木より降りて告げよ  夢枕 獏

 いつのことかは知らぬ。とにかく、大きな青い月が、奇しく森の木々を凍りつかせていた時と聞く。
 森の中、一番高い樫の木の梢、月光を浴びて全身を水につかったように銀色に輝かせながら、一匹の猿が月へ行こうと思いたった。彼はするりと枝を降りると、独り長老の洞窟へと向った。
 湿ったカピ臭い匂いのする洞窟だった。長老は穴の奥の青黒いコケの生えに岩の上に座し、ちびた頭の紅い眼だけを、生き物のように動かしていた。
 「おれは月へ行きたい」と彼は言った。「その方法が知りたいのだ」
 長老の眼が止まり、紅い眼球がふたつ、じっと彼の眼をのぞきこんだ。
 やがて、ひくい、こもりた声で
 「それはむづかしいことだ・・・」と長老は言った。
 「おおいなる<太陽の力>を秘めた<白い船>に乗って、最後は<鷲>にまたがって舞い降りるしか方法はない」
 「それにはどうしたら良いのだ」
 「わしにもわからぬ。ただ・・・」と長老は続ける。「千の河を渡り、千の谷を過ぎ、千の山を越えた所にある楽園を支配するという<賢者>にならわかるかも知れぬ」
 彼はその夜のうちに旅だった。

 千の河を渡り、千の谷を過ぎ、千の山を越え、ある日のこと、彼はなんとも言えぬ美しい土地に着いた。とりどりの花が咲き乱れ、種々の果実が枝もたわわに、芳しい匂いを凛わせている。
 ここがその楽園だな″
 と、彼は思った。その時である。
 「まよえる者よ、汝は何故この地に至りしや」
 ふいに背後で声がするではないか。彼がふりむくと、そこに独りの老人が立っていた。
 額を清潔な純白の髪が被い、両頬に沿って長く垂れ下がっている。はかり知れぬ程高齢であるらしい眼は英智に充ち、慈愛にあふれた眼差は、優しく彼を押し包んでいた。この老人があの<賢者>でなくて誰であろう。
 彼は、すっかりわけを語った。
 「なるほど・・・。その願い、かなわぬわけでもない」と、老人は眼をふせた。「が、しかし(と老人は眼をあけて)それは、今の汝にはかなわぬ」
 「なぜですか」
 「蟻を知っておるであろう。その蟻がいくらがんばっても、汝ら猿のように行動できるか。それと同じく、汝が猿である限り、<太陽の力>を秘めた<白い船>や<鷲>の翼は得られぬであろう」
 「ではあなたは、私に猿であることをやめろと」
 「然り」
 「あの、くったくのない生活に別れを告げろと」
 「然り」
 「それにはどうすれば?」
 「汝は木から降りればよい」
 「私は何になるのです」
 「<人間>になるのだ」
 「そうすれば私は月に行けますか」
 老人は、一瞬悲しみのよぎった眼をまぶたでふさぐと静かに首をふった。
 「残念ながら、汝が代にはかなわぬ」
 「では」彼はゆっくり言った。「私の子供の代には?」
 「いいや」
 「二世代のちには?」
 「いいや。三世代、いや何十世代何百世代のちにもむりりであろう」
 しばらくの沈黙があった。
 「どうだ、それでも汝は月へ行こうとするか」
 彼は黙って眼をつむっていた。
 「生きることに目的を持つ生活・・・死は安らぎから苦痛となり、その恐怖は汝が種族の血に潜み、夜な夜な汝らをおそうであろう。どうだ、それでも行くか」
 「行きます」彼は言った。「たとえ何億年かかろうと、いつか私の子孫が、あの月をその足の下に踏むのなら、私は<人間>となります」
 「よかろう」賢者はうなづいた。「汝は、これから地上に生活する者となれ。つたや木の枝のかわりに道具を持つ者となれ。生きる苦しみを背負う者となれ」
 彼は感激して言った。
 「<賢者>よ、尊いお方よ。木から私が降り立つこの一歩は、私にとっては小いさな一歩ですが、猿にとっては、<人間>への大きな飛躍の一歩となるでしょう」
 <賢者>は苦笑しながら言った。
 「汝には、この<エデン>に住む許可をあたえる。また、ひとりの女ともめあわせてしんぜよう」
 その女の名は<イヴ>といった。


戻る