その1 

 記憶の絶つ人「うさお」のことなどで、50年前のあやふやな記憶なのですが・・・。

 当時は個人情報の法律もなかった時代。巻末に会員全ての住所録を付けました。しかし、出版に至るまでに2名の脱会者が出てしまいました。その人たちも見栄を張って麗々しく載せてあるところがご愛嬌だ。
 会の発足当時は漫画の同人の仲間が手伝ってくれました。漫画家の卵でアシスタントをしていた加藤君や、高校生の時から漫画家プロ・デビューした山田さんたちです。
 高校時代の美術部仲間の菅谷さんにも監修をお願いしました。菅谷さんは発刊当時、美大に通っていましたが、畑違いの同好会のアマチュア・レベルの低さに吃驚したと思います。
 月一回の会合には、新宿の喫茶店「サニー」(だったかな?)を使っていたと思います。今思い出そうとしても、記憶に昇ってきません。「古城」、「ピットイン」などは浮かんできますが、使っていなかったな・・・。渋谷でも会合を持たなかったかなあ、喫茶店の名前が思い浮かばない。百軒店の方だったなあ。ただ、当時は渋谷に勤めていたので、渋谷を歩き回るのは会社の人に見られそうで敬遠しました。

 名簿を見ると、記憶にはっきりと刻まれている方と、はてこの方は何方だっただろうと言う両極端です。無理もありません、この当時、会員の皆さんは20歳前後(一部中学生、高校生もいました)でした。うさおなどは、就職が決まり学生の身分で入社先のアルバイトをしていました。忙しかったですねえ。人の顔を覚える暇もありませんでした。暇になった今でも、人の顔は覚えられません。
 当時は嬉しいことに、特別奨学金も貰え、アルバイトの臨時収入もありで、家は豊かではありませんが、少しは自由になる金がありました。就職すると連日深夜まで残業させられ、土曜日は半ドン、日曜日も出ました。今考えるとブラック企業ですね。
 休みが取れず、残業代で給与は2倍、でもお金を使う暇が無い。編集の仕事にも参加できず、心苦しくて印刷・製本代の一部の費用を出していました。
 「綾の鼓」の創始者ですが、会のマネージメントには一切手出しをしていません。人を使う器に出来ていなかったんでしょうね。
 出資することで、皆さんが少しうさおのことを立ててくれました。うさおの与太話を聞いてくれたのです。今までに無いことです。それは心地良かったですよ。
 元来、人とお話をするのが不得手なうさおは、半日の会合が終わると、どっと疲れました。当時活発な綾の鼓の同人達は、傍系同人誌「腹鼓」、「鼓だより」などを作成し、独自のファンジン活動を展開していました。大学生が多かったこともあるのでしょうが、他の同人誌とのコラボや、イベントなどを盛んに参加していました。
 こちらは社会人であり、時間の自由が無く、それらの情報を後になって教えてもらい、残念に思うこともたびたびでありました。羨ましかったな、彼らが。これがファンジンってもんなんじゃないかい。


No.1 表紙

No.1 裏表紙

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