それでも俺は知らない  高橋 恵美子

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 外は雪が降っていた。雪が重々しくたれ下がり、太陽の光を遮断していた。この雪だ、あの人達が外に出ているかもしれない。そして俺の壁も、今日のこの天気では絶対に現われないだろう。もしかしたら、ここしばらく壁のない日が続くかもしれない。そう考えると、俺はやっとはればれとした気持になった。もしかしたら、あの人達が来るかもしれない。
 雪、俺は雪が好きだった。ずっと前から、小さい頃からずっと。重々しくたれ下がった雲を背景に、あとからあとから風に舞いながら落ちて来る雪を、俺は飽きもせず、眺めたものだった。じっと上を見ていると、雪が落ちているのではなく、上に上がっているのではないかとも思えてくる。それから、俺は一人、素手で雪をつかんで、でっかい雪ダルマを作り、固い雪玉を作ってそれにぶつけるのだ。何日もかかってでっかい雪ダルマを作る。雪の容赦ない冷たさが俺には心地よい。そのあと手が真っ赤になって、カッと熱くほてってくるのさえも。
 年々、雪ダルマは大きくなっていく。汗だくになって俺は満足する。ソリも作った。スキーも何本も作った。5つか6つの頃使った小さなスキーを見ながら。それはスキーというよりむしろ玩具に近かったけれど。だがソリもスキーも滅多にできなかった。サンペーは慎重だった。
 雪ダルマを作り終え満足感が急激に薄れると、俺はいつも腹を立てた。何故だか、それはわからない。何だって俺はこんな事をしていなくちゃいけないのだ。何だって俺は毎年こんな事をしているんだ。外はすばらしい、それなのに何だって・・・。
 しかし、俺はいっだって何も考えてはいない。俺の考えはいつもこの辺で止まってしまうのだ。俺は固く握りしめた雪玉を投げつづける。投げながら、涙が出てきて止まらなくなる事がある。俺は一人なのだ。俺は一人なのだ。それでも俺は雪が好きだった。雪の降るのが待ち遠しくてしかたがないのだ。
 ああ、俺は青い空をどんなに憎んだ事だろう。青い空に浮かぶ白い雲に、俺はどんなにねたみを感じた事か。日の当たらない窓の中から俺はいつも羨望とくやしさの入りまじった目つきで、青い空と日に当たって輝いている木々、白の光の中でそよ風に揺らいでいる草とを見つめていた。日の沈みゆく瞬間、俺はいつも庭の壁によりかかって立つ。壁を通して見る太陽は淡い黄色で輪郭がぼやけている。その太陽がずっと向こう、西方の山々にゆっくりと姿を隠してゆく。青い空に浮かぶ白い雲が、低い雲から順に灰色に染まってゆく。もしくは、空全体が火のように燃え出すーその瞬間に、壁の手ごたえがうすれるのだ。俺は半透明な壁越しにしっと空を見上げながら、うすれゆく壁の手ごたえを感じている。
 壁が透明になって、燃えた空や、薄暮のまだ青味の残っている空が目に入ると、かすかに弾力を保っていた壁は完全にその手ごたえを失ってしまう。そして俺は倒れ込むように外に飛び出す。だが、俺はいつも失望を味わうだけだ。外は急激に暗くなっていく。その一部始終をサンペーはその感情のない「目」で見つめている。
 夏の間中、俺は青い空につきまとわれる。時には青い空に反逆して、俺は 日中、外の見えない部屋の中に閉じ込もる。それなのに、俺の頭の中から青い空と明るい日の光の誘惑は消え去らない。ふと気がつくと、青い空の事を考えていたり、明るい日の光の中で走り回っている俺自身を夢想している。雨は俺の涙だ。ぬれてみたって何も始まらない。青空の誘惑が強くなるばかりだ。そして憎い事に、雨上がりの空の青さと日の光は、一段と魅力を増して俺の前に迫ってくる。俺に手が出せないのを知らているかのようだ。
 俺は何度も何度も脱出を試みた。物心ついて最初の記憶が脱出の記憶だった。断片的にしか覚えていない。ー俺は暗い外に立っている。壁はまだない時間だったであろう、暗いのだから。サンペーをどうやってごまかしたのか、その辺の記憶は全くない。とにかく俺は暗い外に立っている。家からたいして離れていない場所だ。二階の部屋の窓からよく見える所で水たまりがあったのを覚えている。今思うと、きっと水たまりが太陽光線を反射して、幼いながら行ってみたくてたまらなかったのだろう。だがその後の記憶は、俺はもうサンペーに抱きかかえられていて、「いやだ、いやだ。」と泣きわめいているのだ。もう壁ができかかっていて、俺は泣きながらもう中には入れないと思う。だがサンペーは苦もなく通っていて、俺は壁の中で泣いている。壁をたたいている。
 いつもそうだった。いつも俺の脱出はサンペーにはばまれた。10になった頃だろうか、俺はあの人達に言った事があった。外に出たいのにサンペーが邪魔するんだ、と。あの人達の一人が言った。「おまえは外にいるのに。」
 みんな黙りこんでしまった。俺は楽しい思いがしたかったから、その場の雰囲気に耐えかねてあわてて違う事を訴えた。しかし、俺はいつまでたっても忘れる事ができなかった。「おまえは外にいるのに」という沈痛な声の響き、みんなが暗い顔で互いの顔を見合わせ、そして訪れた重苦しい沈黙・・・。
 あの人達は必ず雪が降っている時にやって来た。体中を黒い衣服でおおって、真っ黒な眼鏡をかけて。あの人達が来ると、日もささないのに壁ができる。厚くてほとんど不透明な壁が。壁ができたのを確認してから、あの人達は黒いものを脱ぎ捨てる。肌の色はまっ白。髪の色は黒なのだが、透明感があり、照明の具合で白く光って見える事さえある。目の色は薄い灰色だ。俺だけがみんなと違う。どことはっきり示す事はできないのだが、みんなと比べると体全体に何となく透明感がない。何故なんだと聞いたらあの人達は言った。
「おまえは、そういう風に育てら九たんだよ」
 そして、俺を痛しそうに見る。だが、俺は知っている。あの人達は俺を痛ましげに見るくせに俺をうらやましがっているんだ。
 あの人達が雪の中に消えて一、二日たつと、俺はサンペーが新しい事をやり出すのに気づく。俺の成長に合わせているらしい。
 サンペー、こいつは俺の親代わりだそうだ。フン、俺が親について知っている事はただ一つ、サンペーみたいなものではないという事だ・・・。こいつは性能のいいロボットだ。胴体に貼ってある薄い金属板、その3Pで始まる長ったらしい番号がこいつの認識番号で、俺はいつの頃からかサンぺーと呼んでいる。サンペー、こいつは俺の怒りのはけ口だ。本当にこいつをこわしてやろうとスパナを手にしてむかって行った事もある。それなのに、おまえを唯一の愛すべき存在としてなで回した事もある。あの人達の前では、うれしいにつけ悲しいにつけ感情をぶつけるような振舞いを何もできないでいる俺が。
 あの人達の前では俺はとても疲れる。あの人達が俺の様に考えたり感じたり怒ったりする存在なのだという事がわかってからは。
 ああ、サンペー、俺は最近になって考える。こんなになったのはおまえのせいじゃないかって。ああサンペー、だが俺はおまえの前にいる時が一番気が楽なのだ。何て事だ!!
     
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 考えるのはやめよう、俺は雪を眺めるのをやめて外に出る仕度を始めた。雪は降り始めたばかりで、地面に落ちるそばから黒い地肌に吸い込まれていた。だが、雪がつもっていようがなかろうが雪の降る日に家にいるなんて、俺にはできない相談だ。急いで身仕度をすませると、俺は勢いよく部屋から飛び出した。と、玄関の前でサンペーが俺の行手をさえぎるように立っていた。俺はサンペーの横をすり抜けようとした。だが、俺のその様子を見てとると、サンペーはす速く体を後に引き同時に短かく太い腕からオワン状の先端をした長い触手を出してドアのスイッチを押えてしまった。俺はカッとなってサンペーの表情のない顔をにらみつけ、次の瞬間にはサンペーをやっつけるべき手頃な武器を捜していた。
 「外に出ルンデスネ」
 サンペーのモグモグとこもったような声であった。
 「あたり前じゃないか!」
 俺は大声で言い返した。
 「コノ雪ハスグヤミマス」
 「やんだらどうせおまえが連れ戻しに来るんだ。ドアをあけろ」
 返事がなかった。サンペーは沈黙してしまった。否定するにしろ肯定するにしろ、その旨を必ず報告するサンペーである。ドアのスイッチを押えたままの姿勢で身動き一つしない。
 俺はその様子に毒気を抜かれた体であった。唐突にサンペーがしゃベり出した。
 「アナタハ今日デ確力18ニナッタワケデスネ」
 「あ、ああ、そうだよ」
 「外ニ出タイト言ウンデスネ」
 「そうさ」
 そして、奇妙な沈黙。サンペーはどうかしてしまったに違いない。
 「ドゥゾ」
 俺は一瞬聞きまちがえたのだと思った。サンペーが自分の意向を撤回するなどありえない事だから。だが、聞きまちがえたのではない証拠にサンペーは触手を引っ込めると手の骨のように細い金属棒を組み合わせた見慣れた触手を出して、スイッチを押していた。相変わらずの緩慢な動作であった。俺はポカンとしてサンペーのやる事に見入っていたに違いない。
 「ドウゾ」
 の声に一瞬ギクッとしたのだから。
 その夜、俺は興奮していつまでたっても眠れなかった。サンペーの不可解な行動が気になっていたのだ。サンペーの言った通り雪はすぐやんだ。ただ黒い地面に吸い込まれ、草をしめらせたにすぎなかった。そのうち重々しくたれ下がっていた灰色の雲のあちこちに白く明るい部分ができ始め、あたりが先程よりも明るさを増してきた。日がさしてきた。雲の切れ間から斜めに光が走った。思わず、体中が震えた。
 壁ができる!恐怖にかられてふり向いた時はもう薄い膜になっていた。サンぺーは、サンペーはどうしたんだ。どうして連れ戻しに来ないんだ。だが、俺はそこから動かなかった。日の光の下にいられるんじゃないか。こわいのか、いやそうじゃない!だが震えるんだ、何か頼るものが欲しい。俺は空を見上げていた。雲の切れ間を、斜めに走る光を、雲の光を内に秘めゆっくり割れていく白く明るい部分を。まるで魅入られたように俺は見つめていた。異状な興奮に胸がドキドキして息がつまりそうだった。しかし、急に見ていられなくなった。まぶしい!目がうずくようだ。
 ー何故、かけ出してしまったのだろう。俺はまっすぐ壁に突進していた。そして壁にすがって泣きだした。不安だった。外に取り残されるのが不安だったのだ。あの緊張に耐えきれなかったのだ。何かを大声でわめいていた。泣き声だったのか、それともサンペーを呼んでいたのか。
 半透明な壁の向うにサンペーと思われる黒い影が立っていた。そのものをサンペーと認めた時、俺は息をのんで後ずさりをした。もしかしたら、サンペーは俺を中に入れてくれないのかもしれない。いや、俺を外に追い出したのかもしれない。そんな考えが交錯した。サンペーはどうするつもりだろう。しかし、俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、サンペーは何のためらいも見せずにまっすぐ俺のいる前にやって来た。そして触手をしまい込んだ短かく太い腕を前へ上げ、まっすぐ前進した。俺はさらに、一歩退いた。最初にポカッと丸いものが表われた。腕の先端であるその丸いものはそのまま、何の抵抗もなくグーッと前へ突き出てきた。それからサンペーの胴体が、脚部が、顔が出て来た。そして体全体が外に出ないうちにサンペーは動きを止めた。妙な姿だった。俺が押しても引いてもどうにもできなかった壁を、サンペーは何の抵抗もなく通り、今サンペー自身が壁にはめ込まれている。俺は壁にさわってみたくなって、サンペーから離れたまま壁に近づいた。
 「中二入ルンデスカ」
 一瞬息の止まる思いだった。あたり前と言えばあたり前の質問。だが、今まで「中ニ入ルンデスカ。」と聞かれる事などありえなかったのだ。中にいる事が当然の事であり、天候の変化を知ると有無を言わさず、中に引っ張り込んだものなのに。
 壁はいつもと同じで、何の変わりもなかった。
 「入るよ」
 俺の声は震えていた。
 「ツカマッテ下サイ」
 言いながら、サンペーは前に上げた腕を軽く上下に振った。どうしていいのかわからなかった。
 先程から植えつけられてきたサンペーに対する不信感が、俺を素直にさせなかった。しかし、結局はサンペーの言う通りにするよりなかった。しばらくためらった後、俺は差し出されたサンペーの腕に手をあてた。
 サンペーはまっすぐ後へ下がった。彼の腕にあてた俺の手が壁に触れようとした時、一瞬俺は気づいた。抵抗はまるでなかった。
 俺ははじき返される事もなく壁を通り抜けていた。開いたままのドアが目に入った。サンペーから手を放すと、そのままドアへ、そして一階へ駆け上がっていた。サンペーの顔を見るのもいやだった。この時ばかりはサンペーが一階へ上がれない事が有難かった。何故だ。何故サンペーはあんな事をしたのだろう、慣れるという事は恐ろしい。まるでこの世が終わりにでもなったような気持ちを抱いた。
 この新しい事態に一、二日たつと俺は苦もなく慣れてしまった。まぶしいのさえ我慢すれば、いつでも外に出られるという事はすばらしかった。
 ただ残念なのは、このところ曇りがちでたまに日がさす事はあっても、満足に晴れたためしがなかった事である。今も又、雪が散らついている。俺は事あるごとにサンペーを問いつめた。何故俺は外に出ていいのか、何故今までいけなかったのか、サンペーには満足な答はできなかった。サンペーには答えようもないらしいのだ。ただわかった事は、十八になって最初の冬の日からは外に出てもいい事になっている、という事だけであった。俺はある日、ふと思いついてサンペーに聞いてみた。
 「外に出てもいいっていう事は、家に帰って来なくてもいいって事かい」
 サンペーは機械的に答えた。
 「ソウデス」
 俺はいささか驚いた。そして又、うれしくてたまらなくなった。これから何をしてもいいのだと思うとワクワクして、何故今まで退屈な生活をおくって来なければならなかったかという疑問はきれいに消え去ってしまった。

 最初に家を出たのは雪の降る日であった。俺は何も知らなかった。外に出た事がないために、外に出るにはどんな準備が必要なのか何もわかってはいなかった。外はひどく寒く、風も強かった。午後からは吹雪となり、視界 のきかない中で俺は歩くのをあきらめて横になった。翌朝、起きるとひどく頭が痛くて寒気がした。風はやんでいたが、雪は散らついていた。見しらぬ景色、見知らぬ場所、不安と重く心にのしかかってくる絶望の念だけがあった。俺は家に戻る事にした。その時になって自分がどの方角から歩いてきたのか、さっぱりわからないのに気がついた。馬鹿げた話である。その日、雪が散らついていたとはいえ、前の日よりも明るくて見通しがきいたのは不幸中の幸いであった。俺はだるい体を動かして見通しのききそうな高台に登った。
 家はすぐにわかった。歩いた割には家からそう遠くない場所であった。吹雪の中を一体どういう歩き方をしたのか、自嘲の念が胸をかんだ。家に着くと、そのまま一階のソファに寝かされた。長い空白の時間がすぎ、俺は自分が二階の部慶のまん中に据えられたべットに寝かされているのに気がついた。幼ない時以来の事であった。
 そういう風にして、俺はしばらくの間ベットから離れられなくなった。そして何事もなかったかのようにサンペーは俺の回りで動いていた。回復は遅かった。俺の心にとって、ここしばらくの状況の変化は激しすぎたのだろう。ベッドに縛りつけられている事はその意味ではいい機会であった。やっとベッドを離れられるようになると、俺は少しづつ外の空気に体を慣らし始めた。それから、外で一夜を過ごすための工夫をし磁石の扱いを本気になって練習し始めた。少なくともこういう種類の実際的な質問には、サンペーは何でも答える事ができた。ただ、俺が外の世界を知らないために有効な質問をする事ができないというだけの事だったのだ。位置を知る事がいかに重要であるか、やっとわかってきた。
 この家に帰って来る気は少しもなかったが、どう行けばこの家に着くか、それは知っておかねばならなかった。一つの目印と一つの目印がどういう方角になっているかを拠点ごとに、何らかの形で示しておかねばならないのもわかった。何回かの短かい試験旅行でこうした事を学んだ後、俺は再び出発した。冬ももうすぐ終りというどんよりした曇りの日であった。

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 近づくにつれて、俺は又方向を間違えたのではないかという錯覚にとらわれた。同じ形の家がそこにあった。降りしきる雪にかすんでうっすらとその灰色の輪郭をみせている回りの地形も、何となく俺の住んでいた家の回 りと似通っていた。俺はまっすぐその家に向かって進んでいた。ふと目を上げた時、二階に人影を見たような気がした。壁はなかった。不意にドアがあいた。女が立っていた。それしかわからなかった。女はそこにじっと立っており、出て来る気配はなかった。立ちどまりもせず、俺はただ歩いた。一人の視線が合った。彼女の顔はこわばっていた。そして俺は、半ば優越感、半ば同情と彼女を不安にさせたくないという気持ちから、ほほえみを浮かべた。俺が彼女の目の前に立った時、彼女はにこりともせず言った。
 「出て来たのね。」
 緊張のせいなのだろうか、妙にかわいた声音であった。そして中に入るようにと体をずらし、俺を促がした。内部も俺の家と全く同じ間取りであった。
 「で、何ともないの?」
 彼女が聞いた。俺は体中についた雪を払い落し上着を脱ぎながら、うろたえ気味に質問の意味がわからない、という表情をした。
 「体の事」
 「別に、何も・・・」
 「そう。さ、そこにすわってゆっくりするといいわ」
 俺は言われる通りに、足を伸ばし楽な姿勢をとった。中は暖かく気持ちがよかった。
 「少し早いけど食事にしましょぅね」
 そう言って彼女は部屋を出て行った。俺はゆっくりと部屋の中を眺めた。構造は同し部屋なのだが、部屋のもつ雰囲気はどことなく違っていた。俺は黒も眼鏡と黒いだぶだぶの衣服を身につけたあの人達の姿を思い浮かべた。外から突然やって来て、楽な姿勢でくつろいでいる。・・・。この家でもそれは同しだったに違いない。そして今は、俺がその立場にいる。俺はこの家が雪のため見え隠れしながらも黒い塊として目に入った時の事を思い出した。
〜俺は家を出た。それは、決して同じ家を捜すためではなかった。俺は外の新しい世界に住む事に魅力を感じていた。そして又、外であの人達に会う事を望んだのだ。だからこそ 雪の降っているうちに出発したかった。しかし、見つけたのは家だった。俺は考えてもみなかった。だが、それは確かにあり得る事だった。俺と同じ立場の入間がいる事は。
〜聞き慣れた物音がした。振り向くとサンペーが食へ物を運んで来ていた。俺は思わず親しげににっこりしてしまった。
低い笑い声がして俺はハッと我に返った。彼女がロボットの後から部屋に入って来た。いささか決まりの悪い思いをして俺はそばの椅子に腰を下ろした。彼女の顔をうかがうともう顔から笑いの色は消えていた。
 「食べるといいわ」
 「ええ」
 俺が食べ始めると、彼女はしばらく俺の食べる様子をじっと見っめていた。それから気を取りなおしたように食べ始めた。一切が無言のままであった。少しすると、皿の上にまだ一杯食べ物が残っているのに、彼女は自分の食器を片付けてしまった。戻って来ると、窓辺のソファーに腰をおろし、もう暗くなりかけた外の景色にじっと見入っていた。俺が食へ終る頃、ロボットがスッと前に出て、
 「オカワリハ?」
 とたずねた。俺は少し考えてやめにした。ロボットは食器とともに部屋から姿を消した。
部屋の中は静かで落ち着いた平和な雰囲気にみたされていた。というより、俺自身がそんな気分にひたっていた。眠りを誘うような快い沈黙があった。
 「いつか、こんな日が来るんしゃないかと思ってたの」
 いくらか唐突な、しかし静かな彼女の声が やわらかく響いた。
 「ううん、返事なんかしないでいいわ。ただ、私の言う事を黙ってきいててほしい」
  いつのまにか 外はもう真っ暗になっていた。絶え間なく落ちる雪が、中の明かりに照らされて浮き上がって見えた。
 「あなたが来てくれてうれしいわ。・・・でも、喜べないの。おかしいでしょ。」
  彼女の声は、少しも俺の返事を要求してはいなかった。俺の視線も又、奥行の深い闇の中に吸い込まれていた。
 「毎日、毎日、誰かが日の光を浴びてやって来るんじゃないか、そう思って外を眺めたわ。暇があるとそうしてた。でも実際に誰か来るなんて考えられなかった。実際に誰か来てどうするなんて考えた事なかった」
  彼女の声はかすかに震えているようだった。そして俺は、彼女の声を開きながらわけのわからない何かぞっとするものに触れたような気がした。いっそう低い声で、彼女は又話し始めた。
 「私、こわいわ。あなたがこわい・・・。間違えないでね。あなたは何も知らない。あなたのせいじゃないの。私がこわいのは、私の心の問題なんだから・・・」
 俺は何も言えなかった。彼女が何を考えているのか、見当もつかなかったからだ。彼女は依然として俺に背を向けていた。だが、今はもう頭を深くたれて窓の外を見ているとは思えなかった。
 「休ませていただけますか」
 俺は自分の口調が妙におずおずとしているのに気がついていた。そして、その事に又、恥ずかしさを覚えた。しかし彼女はそんな事に気がつきもしなかっただろう。彼女が俺の言葉を知覚し、その意味がわかるまでには、かなりの時間がかかった。
 「えっ、・・・ああ」
 彼女は振り向いた。
 「そうだったわね」
 低い声で言った。それから軽くため息をついて、俺の寝室を用意するために部屋を出て行った。

 次の日、俺は朝早く目をさました。最初に窓が目に入った。決して日がさすことのない窓、だが今日は、その窓のあたりに外の明るい大気がかたまりとなってただよっているかのようであった。俺は飛び起きた。そして、窓辺に棒立ちになった。声にならない嘆息が喉からもれた。− きれいに晴れ上がった空は、雲一つない。明け方やっとやんだのであろう、雪が一面をおおって輝いている。輝く白、澄んだ深い色をたたえた青。雪を支えてしなっている枝の下から、控え目にのぞいている鮮かな緑。
ー朝だ、ほんとうの朝だ、俺は思った。ただひたすらうれしかった。しあわせだった。景色全体がこんなにも生々した感じを持っているのは朝の光のせいなのだろうか。
 外に出よう、そう思った。だが、俺は二階の部屋にいた。俺はほとんどこの部屋を使った事がなかった。それは彼女にしても同じだったらしい。彼女の目をさまさずに外に出られるとは思えなかった。外に出なくても、俺は考えた。ここで眺めているだけで十分じゃないか。それにしてもすばらしい、と。
 風が吹いた。枝がかすかに揺れ、雪がきらめきながら落ちていった。枝が、雪の重みを振り払い、その緑の美しさを誇っていた。こんなにきれいに晴れ上がったのは、本当に久しぶりの事である。だが、俺は本来なら好天を喜ぶわけにはいかないのだ。天気がいい事はあの人達に会えない事を意味するから。あの日以来、俺はこれほど晴れ上がった空を見た事がない。あの日  一階の部屋のまん中に据えられたベッドの中から見たものは、本当にこの空だったのだろうか。いつものように、壁が外の真の光をさえぎっていた。俺は外の明るさに、一抹の不安と希望とを見ていた。壁のために、輪郭がぼやけ、白い雪、青い空が色のかたまりとしてしか見えなかった。   あれも、やはりすばらしかった。それにつれて、俺は過去のいろいろな瞬間を思い起こす。こうして、ぼんやりして外を見ていた瞬間を。あせり、とも憎しみともつかぬ激しい感情が俺の心によみがえる。何としても手のとどかない外の世界、日の光、青い空。
 やっと、彼女が起きたようだ、と思った頃には、もうすべてが終っていた。風は木々の雪を残らず振り落とし、全貌をあらわにした枝や葉は今やひどく薄汚なく見えた。新鮮な感じを与えた光の輝きも、ただの落ち着いたありふれた光になっている。一点の汚れもなかった雪の面には、いつ通ったのか野うさぎの足跡が点々と続いていて、きたならしかった。俺はこの時になって、さっき外に出なかった事が悔やまれてしょうがなかった。何か大切なものを取りそこねた、そんな感じがした。
 午前中、俺はなんとなく家の中をブラプラしたり、庭に出たりして壁の中で時を過ごしていた。一人ともほとんどロをきかずにいた。どちらからともなくロをきく事を避けていた。昼食がすむと、俺は外に出た。彼女に珍しいものでも取って来てやろうという気があった。ロボットがサンペーと同じようにして、俺を壁の外に出してくれた。
 外は別世界であった。俺は外に立った時、しばらくの間、まともに目をあけていられなかった。まぶしかった。だが、それと同時に顔や手に感じられる太陽の暖かさに驚いでいた。暖かい、こんなに暖かいなんて思ってもいなかった。俺はうす目を開いた。そして歩き出した。彼女は知らないのだろうか。俺よりも年が上のはずではないのだろうか。一度も外に出た事がないのだろうか。この太陽の暖かさ、この太陽のまぶしい程の明るさを知らないのだろうか。壁がさえぎっていたのだ、この太陽の暖かさも、まぶしさも。俺はふと後の壁を見た。半透明な壁を通して、彼女がガラス戸によりそうように立っているのが目に入った。何故か彼女がずっと俺を見つめていたような気がした。俺は再び歩き始めた。
 まぶしさに耐えかねて、足元ばかりを見つめていた。顔を上げるとチカチカと光る白い雪と青く輝く空が一瞬目に入った。その先はもう目をあけていられなかった。目をつぶってもまぶしいという感じは消え去らなかった。俺は左手で目をおおった。そしてそのまま、目を細めて歩き出した。家の前に広がる斜面を横切って、俺は木々の固まっている場所へと下りて行った。そこには日蔭があった。日蔭にたどりついた時、俺は目をつぶって、目の中でむずむずとうずいていたまぶしさの感覚が急激に薄れてゆくのを感じていた。だが、同時に俺を包んでいた曖かさもなくなり、ひんやりした冷気を肌に覚えた。それから、ゆっくり目を開け、日の当たる場所に目をやった。やはりまぶしかったが、先程ではなかった。日の当たる場所はまさに輝いていた。俺は自分の足元に視線を移した。見えなかった。目の前がチラチラと動く不透明なものにおおわれ、その上暗かった。俺はわけのわからない不安な気持におそわれて目を堅く閉じた。
一体、これは・・・・。だがその先は続かなかった。何が不安なのか、俺にははっきりわかっていなかった。体が震えていた。寒い事もかなり寒かった。ゆっくりと今度は気をつけて目を開いた。チラチラと動く不透明なものはまだ消え去ってはいなかった。ただ 雪の白さと木の幹の黒さとをぼんやり知覚できただけだった。俺は目をこすった。そしてパチパチとまばたきしながら目をあけた。少しづつ、不透明なものは消え去っていくようだった。少しづつ、視野が明るくなってきてもいるようだった。やっとあたりの物の見分けがつくようになった。何か憂うつな、ホッとした気分だけが残った。このまま引き返そうかと思った。だが同時に、俺は、彼女が俺の行動を逐一見ているに違いない、と感じてもいた。何故そう思ったのか、それはわからない。そして、この時になって俺はあの人達の黒い限鏡の意味に思いあたったのだ。日蔭の部分が前より明るくなったような気がした。俺は彼女の目を意識して動いた。後を向きたくなる気持をおさえ、木の根元の雪をつかんで固めると思いきり投げ上げた。枝に残っていた雪が音を立てて落ちてきた。冷たかった。それから日蔭の部分を縫うようにして歩き始めた。日の当たる場所では目をつぶるようにして、極力見るのを避けた。木の茂っている所は急な斜面になっていて、下の方では水が流れていそうだった。もう大丈夫だろう、と俺は後を振り向いた。木々を通して、太陽に輝く雪の斜面が見えた。家は完全にその姿を隠していた。彼女の視線からのがれた事を知ると、俺はそのまま雪の斜面に目をやった。斜面全体が、日の光を浴びて、まるで光る糸で織った織物のようにきらめいていた。再び、日蔭に視線を移した。目の前に大小の球とも破片ともつかぬ不透明なものがちらついた。しかし、それは先程感じたような強いものではなかった。途中の常緑樹の木々の太い幹が柔らげてくれたのであろう。では、と今度は木々の枝の切れ間から強い光を受け、明るく光っている2、3m先の日なたに目をやった。倒れた木の上に雪が積もって異様な形状をなし、折れた枝がその間からニユッと突き出ていた。しばらく見つめて、俺は日蔭に目を移した。目の前に一瞬たりともじっとしていない膜があった。日蔭は今まで感じていたよりもずっと暗くて、ほとんど何も識別できなかった。目の奥に痛みを感じた。目がうずくようだった。俺はかたく両のまぶたを閉じた。ひどく動揺しながらも、不思議にこわくはなかった。充分時間をとったのち、俺はゆっくり目をあけた。そして安心した。これが要領なんだ、俺は思った。
 確かめるのは、これで充分だった。川べリに降りていくと、思った通り小さな流れが軽い澄んだ音をたてて流れていた。水辺には薄い氷がはっていて、その上にも雪が積もっていた。そして、流れに面した方からゆっくり溶けていた。踏み割ると、軽い音がして雪の中にみるみる水が浸み込み、速い流れに消えていった。水は澄んで、流れは速かった。指をそっと入れてみた。手の切れるような、それがかえって痛快に感じられる程の冷たさだった。よし、と俺は浅い、流れの速い部分に手をひたした。冷たい、と思う間もなく、手は刺すような痛みを覚えていた。唇をかんで俺はじっと我慢した。刺すような痛みに、しびれた時のジンとする痛みが加わった。そして考える間もなく、俺は手を引き出し、思いきり振っていた。じっとしていられない程の痛みが手をおおっていた。手を振り回しながら、俺はそう快な気分を味わって一人笑い出した。浮き立つような気分が満ち満ちて、とてもじっとしていられなかった。次の瞬間には、俺は水をけ散らして走り出し、流れを飛び越え、木の枝に飛びついて、雪の上をころげ回った。俺は声高く笑っていた。しばらく後、俺はこの上もをく滴足した気持ちを抱いて、日のあたる雪の上に横になり、青空を見つめていた。額の上に腕をかかげて目の上に蔭を作っていたが、まぶしさはそれでも消えなかった。が、今の俺にはまぶしさなどどうでもよかった。いや、まぶしいからこそ、俺は満足感にひたっていたのに違いなかった。日の光、青い空  一階では壁を通してしか見られなかったし、二階では見る事はできても、暖かさもまぶしさも感じなかった。俺は大きなため息をついた。その響きは、俺自身にも、俺がどんなに満足しているか、明瞭に感じさせるものだった。
 川べリにはえていたネコヤナギの一枝を折り取って帰った時、彼女は家の中で細かい刺しゅうをしていた。それは精密で繊細な労作であったが、その繊細さ、巧妙さはむしろ異常な感じを与える程であった。
 ロボットにネコヤナギを預けて、俺は着替えのために一階へ駆け上がった。トントンと階段を降りて来ると、彼女がネコヤナギを手に取ってさわっているのが目に入つた。家の中が非常に暗く感じられた。彼女が顔を上げた。
「どうしたの、一体!」
 俺の顔を見るや、彼女は低いが、しかし心配そうに声を発した。俺が何も言わないうちに、彼女はネコヤナギを放り出して俺のそばに駆け寄った。
「自分の顔をごらんなさい!真っ赤だわ」
 顔がほてっていたのは知っていた。俺はそれを自分の興奮と、外から帰ったばかりだからと理由付けてのん気にかまえていた。鏡に映った俺の顔は自分ではないようであった。鼻と頬の上部と額とが、特に濃く見えてさわると熱かった。
 「冷やした方がいいかもしれないわ」
 彼女は部屋を出て行った。
 鏡の中の俺は不安そうに俺を見つめていた。もう一度頬に手をあててみた。その時、おや、と俺は鏡の中をのぞき込んだ。そして改めて自分の手を見やった。袖口の所に一本の線がくっきりと浮いて見えた。袖をたくし上げると、それはもっとはっきりした。 一本の線を境に、手首、手の甲が心もち濃くなっていた。この手が水につけた手である事が頭に浮かび、俺は左手をも見た。同じであった。水のせいではないのだ。冷却用の布を持ってきた彼女が、いつの間にか立っていて、俺の様子を見、俺の両手を見た。彼女は何も言わなかった。どういうものか、いまだに部屋の中が薄暗く見えて、自分の顔や手の色がはっきりと判別できなかった。まぶしくうづくようを感じがまだ目に残っていた。
 目の痛みを感し始めたのはそれからまもなくであった。目の奥の方がジンと痛み、頭も重かった。俺はソファに横になって、顔と手を冷やしていた。何の気なしに、俺は手にあてた布を払いのけ、目にあてた。
「どうしたの?」
 すかさず彼女がきいた。
「いや、別に・・・」
「嘘!何かあったのね。どうしたの、言いなさい!」
 強い語気だった。俺に対する心配というには、あまりにきびしく、冷たく、その上異常な程の興奮が感じられる。一瞬、俺はおびえた。
「目がちょっと。・・・」
「目?」
 彼女は黙った。それからそっと席を立ってしばらく戻らなかった。俺は目に布をあてたままだった。いくぶん、顔をしかめながら・・・。彼女が部屋に入って来る軽い足音が聞こえた。
「どう、具合は?」
「別に」
「そう」
 彼女がソファーに腰を下ろす音がした。
「それで、どんを具合なの、はっきり言うと」
 彼女はまるで関心のない事を聞くような物の言い方をした。俺は素直に聞かれるまま話した。時々、彼女は気のない相槌を打った。
最後に彼女は言った。
「目をあけられる?」
 俺はうなずくと布をはずして目をあけた。俺の見たものは、暗闇だけであった。
「明かりを消した?」
 俺は何も感じずに聞いていた。言ってから、何かが間違っているようなそんな気持ちに襲われた。彼女の気のない応答ぶりがすっかり俺を安心させてしまっていたのだ。
「いいえ」
 彼女の声はさっきまでの声とはすっかり異なっていた。
 その夜、興奮し狂乱状態に陥った俺を寝つかせるために、彼女は大変を苦労をした。

 次の朝、俺はやっと安心した。目の痛みが薄らぎ、部屋の中をひどく暗くはあったが見る事ができた。そして夜には、部屋の中を元通りの明るさで見た。結局これは、日なたを見て急に日蔭を見たのと同じ事だったのだろう、と俺は考えた。俺も、そして彼女もひとまず安心という番でホッとしていた。静かな部屋の中で彼女は編物を、俺はじっと横になっていた。
 続く一、二日の間、俺は.ほとんど家の中にいた。といって決して外に出なかったわけではない。俺の肌は前よりも少し色が黒くなっていた。ロボットに命じて、あの人達のしていたようを眼鏡を作らせた。外は俺にとっては常に希望のみちあふれた場所であった。俺自身には外に対する恐怖感など少しもなかった。かえって彼女の方がおびえているように思えた。

W

 夜である。夕食はもうすんでいた。彼女は俺に背を向けて外の闇を見つめていた。俺は彼女の背中を見つめていた。二人とも立ったままである。俺はわからなかった。俺はただ彼女も外に出ないかと誘っただけなのである。話の途中で彼女は突然表情を硬くして立ち上がり、こうして外の闇を相手に沈黙を続けている。彼女は振り向いた。
「あんたは何も知らないのね。ほんとに何も知らないのね」
 俺はムッとした。
「あなただって、何も知らないじゃないか。外へ出た事だってないくせに」
 彼女は目を見開いた。唇をかみしめ、両のこぶしをかたく握りしめた。
「あんたは・・・」
 言いかけて、彼女は激しく首を振った。俺はうろたえた。彼女は泣いていた。
「何も知りゃあしないのよ!」
 ほとんど絶叫に近かった。彼女は涙をポロポロこぼしながら俺に迫った。
「あたしが外に出ないのは、それは、あいつらに復讐してやるためだ。あんたは知らないのよ。あんたは、あいつらの思い通りじゃないか、あんたは!」
 彼女は俺の胸ぐらをつかんでいた。そして泣き声でそれだけわめき立てると、もう身も世もなく、俺の胸の中で泣き立てた。俺はこわくなった。彼女の泣き方はどこか異常でこわかった。
 俺は彼女をかかえるようにしてソファーに腰を下ろした。胸がドキドキした。声をかけるべきだろうか、それとも力づけるように抱きしめた方がいいだろうか。俺はボンヤリとして彼女の背中をなでていた。激しく上下に揺れていた肩がだんだんおさまってきて、時々けいれん的にヒクッヒクッと動いた。
 彼女が何かつぶやいたような気がして、俺は問い返すように
「えっ?」
 と言ってみた。
「・・・・ロウ・・・・」
 人の名前のようであった。彼女の泣き方が再び激しくなった。だが、長くは続かなかった。彼女が両手を俺の胸にあてて体を放すような素振りをみせたので、俺は立ち上がった。痛ましいようを気がして、彼女の姿が見られなかった。出て行くにも行かれなかったし、話しかけるなんてとても無理だった。彼女のしゃくり上げるような息使いと鼻をすする音がまるで俺を圧迫するようだった。特に、おさえようとしてもおさえ切れず、かえって大きな音になる息使いの響きは、聞いていて息詰まる思いだった。彼女は、何とか落ち着こうと努力しているようであった。彼女が、どうにか普通の息使いをするようになるまで、長い、緊張した時間が続いた。
「あんたは、考えた事なかったの。私達が何故こうして一人でいなければならなかったのか、考えた事なかったの?」
 見ると、彼女はソファの背に力なくよりかかって、壁の方を向いていた。うつろな目をして、低い声だった。声がまだ先程のあえぎを残して震えていた。
「あたしはね、言った事があるの、あの人達に。お願い、いっしょに連れてって、一人にしないで!それから聞いたわ。機械室の点検をしていた男の人に。まっ白い顔をして、灰色の目をしていた・・・。みんなあたしみたいに一人でいるの?」
 彼女は腕の中に顔をうずめた。何も言わなかった。だが、又静かに語り始めた。
「あの人達は私が外に出られるようになるのを待っていた」
「どうして、そんな事わかるの?」
「とうしてって、そうね、どうしてだったのかしら」
 声がとぎれた。
 「待って、そうね、そうだわ。あのロボットよ、いやらしい、あの」
「ロボット?」
「ええ、あたしが十八の時よ 雪が降っていたわ。私は外に出た。外に出て歩き回っていた。明るい夜、と思って空を見上げると日がさしてきたのよ。ハッとして家を見ると壁ができかかっているの。雪が降ってたわ。あたしは驚いて声も出なかった。雪が降っているのに、空は晴れかかっていて日がさしているし、壁ができかかっているのに私は外にいる。私、次の瞬間にはわけのわからない叫び声を上げて、泣きながら家に走ったの。壁に手が触れた時、もう家には入れないんだと思った。」
 彼女は息をついた。
「それで」
「そしたら、あいつが、ロボットがゆっくりやって来て、私を中に入れてくれた。その時わかったのよ。機械はしゃべらないけど、とにかく機械のやる事はあの人達がやってほしいと思ってる事なんだって。」
 彼女は大きくため息をついた。
「あたしが外へ出たのはその時が最後」
「そんな・・・・」
 彼女は急に鋭い目で俺の顔を見つめた。
「伺だって言うの」
 それは今までの半分つぶやくような語調ではなかった。底に激しい感情を持った、冷たい、力のこもった押し殺すような声であった。俺はやっとの思いで言った。
「馬鹿げてるよ」
 彼女はじっと俺の顔を見つめた。そして静かに言った。
「あんたは何も知らないのよ」
 俺は彼女の凝視に耐えられなかった。弱々しく視線をはずすと俺は窓の外を見た。窓枠に区切られた外の闇が目に入った。ある考えが頭に浮かんだ。
「ねえ」
 彼女はソファによりかかって天井の一角に目をやっていた。
「なあに」
「あの人達は結局僕達に何をしてほしいんだろう」
 彼女はほほ笑んだ。しかし、その笑いは顔の筋肉を収縮させた、と言う方がふさわしかったろう。
「あんた、馬鹿げてるって言ったわね」
 笑いの表情を引っ込めて、彼女は顔をそむけた。
「私はね、好きな人がいたの。あの人達の中に」
 彼女は表情の引きつるのをおさえようとして、右手で口元をおおった。それから小さくつぶやいた。
「一体、誰がこんな事を考えたのかしら」
 俺には答えられなかった。
「私、考えたのよ。こうやってずっと家にいたら、そのうちいつか、あの人達があきらめて、連れていってくれるんじゃないかって。もちろんあの人達のいる所へよ。どうしてそんな風に考えたのか、自分でもよくわからない。ただ、何となく、思ったの。外へ出ちゃいけないんだって、こうしていればいい、こうしているのが一番いい。・・・・でも、あの人達はそれ以来、来なかった。待っても、待っても・・・・来なかった。今でもあの人達を待つ気持ちは消えてはいないわ。連れてってもらおうと思ってる。でも、あれからもう五回目の冬、半分あきらめてもいるの。たぶん、私達と同し境遇のどこかの小さな子の所に行ってるんだわ」
 そうかもしれない、俺は思った。大きくなるにつれで、あの人達はだんだん来なくなった。不思議な気がした。俺達と同し境遇の人間がまだまだいると.いうのか。
「どうしてそんな事がわかる?」
「聞いたのよ、私。なかなか話してくれなかったわ。・・・・内緒で教えてくれたのよ」
 彼女は又口が重くなった。
「二年前になるかしらね、もう冬も終わりになって、三回目の失望を味わっていた頃。あの人達が来ないつもりなら、それでもいい、と思うようになったの。あの人達が憎かったわ」
 俺は黙っていた。
「そうよ、来ないつもりならそれでもかまわない。私は絶対外には出ない。そう思ったの。そりゃ、外に出たいと思った事は何度もあった。雨上がりの、緑の葉がとてもすがすがしくて、生々と活力にあふれている時、信じられないかもしれないけれど、私、外に出ようとした。何も考えずに、何も思わずに。でも、外に出してくれなかった」
「なぜ?」
「・・・冬でなければいけなかったのよ。何故だかよくわからないわ。冬だと、何のためらいも見せずに外に出そうとするんだもの。機械は機械。・・・・悲しいわね」
 彼女は又黙り込んだ。俺もロを開かなかった。彼女の言っている事がよくわかった。冬になればなったで、今度はあの人達を、いや、他の誰かを、とにかく何かを待たずにはいられなかったのだ。たぶん、彼女は冬と夏とを全く違った心を泡いて、この家の中で過ごしてきたのだ。
「絶対に外には出ないわ。絶対にあの人達の思い通りにはならない」
 彼女の頬はこわばっていた。目は鋭く前方を見つめていた。俺は思わずかたくなった。手のひらにじっとり汗をかいているのを感じた。
「たぷん、こうやっている事が、うまく言えないけど私の生きている意味なんだと思うのよ。あの人達の思い通りにならない事が」
 俺は目を伏せた。馬鹿げてる、と思った。そんな俺の反抗的な態度を認めたのか、彼女は急に語気を強めた。
「私、あなたにあの人達を殺してほしいと思ってるのよ」
 それはまさしく俺に対する挑戦だった。彼女は俺を打ちのめそうとしていた。思いがけなかった。
「そんな・・・・」
「いいえ」
 たたみかけるように、彼女は言った。
「あの人達は私達に何をしたんだと思う?何をしてくれたと思うの?あの人達は一体、私達に何をしてほしかったの?あの壁は一体何なのよ」
「やめてくれよ!」
 俺は声を張り上げた。彼女は黙った。泣き出すんじゃないかと思ったが、その気配はなかった。
「外はきれいね。日の光が当たっていて」
 静かな声であった。いやに落ち着いていた。もう何も聞きたくない、俺は目をつぶって耳をふさいだ。彼女はかまわず話し続けた。
「あなたはまだ気がつかないの?私達の生活やあの人達の行動に太陽の光がどんな意味を持っていたか」
 俺は耳をふさいだ。だが、彼女の話す声はかすかに聞こえており、俺の心とはうらはらに、俺の意識はその声に注意を集中していた。
「あの人達は、たぶん絶対太陽の光の当たらない場所で生活しているのよ。そして、誰かが外に出なければいけなかった」
「でもなぜ?」
 思わず、俺は彼女に引き込まれていた。
「わからないわ」
 彼女の答は簡単だった。
「だったら、壁を作って生活すればいいじゃないか」
「あの壁にしたって、全然光を通さないわけじゃないのよ」
「一体、太陽の光が何だっていうのさ」
「わからないわ。私だって何もわからなかったのよ。一体、あの人達が私達に何をしてるんだか。でも、やっとわかったような気がしたの。この前、あなたに起こった事で」
 俺は息をのんだ。やっとわかったのだ。彼女は俺のその様子を充分見てとった。
「私達を何だと思う?」
 俺はどなり出してしまいそうだった。そうだったのか、あの人達、あの人達は・・・。いや、彼女の言っている事は違う、どこか違う。そんなはずがあるもんか。目の前がたちまちぼやけてきた。俺はひどく興奮してしまったに違いない。涙がポロポロこぼれ落ちた。俺は急いで彼女から顔をそむけて立ち上がった。部屋を走り出て二階への階段を駆け登った。そして気がついた時には、ベットの上で涙で顔をぬらし、両のこぶしを固く握りしめているのだった。開け放したドア、吹き抜けの階段、しかし、下の気配は何も感じられなかった。一体、彼女は何を考え、何を思っているのか、ゾッとするような沈黙であった。
 俺の頭の中は混乱していた。混乱の中で、俺は必死になって彼女の言った事を否定しょうとしていた。

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 頭が重かった。目ぶたに何か乗っているような重苦しい感触があった。目を開けたくなかった。夕べの事がまだ頭に残っていた。俺は泣いた。さすがに彼女は対するしゅう恥心はあったのか、わめくような事だけはしなかった。あの人達の様々な行為や壁の事、そしてサンペーの事を脈絡もなく思い浮かべた。
 彼女の言っている事を聞達いないと認めないわけにはいかなかった。それがくやしくもあり、悲しかった。いつのまに眠ってしまったのか、眠ったという感じがなかった。起きたくなかった。動かすつもりはないのに視線が移り、窓の外が目に入った。外はまだ薄暗い。夜が明けていないようだった。俺はゆっくりと体を動かし、起き上がると窓辺に歩み寄った。
 畜生!思わず心の中でつぶやいた。何故、一階の窓を壁でおおってしまわなかったのか、その答がひらめいたのだ。外の美しさ、外の魅惑・・・・・。
「思うつぼ、か」
 薄暗くはあったが、外の様子は見てとる事ができた。白い雪、雪の間に班点のように浮いて見えるかん木の薮、黒くかたまった木々、そして空は雲がかかっていた。しかしこの景色を目の前にしながら、俺はすべてのものが日の光を浴び、青い空の下で輝いている様子を心の中に描いていた。
「馬鹿だ、俺は・・・・」
 俺は窓辺につっ立ったままじっとしていた、だが、俺は思う。何故彼女は俺達の境遇をそんなにひどいものだと思うのだろう。・・・あの人達も外へ出たかったんだ。日の光の下で、青い空の下で・・・・日の光を浴び、キラキラと輝く水面、向こう側の青々と草のおい茂った斜面、水ぎわにこんもりと茂るかん木の薮、斜面の上に一本、二本と間隔をおいて立っている木、遠くに見える森・・・俺は改めて心の中にそんな情景を作り上げた。俺は見た。水面に片手をひたし、水ぎわに顔をあてて倒れている自分の姿を。目を閉じて動かない俺の姿を。俺の体にも、日の光はまんべんなく照りつけ、俺自身の姿が完全にその情景の細部となっているのを。俺は唇をかみしめた。その姿を消し去ると、再びもとの情景にもどった。今度は、俺は立っていた。斜面の上の方である。まっすぐ前を見つめて、きびしい顔をしていた。俺は歩き出した。二歩と歩かないうちに、俺は何かにつまづいてぶざまに倒れていた。俺は立ち上がった。そして、ゆっくりと歩き始めた。目の前に、木があった。それなのに、その中の俺は気づいていなかった。そして、したたかにその木にぶつかって、痛みのために顔をしかめ、唇を色が変わる程かみしめ、今にも泣き出さんばかりの表情をした。だが、俺は又、ゆっくり歩を始めた。助けがほしいという事をはっきりと示した、情けない表情をし、両手を前に突き出して。そうやって俺は歩いていた。抜ける程青い空の色と、ふりそそぐ日光は、あの人達の存在を拒絶し、俺の存在とも無関係に、無情な程の柔らかい色をたたえている。
 俺はベッドに戻り、かたわらにひざまずいた。そしてベットの上につっ伏した。
 どの位の時間、そうやっていたのかわからない。ふと窓の外を見ると、もう外は明るくなっていた。彼女の部屋はしんとして音もない。

 外に出た時、曇っていた空から青い部分がのぞき始めていた。何が起こるにしろもう二度とここへ来る事はないだろう。俺はもう一度、空を見上げ歩き始めた。


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