夜の鏡  飯田 恭生

夢野久作フウに(夜読めば効果的)

 ……夜。しとしと降る雨の音が聞こえてくる。空は真っ黒で地上のすべてを覆いかぷせるように迫り、その魔の手を逃れるかのように人家は明かりを消して闇の中に潜み、物音一つ立てずにうずくまっている。いつも鳴きわめく犬達も、今夜は小屋の中に入り込み、不安そうな眼で外を見つめ、耳を神経質にピクッ、ピクッと動かすだけで沈黙を保っている。今、この暗闇の世界を支配しているのは、ただ、シト、シト、シトという雨の音だけ。
 その暗い空の下にある、木々に囲まれた一軒屋。そこに一人の男が住んでいた。男は部屋の中でポツンと一人、眠られずに何度も何度も寝返りを打っていた。・・・寝苦しい夜だった。部屋には小さな暗い豆電球が一つついて、彼の顔を死人のように生気なく浮かび上がらせている。
 彼はいくつか寝返りを打った後、今度は仰向けになって天井を見つめた。
 薄暗い天井に、木目の模様が見える。彼は白眼をギョロギョロと動かした。木目はある所では川になり、ある所では渦を巻いて天井を流れて行く。
 ふとあることに気が付き、彼はさらに眼をギョロリ、ギョロリと動かした。
 ・・・木目が動いている。木目の川が動いている!
 彼の見ている前で模様が動き出した。川はとんどん流れて行き、盛んに渦を巻く。グルグル、グルグル渦を巻く。そして息をもつけず見ていると、だんだん何かの形を取り始めてきた。・・・渦巻はこちらをにらみつけるつり上がった眼、そして一つは振り乱した髪。そして・・・そこにエタイのしれぬパケモノの顔が浮かび上がってきた。やがて大きく裂けたロが彼を飲み込もうとしているのに彼は気がついた。
 彼は恐ろしさに、ギユッと眼をつぷり、亀のように布団の中に首を縮めた。・・・そして、しばらくして、布団のすみから片目だけを天井に走らせてみる。いつの間にかあの顔は消え、ただ木目の模様だけがあった。
 フーッと大きく息をつき、布団から首を出す。そして今度こそ眠ろうと思うが、イヤに頭が冴えて眠れない。それに眼をつぶっても、そこらに姿を隠しているパケモノが忍び寄って来て、その鋭い牙で心臓を突き刺されるような気がして、すぐに眼を開いてしまう。それに加えて、何か喉をしめつけられるようなひどく不快な気分がする。
 もうタマラなくなってきた。ガパッとはね起きた。こんなことなら起きている方がましだった。彼は電灯の切り換えスィッチのひもを引っ張って、もっと部屋を明かるくして一晩中起きていようと思った。彼がそのヒモに触れようとした時、その時・・・フッといじわるに豆電球が消え、あたりは真っ暗となった。ヒモをガチャガチャ引っ張っても明かりはつかない。・・・停電だ。
 途方に暮れて、いると今までスキを狙っていた暗闇がどっと押し寄せ、何本もの気味悪い手で全身をなで回し始めた。その中の顔をなで回す何物かの見えない手は、やがて下へ下がり、喉を優しくなでるのだった。そのうち、その手は優しくなでるのをやめ、今度は喉をしめ始めた。最初はゆるく、そしてだんだん強く。それにつれ、顔から血が引いていく。
喉がゴロゴロと鳴り出し、胃がムカつき出した。頭がクラクラして、彼はよろけた。そのとたん、彼は障子を突き破っていた。
 パリパリバリという障子の破れる音と共に、足の裏にヒンヤリとした板の感触が伝わって来た。・・・そこは廊下だった。
 彼はよろめきながら真っ暗な廊下を進んで行く。暗闇の魔の手は、彼のドキン、ドキンと大きく鳴り響く心臓を求めて、しつこく後を追い、髪の毛を逆立たせた。
 数歩歩き、ヒンヤリしたものに突き当る。・・・ここは廊下の突き当たりで、大きな鏡が壁にかかっている所だった。もう逃げられない。彼は暗黒の中で恐怖の怒鳴を上げかけた。
 ・・・その時、今来た廊下の向こうがポッと明かるくなった。・・・停電が直ったのだ。そしてあの豆電球がついたのだ。との暗闇の中では、あんなちっぽけを光でも太陽の光のように貴重だった。
 彼はフウと大きく息をついた。そして、たかが暗闇のためにこんなに恐怖におののいている自分がおかしくなった。
「フフフ・・・」
 彼は思わず笑いをもらした。と、同時にギョッとして眼をイッパイに開いた。その笑い声が、この薄暗い所では、いやに虚ろに響いたからだった。そして、まるで自分の声のようではなかった。
 イヤな感じがして、彼は恐る恐る薄暗いまわりを見渡して見た。そして再びギヨッとした。彼のすぐ横に人影が見えたからだった。しかし次の瞬間、それが鏡であることを思い出し、今度は苦笑した。もちろん笑い声などは出さずに。
 暗い鏡の中には、彼自身が立っていた。ボーッとした顔の輪郭の中に、白い歯と落ちつかなげにギョロギョロする白眼だけが浮かび上がっている。
 ・・・これが自分の顔だろうか。イヤな顔をしてやがる。
 彼は鏡の中の自分に唾を吐きたくなり、ジッと見つめてやった。すると向、こうの顔もジッとこちらを見つめている。薄暗い闇の中では、まるで悪魔のようなイヤラシサが感じられた。
 ふと気が付けば、白い歯がさっきよりなお白く光り出したようだ。そして白い眼もますますしっこくジッとこちらを見ている。なおもイヤな予感にさらされながら心ひかれるものがあってジッと見ていると、やがて眼は狂気の色を示し始め、歯はますますむき出され、口がハンニャのように大きく裂けてきた。
 ・・・こんな顔は知らない。これは自分の顔じゃない!
 そう思った時、鏡の中の顔が彼にニヤッと笑いかけた。その途端、彼の心臓は何ものかの手でギユッとつかまれ、彼は棒立ちとなった。その彼に、裂けたロの中の白く鋭い歯が、なおもイヤラシク笑いかける。
 もうガマンできなくなり、彼は眼をつふり全身の力をふりツしぼって鏡を叩き割った。
 ガシャーンという音と共に痛みが手を襲い、次いでヌルヌルしたものが手の平を伝い出した。そしてそのヌルヌルは指の先まで行ってから、ポタリ、ボタリと床に落ちて行く。
 あの顔が消え去ったのを期待しながら、彼は恐る恐る眼を開けてみた。すると床の上に、大小さまざまな鏡の破片が彼を取りまいて散らばり、その一つ一つの破片のそれぞれにあの顔が映って、彼にすさまじく笑いかけていた。そして頭の中のどこかに、狂人が笑うような、ヒステリックな笑いがこだまし始めた。
「アハッ、アハッ、アハアハアハアハ、アハアハアハアハ・・・」


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