犬  藤森 重臣

 朝、日の光のくすぐりで目が覚めた私は、犬になっていた。と言っても、さして私は驚かなかった。否、驚いた事は驚いたのだが私の願いが適った方の驚愕が強かったのだ。その理由は、数日前から私は犬になれたらいいのになあ、と考えるようになっていたからである。
 人間というのは陰険な生物である。表面は、御世辞、卑下、謙譲等で装っているが、一皮剥けは、貧欲の固り、俗悪な習性、自己本位で利己主義、私利、私欲、欺瞞の持ち主である。良い例が、 国の政治を執務する内閣を組織している人々が、汚職大臣の異名を持ち又、会社の重役はのけ反り返り、下っ端は扱き使われる。民主主義も糸瓜もあるものか。男女同権、市民平等は体裁だけ、中を探ればその差別待遇は、正視に耐えぬ。
 このように人間というものは、外見は真面目、潔白かの様に見えるが、裏に回れば何をやっているのか、分ったものではない。かの有名な英国の文豪、サマーセット・モームの小説に、よくその事が表わされていると思う。しかも、そういう事を書いているモーム自身も嫌らしい入だったらしい。
 五日程前、我が家で犬を飼い始めた。私はその犬の生活を見て羨ましくなった。動物はいゝ。邪心が無い。自然そのものの姿である。私は、この犬と体を交換出来たらなあと、その日から切実に思うようになった。
 そして、今朝、私は待望の犬に変身した。家族の者が起き出さぬうちに、私は一階から降りて庭に出なければならない。私は音を立てぬ様に、注意しながらそろりそろりと階段を踏み降りて行った。幸にも未だ家族の者は誰一人として起き出していない。庭に降り立って犬小屋の所に行き中を覗くと、見知らぬ人が入って眠っている。勿論、この人は私が人間であった時に、愛玩した犬の変身した姿であるのだろうが、この人は私の人間の時の顔とは、似ても似つかない。どうやら、私はこの犬と体を交換した訳ではなさそうだ。だが、そんな些細な事はどうでもよい。犬になれたのだ。その事だけで満足である。この感激、この歓喜、狂喜は一段と増し、そこら辺を置けずり回ってみたい欲望にかられた私は、表通り迄、小走りに走って行った。両耳の傍を風が音を切って唸り過ぎる。何と気持ちが良いのだろう。早朝だから人通りが疎らで、遠くの方から眠たそうな電車の汽笛が、町の静寂さを引き裂いて、耳の奥まで響き渡った。このあたりでは見かけない犬が少し、人の間を抜りて歩いている。その犬達は皆、首輪をしていない。野良犬達であろうか。そう言えば、私も首輪をしていない。今度は近距離から、一匹の犬の怒りに充ちた叫び声が、目覚めだした町の、活気を帯びた空気を伝わって、鼓膜を振動させた。通りは相変わらず疎らな人と数匹の犬が、いやいや逆である。今迄、犬の方が人の数より少ないと思っていたのだが、凝視してみると、事実はその反対、断然犬の方が多いのである。こんな事はあり得るのだろうか。
 ふと、私の頭に一抹のある考えが閃いた。私は急いで家に飛んで帰り、家族の者が寝ている寝室の襖を、そろりそろりと開けた。私の脳裏を掠めた不吉な予感は、見事的中していた。
 家族の者も、全員、犬となっていた。


戻る