラッとした男の子で、笑うと子供っぽい所が充分残っている童顔に片えくぼが出来る溌剌とした顔立ちで、身なりも決してだらしないとは言えぬ容姿をしていた。
 彼女達の番が回って来た。彼女はボーリングをやるのは生まれて初めてである。旨く投げられるかどうか解らない。そんな彼女を彼は丁寧に、又、ユーモアたっぷりにコーチするのだった。最初は、ガターばかりで一本も倒せない時もあったが、さすがにスペアをとると飛び上がって喜び、彼女は普段の日と似ても似つかぬ程に女友達と一緒になって大いにはしゃぎ合った。
 君は暗い感じがしたけど、案外そうじゃないんだね」と彼に言われた彼女は増々有頂点になった。彼がポールを転がす時は、拍手をして声援を送った。ボーリングの旨い彼は、ふざけるのも旨く、可笑しなフォームで彼女達を楽しませる事も忘れはしなかった。
 若人達はボーリング場で青春を思いっきり発散させていた。そして、そこにはドラマがあった。ガールハントに来る者、得点を上げようと目指す者、余暇を玩ぶ者、皆、目的は異なりはするが、ボーリング場という特設舞台で精一杯演技する。ストライクを出して大喜びする者、一本もピンに触れず、ガーターに落ち込む者。一人一人の顔形と未来が異なるのと同一に、ドラマも個人によって進行状況が違う。更にドラマの結末は、演技している者ですら誰れも知らない。努力しても台本を知らぬが為に、本人の期待に反して裏目に出してしまう人は、その人の所為だと言い切れるだろうか。
 場内は歓声と必死な瞳の緊張が異常なまでに融合して張ち切れんばかりに、彼女もその一部分を占めてした。
 彼とのゲームは終了し、彼に別れを告げた彼女は、黄昏に包まれた帰路へと急ぐ中、友達と別れた後でも彼の動作が目に暁き付き、思いは彼の上に馳せるのだった。
と同時に、一頻りはしゃいだ丈に、自分の惨めさが切々と心を悩ます。楽しい数時間であった。仕事に就いてから日頃の憂いも苦しみも忘れた一番愉快な一時であった。それでは今迄生きてきた彼女は一体何だったのだろう。誰れの為でもない。しこりが胸に残る・・・。 「きょう始めてボーリングやってね、とっても面白かったわ」
 夕食時、母との食卓において、彼女はボーリング場での事を話し出した。否、話さずにはいられなかった。この楽しい思い出を一人占めにしたくなかった。初めから一部始終話しだした。
 「それで、その男の人はとってもおかしいの、あんな面白い人に会ったの初めてだわ。おまけにボーリングはとても上手なの、ストライクは五回も連続して出したわ。頑張ってって言うと、彼にやっと笑って、えくぼか出来て、子供っぽくなるの。それか何とも言えずに感じがいいの」
 「そうかい、それは良かったね」
 母の返事は、彼女にとって以外な程に冷淡に響いた。
 夜は犬の遠吠えに連れて、ものうげに更けていった。夏が近づいていた。

 真昼の火照りが残る夕方、一日の勤めを終えようとする夕腸を背に受けて、彼女は街角に佇んでいた。久し振りに仕事が早く引けたので、さっさと後片付けを済ませ、彼の働いていると聞く小さな印刷工場の近くで、彼の現われるのを期待しているのだ。別に事前に彼と約束は取り交わしてはいない。只、彼と会えたらいいなあと思っているのだ。
 心の奥では、一度しか会った事のない彼を待つなんていうみっともない事をして、自尊心が許さないし、恥ずかしくないのかという気持ちが渦巻き、羞恥心が逆巻いているのが、明確な意識となって形づけられているのに、身は心と反対の行動に出てしまう。然し、行動している事が彼女の本来なのかもしれない。表通りは家路を急ぐ人達が続く。車の列も続く。どこかでビル工事をしている釘を打ち込むドリルの音が、彼女の心を一層強く圧迫し、彼女の心臓も又、早鐘を打ち鳴らすのだった。
 暫く待った後、工場から出て来る彼を目撃した。彼女のいる方向が駅への帰り道であるので、彼女の方に段々と近づいて来る。しかも彼は一人で。彼女はどうして良いのか解らなかった。とっさに駅の方に向き直り、ゆっくり歩き出した。最初に声を掛けたのは、彼女に追いついた彼の方だった。
 「おや、君はいつかのボーリング場で会った、どうしてここにで」
 「ちょっと用事があったので」そう言いながら彼女は、難なく誤魔化す自分に半ば驚いた。普段はとてもこんな嘘はつけないのに。
 「これから用事に?」
 「いえ、もう済んだんです。」照れながら彼女は首を振った。
 「これから家に帰るんですか?」
 「えゝ」
 「もし、よかったら一緒にお茶でも」
 お定まりの文句であった。彼女はそれで嬉しかった。男の人からこんな言葉を言われるのは初めてであったから。彼女は誘われるままに異性と始めて喫茶店に入り、そこでの情緒的な雰頗気に浸った。
 喫茶店、そこは恋人達の憩いの場である。静かな語らい、笑い、僅かに薄暗い中にもほんのり明るい火が灯る。心が和み、甘い音楽がその橋渡しをする。芝居の途中の休憩時に緊張感がほぐれる如く。終末の解らぬ芝居の役者もほっとする。
 彼女は喫茶店に溶け込み、彼の話が弾むにつれて、彼女ものって家庭的ムードになって来る。小一時間ばかり話して、彼女と彼は次の日曜日に会う約束を駅のホームで交わし、左と右に暇を告げて夕闇迫る街を,電車に乗って帰って行った。
 「母さん、きょうねほら、この前ボーリング場に行ったでしょう。その時に知り合った男の人と偶然会ってね、茶店に入って話して来ちゃったの」
 夕飯の膳で、少し嘘を含めて彼女は母に話し出した。
 「彼は小さな印刷工場で働いていてね、将来は工場長になるつもりなんですって。だから一生懸命働くんですって、でも私の月給の方が低いからもっと月給を上げてもらえって言うのよ」
 「そうかい、楽しかったのかい」
 母は喜んではくれたが 心の底から嬉しがっていそうもなかった。母は未だ彼女を静かに傍観する丈に留まっていた。
 彼女はどうやら初恋を経験しだしたのではないかと感じ出した。初恋とはこんなものなのだろうか。・・・一度会う丈で好きになる。恋とはそんなに簡単に軽薄に出来るのだろうか。彼女には解らなかった。
 夏の夜空に、半月が心配そうな顔を斜めに傾げ、流れ行く雲に時々顔をしかめつつ、その薄光をアパートに投じていた。夜は未だ長かった。

 最初は控え目に十日に一回位ずつ彼とデートをしていたのが、夏もやっと峠を越して少し過し安くなった頃、徐々に二人の会う回数が増えていった。仕事は依然として辛かったが、どんな苦しい仕事でも、これが終われば彼と会う事が出来ると思うと、日頃の疲れもすっ飛ぶ位、嬉しさが吹き出してくるのだった。
 夜の公園を一人で散歩している最中、睡眠不足で疲労している筈なのに、ちっとも苦痛は感じなかった。二人は様々な話をした。学校時代の事、愛情とか結婚とか自分達の仕事の話とか。彼女も話すが半分以上は彼が一方的にしゃべった。それでも彼女は満足であった。心の支えが出来たのだから、どんな気にくわぬ事が起こっても彼に打ち開ければ、うっぷんは晴れるのではなかろうか、彼はよく冗談を言うが、本当は真面目な人だし、親身になって相談に応じてくれるに違いないと彼女は思った。だからこそ彼の下らないおかしい話にも、心から笑う事が出来たのだ。
 以前の彼女には無かったものが生まれた。それは喜びである。彼女はそれを見つけた、彼の内に。もう辛くても泣いたりはしない。笑って行こう。彼と別れる時は名残り惜しいけれども、今度又、会えるのだ。それ迄、待てない事はない。「グッバイ」いつも彼はそう言って去って行く。その後姿が何とも云えず男っぽくて、さすがの彼女も暫し、しみじみ見とれるのだった。はっと気がつき、顔をほんのり赤くして家の方角へ歩き始める。
 彼と別れた後、電車賃が足りなくて、途中から電車で二つの駅の区間を歩いて家まで帰った日もあった。その日、夜遅く帰宅しても母は何の詮索もしなかった。母の状態は以前と比較して良くも悪くもなっていず、たまに起きて編み物をする程度であった。
 彼女は色々な話題やら打ち開け話を彼にしたが、母の事丈は言わなかった。病気で寝ている母がいるなんて、彼に言ったら彼が心配するに違いないし、それに何かうしろめたい気も手伝って、父親の事も含め両親の話は極力避けていた。彼もしいて彼女の家迄、行きたいと言いださなかった。
 彼がデートに来れない時、彼女は悲しんで翌日はむっつり黙りこくり、彼は自分が嫌いになったのではないかと怪しんだりして、その日の仕事は捗らず、女友達は彼女の様子を見て単純だと言って笑い、彼女は女友達が自分の事を総て知っているのかしらと思ってはみたものの、次の日彼に会えた時、昨日の自分の状態が恥ずかしく思えてならなかった。
 秋は末だその満腔を人々の前に現わさぬ残暑の日、人は連れだって映画を見に行った。
 映画館の中はほとんどの席が埋まって、ここにも沢山の人が広い空間でーつの事・・・映画を見る事で集まっている。大勢の中で彼女は一種の不安を感じた。開演のブザーと伴に場内のライトは消え、彼女の心は押し拉がれた様に暗くなった。彼の顔が黒くなり、孤独感が急に込み上げた彼女は 必死に画面を見つめ続けた。
 大学生の男女が学生結婚をし、苦い生活をなめ、若妻が突然白血病で死んでいくという儚い愛の物語愛とは決して後悔しないこと″というテーマの、ラブストーリー。
 映画は脚本に基づいて制作され、台本通りに俳優が演ずる。台本を知らぬ役者は、とちっても台本にその通りに書かれてあるのでその役者の所為ではなかろう。自分に不都合に出来ているからと言って、台本作家を恨んではいけない。恨んでも台本を知らぬ役者は泣き寝入りに終る丈。台本を知らぬ役者の演技、それは人生である。
 映画館を出て、車の騒音と人ごみの入り乱れる通りを二人して歩きながら、彼女は彼に質問した。
 「ねえ、あなたキスした事ある?」
 「否、ないよ、どうして急に開くんだい?」
 「だつてキスってみんなしてるでしょぅ?」
 「外国じゃ映画で解る通りやってるけど、日本じゃどうかな。」
 「あら、あなたキスしたいと思わないの?」
 「今のところはね」
 「どうして?」
 「どうしてって、今はそんな時じゃないし、興味本位でしたくはないよ」
 「興味本位じゃ駄目なの?」
 「駄目さ」
 「解らないわ」彼女は我知らず語調が強くなった。
 「何事も興床本位じゃ続かないって事さ」
 二人の間を通行人が掻き分けて行ったのでそれきり話は続かなくなった。
 その晩、母と二人きりの水入らずの夕げの時間.彼女は母に話し出した。
 「きょう彼と映画を見に行ったのよ。とても良かったわ。彼って面白い人なんだけど、少し怒りっぽくなるのだけどそんな時の彼も好きだわ」
 「そぅかい、お前も、もう十八だもんね。好きな人の一人や二人いても、ちっともおかしかないよ。でも軽弾みな事をしちゃいけないよ。後でとんだ取り返しのつかない事になるかもしれないからね」
 「そんな事は絶対しないわ」彼女はおかずをつつきながら答えた。
 「それじゃいいけどね。上辺丈で相手の男を判断しちゃいけないよ。男というのは一般的に女の前では仮面を被りたがるものだからね」
 「あら、彼は違うわ。だっていろんな事話すんですもの。私の事も気を付かってくれるわ」
 「それなら言う事はないけど、只、気掛かりだったんでね」
 「いいのよ、母さんわかってるわ」
 いつも母の方が折れるのだった。それきり親子は彼について進んで話そうとしなかった。
 月が雨雲に隠れ嵐が来る前兆のような気配と、暗く恐ろしい程の静寂に包まれた、早く涼しさが欲しい蒸さ苦しい早秋の晩であった。

 木枯Lと伴に冬の来訪で、秋もその片溝を引き袈かれるような夜、交際を始めて五ヶ月を過ぎた二人は彼女の家の付近を歩いていた。
 彼が突然、口を開いた。
 「君はずっと前、俺に『キスしたいと思わない』って聞いた事があったろう?」
 「ええ」
 「今、もう一度その質問をする気はないか?」
 「えっ?」
 「『キスして』って俺に言わないのかい?」
 あんな事を聞いて以来、彼女は彼と今迄一度もキスをする経験を持たなかった。勿論、肉体関係も結んでいない。二人の問は、淡白なあっさりした、それでいて彼女には何か暖かいものを感ずる間柄であった。
 「どうしてそんな事聞くの?」今迄の二人の関係を振り返り、寒気が急に全身を砥めた感触を抱いた彼女は彼の言い方に少し反感を持って答えた。
 「君はキスしてもらいたいんだろう?」
 「そんな、急に言われたって嫌だわ」
 彼女は彼の気持ちが解らなくなった。消極的ではあるがキスの申し込みなのである。何故、これ迄、彼は彼女にキスしてくれなかったのだろう。本当は彼は彼女を好いていなかったのだろうか。彼女はそう思うと恐ろしくなった。否、そんな事は絶対にない。彼女はそれを頭から追い出す為に話題を変えようと思い、ふと自分の家に彼を連れて来て母に紹介したら、と考えついた。今迄、親の事を隠していたのがやはりいけない事なのだろうか。こちらが隠しだてすれば、相手だって打ち開けてくれない。そうなれば二人の仲は発展せず崩療してしまうだろう。彼女の家に彼を連れて来ても彼は嫌な顔を見せないだろうし、母も喜ぶだろう。随分長く付き合っているのに、未だ一度も母に紹介していない。この機会を逃がしたらいつ母に会わせる事が出来るやら。
 電柱に取り付いている裸電球が、道路に明るい丸い輪を描いている所から折れて、袋小路に入って突きあたった所が、彼女のアパートである。壁はシミだらけ、所々剥げたり、変色している汚ないアパート。玄関の戸をギシギシ開け、これ又、ミシミシする暗くて狭い廊下を、天井の蜘蛛の巣がつかないように背を屈めて歩き、左側の二番目の戸が、彼女と彼女の母の住む部屋。
 戸を開けるとむっと湿っ気の多い空気が鼻をさす。畳は綻び、窓ガラスは破れた個所に紙が張ってあり、天井はススで黒く、そこから電球が一つぶっきらぼうにぶらさがっていた。昼間は太腸の光も満足にさし込まぬ、そんな四畳半の部屋の片隅に彼女の母が横になっていた。
母は戸の開く音で娘が帰って来たものと思い、微笑を湛えていつもの様に迎えようと起き上がったが、入口に立っている彼女以外の人と目が会うと、とたん顔を引き締めてしまった。
 彼は部屋を、めぐり見渡すや何を思ったか、それ以上入ろうとせず、無言のままぐるりと向きを変えると彼女を見向きもせずに、廊下をきしめきながら飛び出して行った。彼女も慌てて彼の後を追い、やっと駅前の踏切で電車通過で止まっている彼に追いついた。電車の音に負けじと彼女は彼に一気に捲くし立てた。段々と涙声になりながら。
 「ねえ、私が嫌いになったの? 私が病弱の母と二人きりで汚ないアパートに住んでいたから? 母の事を隠していたから?、それとも私が中学しか出ていないからなの? あなたとのデートにいつも同じワンピースしか着て行かなかったから? 化粧もしないで無雑作に髪を束ねていたから? 乏しい話題であなたを退屈させたから? それともそれとも今さっき、恥しさであなたとのロづけを拒んだから?」
 踏み切りが上がり、彼に追いつき追いつき話したが、彼の顔をまともに見据える事は出来なかった。彼の姿がぼやけてきた。
 「お前なんか好きじゃなかったんだ。お前の女友達からお前のおやじが死んでいると開いたんで、かわいそうだと思って付き合ってやったのさ。あんな所に住んでいるとは思わなかったよ」
 彼女にとって聞きたくない文句だった。彼女はその場に立ち疎み、冬枯れ迫まる街中を遠のいて行く彼の後姿を、茫然と見送る丈であった。興昧本位で彼は彼女と付き合ったのか、だからキスもしてくれなかったのか。彼女の内側で一挙に大音響を立てて崩れ落ちたものがあった。母は父を失い、今又、彼女は彼を・・・。
 彼の姿が角を曲がって視野から消えた時、彼女は家に向かって無我夢中で駆け出していた。彼女の総てを知ってもらおうと思ってやった事なのに。馬鹿々々どうしてどうして彼なんかを好きに!彼は私を好きじやなかったんだ。好きじやなかったんだ。始めから始めから。
 踏み切りの警報機が頭の中でがんがん反響した。
 部屋に舞い戻るなり、一人きりでさっきと同じかっこうをしている母の胸元に飛びすがり、堪えきれずにわっと泣き伏した。母の前で流した始めての涙。しゃくり上げて泣く彼女の黒髪を母のしわくちゃな細いざらざらした手が静かに触れていた。そして彼女の頬に、母の涙の一雫がキラキラ輝きながら滑り落ちるのを、彼女は半狂乱の薄れ行く意識の中で、はっきりと感ずるのだった。
 北風に吹かれて、夜空の星も号泣していた。


戻る