その2 

 「綾の鼓」を作るときに、相棒として働いてくれたのが加藤雅康氏です。加藤雅康氏は、創刊当時は東海大学に在学中の学生で、確か原子力工学のゼミにいました。バリバリの理系の人間です。本人に会うと理系の雰囲気は微塵も無く、金が無くとも何とかなるわって言う高等遊民のタイプです。
 鎌倉の雪ノ下と言う、丁度、鶴岡八幡宮の真裏あたりの超、由緒のある処に住んでいました。横浜に在住のうさおから見ると、生き方が途轍もなく湘南ボーイで、かつ良い処のお坊ちゃん、丸出しでした。
 羨ましかったですよ。何をやるにも湘南ぽくて。湘南ボーイは、何か行動が突飛で、それがまた鎌倉っぽい。鎌倉に彼のポン友がいて、Hondaのクーペ77を仲良く2台購入し、湘南の海岸道路を真夜中のカーチェイスで遊んでいました。暴走族じゃありません。徒党は組みません。ジェームスディーンの映画の様に、チキンレースまがいの楽しみ方をしていたんです。「気違いピエロ」は彼の好きな映画です。
 ある時、彼が車に乗っていないので不審に思い問いただすと、鎌倉のギャップのある坂を結構な速度でジャンプし、着地の時にサスペンションを折ってお釈迦にしたらしい。
 鎌倉の住宅街の道は、車一台がやっとで、前方から車が来ないことを祈りながら、うさおなんかは、たらたらと走っていました。彼は違います。その狭い道を後ろを振り返りながら、60km/h以上のスピードでバックし、前の車をやり過ごします。湘南ボーイじゃんね。
 彼を紹介したのは中鉢憲二郎氏です。彼はうさおと同じ大学の電気通信工学科にいました。漫画を描くのが好きで、今までに書き溜めた分厚い原稿を見せてくれました。
 大学の新聞部で挿絵を描いていたうさおを、漫画同人誌に誘ってくれたのです。無類の自転車好きで、そのお陰で痔持ちで苦労もしていました。その同人誌の会に加藤氏もいました。山田美根子さんもいました。彼女は高校時代からプロ漫画家としてデビューしていましたので別格ですね。この中鉢氏と山田さんは、その後、華燭の典を挙げられました。
 話を加藤氏に戻すと、うさおは映画も作りたいと思い、加藤氏を巻き込んで役者を探すことになります。この時に、まだ高校生だった三木康夫氏がいるので、「綾の鼓」を作った後だったのでしょう。あの当時ですから、フジフィルム社製の8mm撮影機を買って鎌倉でロケをしました。どうも今思うと、うさおは円谷プロ並みの特撮を撮りたかったのではないでしょうか。二重写しやクレジット・タイトルの見せ方など、凝りに凝っていました。うさおは建築科の学生ですから、レタリングはお手の物です。
 当時加藤氏が連れてきた女優さん達は、どう過ごされているのでしょう。皆さん、OLさんでしたね。
 加藤氏のお父さんは凄い人で、公務員の傍ら、絵を描いていました。彼の家に遊びに行ったときに、美術者年鑑を見せられ、号あたり〇円と言う評価値のデータを見せられました。その額の高さに驚愕です。そのお父さんのDNAのお陰でしょうか、彼は漫画家を目指し数年の間、漫画家のアシスタント生活を送ります。
 面白おかしく暮らしていたようで、地道なうさおの生活とは大違い、でもその後、公務員になっちゃいましたけどね。
※Honda クーペ77、1300ccのアルミ製空冷エンジンを積んだ、小型乗用車でクーペは2枚扉のものを指していた。100馬力で880kgの車重を走らせるので、パワーウェイトレシオは当時としてはかなりのもので、走りは1600cc相当と言われました。でも、燃費が悪いのも有名で値段も高かった。


No.2 表紙 タイトルのレタリングも手書き

No.2 裏表紙 「裸の女だ!」持ち歩けないと不評だった

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