まっ暗な殺意  田久保 哲を

 Sは作家である。割りと売れている。といっても彼に才能があるわけではない。秘密がひとつあった。彼は夢を記録する装置を持っていた。寝るとレーダーのようなものが頭の上にくるようになっていて、そこからコードが何体か出てビデオコーダーにつながっていた。
 頭に機具を取り付ける必要がないので、眠むりに支障をきたすことがなく、快適に眠ることができた。Sは寝ては夢を見、起きてはビデオを見て文章にするという毎日を送っている。夢に色があるときはビデオの映像にも色がついたし、もちろん音も再生できたので仕事は楽だった。こうしてできた文章こそがSの作品であった。彼の作品は彼の夢であり、彼の欲望に他ならなかった。夢の中ではなんでもできたり欲望がどんどん昇華できた。欲求不満で満ちている現代人に、大衆向き読み物として、うけるのは当然だった。夢にはチグハグな箇所がいろいろあったが、Sは夢の通りを文章にしたり世間では、チグハグなところが新傾向だと評判だった。
 ただ少しの文章力が必要なだけの仕事だった。今まではたしかにそうだった。だが、今になって彼はもうひとつ必要なものがあったのに気づいた。それは絶えず自分が欲求不満の状態でなければならないということだった。昔のSはたしかに欲求不満の塊だったが、一応の名声を得た今は、Sにできないことはほとんどなかった。欲求は満たされていた。欲求が満たされて見る夢には、奇抜さなんぞ微塵もなかったし、どことなくしらけていた。大衆の望んでいるフィーリングがなかった。小説の売れ行きはだんだんと下向線をたどってした。売れなくなればまた欲求不満になって面白い夢を見そうだったが、一度覚えた贅沢の感覚はからだからはなれなかった。
 自分に見込みがないと悟ったSは、誰か夢を見るための人間を雇うことにした。幾日か街を歩いて、昔の自分のような男をさがした。いや、昔の彼どころか、まるで骨と皮だけの男だった。男は菊地といった。 Sは郊外にある自邸の隅の古い小屋に男を住まわせた。もちろん彼は菊地に夢を見させそれを自分で文章にした。Sの作品は以前にも増して売れるようになった。それでも菊地の待遇はひどかった。住まいは小屋ですきまだらけ。給料が安いので生活もまったく粗末だった。もっとも菊地は自分が何をするために雇われたのかほんとうのところを知らなかった。雇われるとき下男にするといわれてそれを信じていたので毎日下男らしい仕事をしていた。Sの小説の人気が持続するために、菊地には常に欲求不満でいてもらわねばならなかった。Sは菊地にずいぶんとつらくあたった。
 夏の暑い日だった。 Sはいつものように菊地の夢を見ていた。すると、ブーンとうなる音に続して『殺してやる、殺してやる』という菊地の声がスピーカーから流れ、バァンと音がすると、それまでまっ暗だった画面が、突然はじけるように真紅になった。血の色だった。Sはこれでは小説にならないわい と考えただけでさして気にもしなかった。さいわいその日は、他の夢に面白ものがあって短編をひとつものにできた。ところが次の日も『殺してやる、殺してやる』という声が流れた。前日とまったく同じ夢だった。次の日も同じ夢があった。最後の赤も色がいやにどぎつかった。
 Sは気になりだした。夢は欲求の現われである。自分の経験からいえば明らかだ、『殺してやる』というのは俺のことではなかろうか。奴にはずいぶんひどいことをさせてきた。俺ばっかり儲けて、奴は前のままのみじめな暮しだ。ひょっとしたら俺が奴の夢で稼いでいるのに気がついたのではなかろうか。そうだとすれば奴が腹を立てるのは当然だ。
 Sは気の小さな男だった。前々から、菊地をただ同然で使うのを気にしていた。しかし、二日も続けて俺を殺す夢を見るようでは、おそらく決心してしまったのだろう、とSは考えた。そう思うと、あとは殺られるより先に殺るより他に手はなかった。
 菊地は二週間に一度、車で街まで買い物に行くことになっていた。きょうがちょうどその日だった。Sはブレーキオイルのパイプに小さな爆弾をしかけた。時限爆弾である。二十分ほどいったところに大きなカーブがある。カーブの少し前でパイプに穴が開けばプレーキがきかずに、車はガードレールを乗り越えて谷底へまっさかさまだ。途中、信号はないから時間に狂いが出ることもない、おまけに外は雨、もれたオイルを洗い流すにはちょうどいい。仕掛は小さいから、あとで調べられても解るはずがない。菊地は出かけて行った。なんとなくさえない顔をしていた。
 翌日、Sは菊地の死について、参考人として取り調べを受けた。係官の応侍は丁寧で、Sはすぐに引きき揚げることができた。どうやら、警察では菊地の死を雨によるスリップ事故と断定したらしかった。
 Sは新しい雇人を捜す前に菊地の持ち物を整理しようとした。日記帳があった。彼は好奇心にかられてぺ一ジをめくった。
 七月〇日
  暑くてたまらない。夜になると蚊がでて困まる。この頃は蚊に襲われる夢まで見る。夢にでてくるのが、恐ろしくでかいやつだ、うなりをたてて飛んでくる。たたきつぶそうにも夢の中はまっ暗で相手が見えない。そうしてるうちにそいつが、俺の腕に食いつく。血を吸われた俺は頭へきて、『殺してやる、殺してやる』って叫んで腕にとまっている蚊を思いっきりひっぱたく。すると蚊の腹は音をたてて裂けて、腹の中にあった血が飛び散り、目の前がまっ赤になる。こんな夢が、二、三日続いている。こんなことでは夜寝られやしない・・・。


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